マダム・ポンフリー秘蔵の強力な回復薬でもってなんとか解熱に成功したは、すぐに就寝することを約束させられた上でやっと帰寮を許された。
 長い廊下を歩きながら、ベイルダムのことを考えた。
 彼の理由は、大人だから、だった。
 しかしは首を捻る。どうしてそこで年齢が問題になるのだろう。大きな垣根で隔てられてしまっているのは、寧ろ大人の方なのに。
 子どもの間はまだいいのだ。敵だ味方だと言いながら、結局は同じ空間で同じ時を過ごす。友好的とは言えないながらも、血を見るほど険悪というわけでもない。けれど大人はそうはいかない。無知なふり、無邪気なふりはもうできない。敵と味方は明確に分けられ、下手なことをすると裏切りと受け取られかねない。そういう意味で今日の彼の行動は、致命的と言っても良かったもののはずだ。彼にとって大人の義務とは、そんな危険を冒してまで守らねばならないものだったのだろうか。
 太った貴婦人に合言葉を告げ、階段をのぼる。
 談話室では、例の5人が楽しそうに騒いでいた。

「あ、
「ほんとだ」
「おかえりー」

 明るい笑顔が、親しげな声が、自分に向けられる。
 無条件に寄せられる信頼は重く、貴重で、あたたかく、痛い。
 果たしてそれが、自分に相応しいものなのかには分からない。ただそうありたいと強く望む自分を感じていた。

「ただいまー」

 いつもどおりに笑う。
 平気なふり、楽しそうなふりで、笑ってみせるのは昔から得意だった。欺いているとは思わなかった。それが彼らの信頼に応える術だと思っていた。
 けれど違う。そうではない。信頼とは、友情とは、そんなものではなかったはずだ。

「遅かったね」

 話の輪から離れて、リーマスが寄ってくる。

「うん、図書館に行ってたんだ」

 持ちやすいようにと、マダムが貸してくれたトートバックの中身を見せる。
 『馬鹿でも分かる魔法薬学』、『複雑な分量の易しい計算法』、『ニアミスしやすい薬学 50のコツ』、『薬品の基本的な保存方法』、そして『有効だが難解な解毒薬』。

「魔法薬学ばっかりだね」
「そうだね」

 それはもちろん、のために選び抜かれた本だからだ。

「他の勉強もしようね」
「…そうだね」

 優等生に念を押されて、一瞬言葉に詰まる。薬学へのやる気は今もりもり湧いてきたところだが、だからといって勉強が好きなわけではない。困ったふうのに、リーマスはやわらかく笑う。

「でも、すごくいい本ばっかりだ」
「ほんと?」
「ほんとう」

 頬を染め、嬉しそうに、幸せそうに、にへらあっと笑う。

「友だちが選んでくれたんだー」

 スネイプがこの場に居たら本の角でぶん殴られそうだな、とちょっと思った。悪くすればそのまま埋められるかもしれない。
 それでも、友だちと呼びたい。
 友だちと思いたい。
 大人とか子どもとか年齢のことはよく分からないけれど、彼との間を結ぶものは、垣根を超える危険を冒す価値があるものだと感じるのだ。

「…そう、よかったねえ」

 リーマスは一拍の間のあと、そっと微笑んでの頭を撫でた。
 子ども扱いされてるなあ、と思いながらもまんざらでもない。

「お、いーなーそれ」

 跳ねるように近づいてきたシリウスが、便乗するようにの頭に手を伸ばしてきた。

「ぐえ」

 とりあえず、鳩尾を殴った。

「…げほっ、がはっ」
「ちょっとシリウス、突然ナチュラルに寄って来ないでよ吃驚するでしょー」
「吃驚した反応じゃねえだろ今のは確実に! なんでリーマスは良くて、俺はダメなんだよ!」
「なんとなく。ねー?」
「ねー」
「理不尽だー!」

