普段サングラスで隠されている瞳の色は、噂されているような赤や紫ではなく、限りなく黒に近いブルーだった。
 具合が悪いのかと問いながら覗き込んだその瞳は、動かない表情や無機質な声とは裏腹に、あたたかく、優しく、真っ直ぐに彼女を捉えた。サングラスを外さない理由の一端に触れた気がした。スリザリンの寮監として冷酷に振舞うには、あの目はあまりに正直すぎる。
 は、おひさまの匂いのするやわらかな毛布に包まれているような、あたたかな幸福を感じていた。
 彼女が越えられないと諦めていた垣根は、人の思いを阻めるほど絶対ではなかった。温もりを歪めてしまうほどではなかった。
 彼女の荷物を抱えて、少し前を歩く大きな背中を見つめる。彼女のコンパスに合わせ、さりげなく歩調をゆるめて。
 スネイプは立ち止まり、振り向いてくれた。
 ベイルダムは背後を守ってくれていた。
 幸福だった。本当はこんなにも身近に、彼らは生きていたのだ。
 医務室に着くと、彼が扉を開けた。顎で促されるまま、入った。
 ベッドメイキングをしていたマダム・ポンフリーが振り返る。
 首を縮めて突っ立ったまま曖昧に微笑むを視界に入れると、彼女もまた、呆れ返った顔をした。

「またなの?」
「またです」

 照れくさそうに笑った。

「今度はなに? また魔法薬学で失敗したの? それともまた転んだの? 壁にぶつかった? 擦り傷? 切り傷? 打ち身? 火傷?」
「ええと」
「熱だ」

 の背後から、のそりと長身の影が入室する。

「あら、ベイルダム先生。いたんですか」
「いたんだ」
「どうしてまた」
「流れで」
「……流れ?」
「ああ」
「あなたは、またそんな適当な」
「それより“また”とは何のことだ」
「あなたのことですよ」
「違う。こいつのことだ」
「え? ああ、この子はね、常連さんなんです。体が弱いうえにちょっと抜けてる子でね、しょっちゅう怪我したり倒れたりして運び込まれるんだから。そのくせ、魔法が効きにくい体質で、よっぽど強い魔法か薬でない限りなかなか治療できなくて」

 厄介な子、と心配そうに眉を顰めながら、あたたかいココアを淹れてくれる。日本人の味覚には甘すぎ、けれど優しい味。
 それを口に持っていきながら、耳の痛い話にますます首を縮める。特にほぼ真上からダイレクトに降ってくる視線が痛い。びしばしと脳天に突き刺さる。

「…………」
「…………」
「………注意力散漫」
「…すみませぇん」

 今度から気をつけます、とその場しのぎに言ってみる。
 しかし、どんなに気をつけていても結果はいつも同じだ。これでも歳と共に頻度は減ったはずなのだが。しかしそのことは黙っておこう。どんな無言の(?)お小言が降ってくるか分からない。
 無口な男はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、言葉にならなかったのか諦めた風情で溜息をついた。ポーカーフェイスのベイルダムの溜息を日に3度も聞けるなど、なかなかあることではない。聞きたいかどうかは別として。

「俺はここで失礼する」

 立ち去りかけた背中に慌てる。

「先生!」

 彼は立ち止まり、振り向いた。

「なんだ」
「サングラスのスペアは持ってるんですか?」
「いや。近日中に修理するつもりだ」
「じゃあ…」

 急いで鞄を逆さに振ってベッドの上に中身をぶちまけ、目当てのものを手に取った。

「それまで、代わりに使ってください」

 差し出したのは、使い込まれた皮製のメガネケース。
 ベイルダムは無言でそれを見下ろした。

「わたし、血筋の関係で目がちょっと日光に弱くて、長時間日に当たってると眩暈がするんです。それでサングラス使ってるんですけど、しばらく屋外の授業ないし」

 ずい、と差し出されて、思わずというふうに受けとる。

「親のお下がりで、曰くすごくすーっごく大切なものらしいから、差し上げるわけにはいかないんですけど」

 先生のサングラス、わたしが割っちゃったようなもんだし。
 熱のために上気した頬で、にへらと笑う。平気なふりは得意だが、さすがに今日はいろいろありすぎて疲れた。ハプニングもあったけれど、基本的に嬉しいことばかりで、テンションが少しおかしい。
 おかしいついでに、調子に乗ってみる。

「先生」
「……なんだ」
「ひとつだけ聞いてもいいですか」

 ベイルダムは何も言わなかった。それをは肯定と受け取る。

「どうして助けてくれたんですか」

 わたしはグリフィンドールなのに。あなたはスリザリンなのに。
 ホグワーツという箱庭にいる限り、口にしてはいけない問い。
 問うてはいけない。
 問うてはいけない、けれど。
 けれど、問わなくては何も始まらない。
 傍観者のふりはもうやめた。本当は誰よりも当事者だから。
 彼の正直な目を見上げる。
 何も見落とさないように、まばたきもせず。
 動揺も誤魔化しも見透かすように。
 しかし彼は、迷うような素振りや逡巡