 そうかもしれない。





 傍観者のふりはもう止めよう。
 そう決めた。
 けれど、どうすれば当事者になれるだろう。
 当たり前のように流れて行く日常の風景に、また歩みが鈍くなる。それは優しすぎて、眩しすぎて、あたたかすぎる。いつもの仲間たちに伝えたいことがたくさんあるのに、何も言葉にならない。結局その日は何もないまま、夜がふけた。
 焦る必要はなく、大切なのは覚悟だ。けれど今日自分の身に起こったいくつかの心躍る出来事が、先へ先へとを駆り立てた。
 そのせいか、目が冴えて眠れない。
 同じ部屋のリリーの寝息がやけに耳についた。不快というほどでもないが、気になって仕方がない。
 起こさぬように気をつけながら部屋を抜け出す。談話室への階段を降りながら、そっと溜息をつく。何かが解決したわけではないのに、どうしてこんなに浮かれているのだろう。逃げ続けて楽ばかりしてきた今までよりも、ずっと辛い思いをしなければならないのは自明なのに、こんなにも高揚しているのはどうしてだろう。
 胸の上に手を当てて、首を傾げる。セブルス・スネイプの歩み寄り。リディウス・ベイルダムの垣間見せた本心。自分の新しい決意。この動悸の原因に思いを馳せる。喜びでも悲しみでもない、言葉にできない何かが胸をいっぱいにしていて、眩暈さえする。
 しかし、の物思いはそこで途切れた。
 聞こえてくる、すすり泣き。
 誰かが談話室で泣いている。
 部屋に引き返すことを考えなかったわけではないが、行き過ぎるのも違う気がして、そっと影から顔を出す。
 泣いていたのはピーターだった。
 正体が思いがけず親しい友人だったことに狼狽したが、そう言えば今日はまともに彼と向き合っていない。5人組の中で特に馬が合うはずのピーターの悩みに気づかなかったのは、自分のことで頭がいっぱいだったからかもしれない。ここで見なかったふりをするのはもっと卑怯な気がして、そっと唇を湿らせた。

「ピーター…?」

 肩が跳ね上がり、振り返る。
 見開かれた目は赤く腫れている。

…」


 気まずそうな、しかし同時に少なからず安堵の混ざった声に、そっと胸を撫で下ろす。少なくとも相談役を務める権利はあるようだった。
 足音に気をつけながら歩み寄る。

「風邪ひくよ」
「…うん」

 ピーターの視線が、再び窓の外に向かう。
 夜の闇に包まれたホグワーツの庭と、大広間の天井に描かれているのと同じ暗い空が見えた。
 隣に腰を下ろし、同じように空を見上げる。空にはやけに明るい半月がぽっかりと浮かんでいる。星は見えない。
 が声をかけた時点で、涙は止まったようだった。その目は月のあたりを眺めやりながら、何か思い悩んでいるふうに見えた。何も言わなかった。相談するもしないも彼の自由だし、何を言えばいいのかも分からなかった。だから、ただ黙って待っていた。
 イギリスの夜は冷える。特にホグワーツはよく冷える、とは思った。
 故郷はまだ少し暑いくらいだろう。それとも夜風が少し涼しくなって、もう虫の声が聞こえ始めただろうか。故郷で見る月はもっとやわらかく優しい。すすきが風に揺れて歌い虫が愛を歌う季節を、は昔から愛していた。しかし今、無造作に放り出された氷砂糖のような月の青白い光は、夜の風のように冷たく、悲しい。

「ボクは…」

 溜息のように、ピーターがぽつりと言葉を吐く。

「…卑怯だ」

 悲しい。
 ピーターの悲しみが部屋に満ちている。

「彼らよりずっとずっと下にいるのに、友だちを名乗ることでその下から抜け出そうとしてる。友だちだって言いながら、肝心のときはその後ろに隠れてる。いっしょにいるだけで、いっしょに何かをしてるわけじゃない。いっしょに危険を冒す勇気もない。いっしょに戦う力もない。勉強も手伝ってもらってばっかりで、いつだって足を引っ張って」

 ぽろり、とまた一粒が頬をすべり落ちる。
 月の光が反射して、軌跡が銀色に冷たく光る。しかしそれは、本当はきっとひどく熱い。
 確かにピーターは、いつも3人のそばにいた。傍らというよりは、一歩後ろで彼らを見ていた。ピーターが当然のようにそこにいるのに対し、彼らもまたそれを当たり前に受け止めているようだった。逆に彼がいないときは違和感さえ感じるらしく、ピーターが迷子になると兄貴分を気取っているらしいシリウスは、必ず探しに出かけた。
 彼らは『4人組』を名乗って憚らない。
 周囲にその理由が分からなくても、彼らの中でそれは成立していたのだろう。
 しかしの見ている限り、彼らがピーターに意見を求めたことはない。ピーターが前面に出ていたことはない。彼はいつだって、彼らの足元から伸びる影だった。否応なくただついて回り、そのすべてを見守るだけの存在だった。
 その位置を、彼は今までどんな気持ちで占めていたのだろう。

「ボクは、3人と同じ場所に立ってみたかったんだ」

 ぽつり、ぽつりとピーターは言う。
 こぼすように、落とすように、吐きだすように、ピーターは語る。

「同じ場所に立って、同じ景色を見てみたかったんだ。ジェームズたちは…すごい、から、そんな場所から見る景色は、どんなものなんだろうって」

 地べたに這いつくばって見てきたこの景色よりも、ずっと素晴らしいに違いない。
 世界のすべてを手に入れたような、そんな優越感を味わいながら、空高く羽ばたく鳥たちの視界のような。

「だけど、ジェームズたちは優しくて、本当に優しくて、優しすぎて、だから僕は甘えてしまったんだ」

 彼らの背に乗れば、羽のない自分でも空を飛べる。
 彼らの後ろにいれば、彼らの肩越しに、見たこともなような空を見られる。

「そんなだから本当は、同じ場所に立ったことなんて、一度だってなかった」

 素晴らしい世界を知るたび、その輝きを知るたび、感じてきた優越感。
 だけど本当は、何も変わってなんかいなかった。
 彼らがいなければ、また地べたを這いつくばるだけ。羽ばたく力なんて、どこにもない。
 見てきた景色は、すべてマボロシ。

「今日、上級生のひとりに、ポッターの腰巾着って呼ばれたんだ。…反論、できなかった。反論できたことなんて、なかった」

 弱い弱いピーター・ペティグリュー。
 計算高いピーター・ペティグリュー。
 欲深なピーター・ペティグリュー。
 卑怯なピーター・ペティグリュー。

「ボクはこの5年で、まったく何も成長していないんだって、改めて気付かされて」

 腰巾着。
 そうさ僕は、彼らの優しさに甘えてた。
 彼らの背中に隠れてた。

「ボクは彼らのなんなんだろう」

 ピーターの小さな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
 それは頬を伝い滴って、膝に、服に、落ちた。

「友だちだって名乗る資格なんて、ボクにはないのに」

 日増しに膨らんでいく劣等感。
 彼らの後ろを走って追いかけるのに、突然疲れてしまった。
 いつものように並んで歩く彼らの後姿を見ながら、小さな胸を休息に支配したのは、激しい憎悪だった。
 憎かった。妬ましかった。引きずり落ろしたいと思った。スポットライトが煌々と当たる、その輝かしいステージから。
 歩みが鈍る。
 置いて行かれて1人になって、愕然として立ち止まる。
 優しい彼らを憎んでしまった。とうとう自分は、憎んでしまった。
 こんなに大好きなのに。
 こんなにも、だいすきなのに。

「…ボクは、……ボクは……」

 彼らにこんな醜い心を知られたら、もう友だちでいられはしないだろう。
 本当は、ずっとずっと、友だちでいたのに。
 ずっとずっと、仲間でいたいのに。
 4人組でいたいのに。

「やさしく、なりたいのに……、強く…、なり、たいのにっ…!」

 嗚咽するピーターの隣で、は半月を見上げた。
 半端な月は、毀れて誰かに捨てられたような痛々しい風体で、ごろりと空に転がっている。星もなく、すすきも虫も歌わない夜は、悲しいのでなく寂しいのかもしれないと、思う。青白いのはそのせいで、やけに明るいのはSOSだ。
 ゆっくりと瞬く。まぶたの裏でも、誰かが泣いている。

「友だちの資格って、なんだろうね」

 ひっそりと呟く。
 静かなこの部屋なら、それも彼の耳に届く。

「今日、いろんなことがあったんだ.。それから、友だちでいるための資格とか、友だちになるための資格とか、どこまでが他人でどこからが友だちで、一体何を仲間って言うんだろう、とか。…そんなことをね、ずっと考えてたんだ」

 今までの自分は欺くことや隠すことばかりにかまけて、誰とも本当に向き合ったことはなかった。
 いつだって不正直だった。
 どんなときだって笑えた。

「わたしね、ずっとみんなの友だちだと思ってた。友だちだって名乗ってた。でも、それだけじゃダメなんだって、それだけじゃ、まだ足らないんだなって、思った。ずっと仲間だと思ってたつもりだったのに、みんなのことを一番仲間と思ってなかったのはわたし自身だった。本当は誰も信用してないくせに、信用してくれなきゃ我慢ならなかった。それがすごく卑怯なことだって、今日になって、やっと気づいた」

 遅すぎるかな、と小さく笑う。
 視線を感じても、その顔はまだ見れない。

「みんなに信じてもらえないことを、自分がみんなを信じない理由にしちゃいけなかった。みんなが本心を隠して過ごしていることを、自分がひとを欺く言い訳にしていいわけがなかった。でも、すべてを曝け出すことが、信頼というわけでもないと思うんだ」

 友だちって、むずかしいね。友だちって、なんだろうね。
 口下手なりに、言葉を選ぶ。

「隠したいことは隠したっていいけど、でも友だちを名乗るなら、たぶん欺いたり騙したりはしちゃだめなんだ。嘘ついちゃだめってわけじゃなくて、思いやる心がなきゃいけない。嫌われないために流されちゃだめで、間違ってると思ったらぶつかっていかなきゃいけない。でも正直、嫌われるのも、ぶつかるのも、すごく怖い。友だちを失いたくないから怖い。信頼してなかったくせに、信頼されているのか不安で仕方ない。失うくらいなら、このまま前のように流されていたい」

 ソファの上で、膝を抱え、膝がしらの上に顎をのせる。

「今日はそんなふうに、いろんなことをごちゃごちゃひとりで考えていたんだ。考えてみたら友だちの定義って、思ってたよりずっと曖昧で、怖いくらいだった」

 今まで考えてた友だちの境は、今後は二度と通用しない。
 これからの友だちの境は、まだはっきりとしていない。

「ピーターの話を聞いて思ったんだけど、わたしが思う友だちの境とピーターの思う友だちの境も、やっぱり少し違う気がする」

 みんな少しずつ違う。
 もしかしたら大きく違う。

「それぞれの視点があって、それぞれが考える“友だち”があるんだね。今までわたしが考えていた友だちの境と、これからわたしが考える友だちの境は、きっともう二度と重ならないけれど、誰かの友だちの境とは重なるのかもしれない。わたしの思う友だちと重なるとしても重ならないにしても、ピーターの友だちの境はピーターだけのものだ。ジェームズや、シリウスや、リーマスの思う友だちの境がどんなものだろうと、そうだ。でもね、ピーターにとって今あいつらが友だちの域に入らないとしても、やっぱりあいつらは、ピーターを友だちだと思ってると思う。ピーターの思う境とは別の境で、ピーターとは違う価値観で、ピーターを友だちだと思ってるはずなんだ」

 それは否定しないでやってね、と微笑む。
 を見返すブラウンの目は揺れている。

「わたしはね、やっぱり、友だちだって名乗ることとか友だちだって思うことが、何もかもの第一歩だと思うんだ。そして、自分が誰かの友だちだと名乗るからには、それ相応の責任を負うってことなんだと思う。自分が決めた友だちとか仲間とかの条件を破るようなことしないっていう、覚悟がいるんだ。わらしの場合は、どんなときも流されずに逃げ出さずに、立ち向かう覚悟が。…きっとそれって、すごくすごくすごく難しい。途中で挫けてしまうかもしれない。いつか妥協してしまうかもしれない。でも、それでもわたし、みんなと、ピーターと、友だちでいたい。友だちでいたいから、」

 は笑う。
 ピーターは泣いている。

「がんばろうと思うんだ」

 膝を抱えていた腕を解いて、隣の丸まった背中に乗せる。
 泣いているときは、いつも誰かがそうしてくれていた。遠い記憶の中のしぐさで。

「ピーターはあいつらに嫉妬した今でも、あいつらの友だちでいたいと思ってるんでしょ? それなら、ピーターの思う友だちってやつに届くように、これからわたしと頑張ろうよ。5年間、成長してこなかったと思うなら、これから一緒に成長しようよ。これからまた、もう一度、わたしとも友だちになろう? わたしももうピーターを騙さないから、ピーターを信じるから、前とか後ろじゃなくてもっと近くを歩こう?」

 首をかしげて顔を覗き込むと、こくりと彼は頷いた。
 噛み締めた下くちびるが震えている。
 嗚咽が部屋に響く。
 けれど、満ちていた悲しみはなりを潜めている。

「だいじょうぶ」

 は偽りでない笑みを浮かべる。

「前にも言ったでしょ? ピーターなら、ぜったいなれるよ」

 きみの望むきみに。


























20080815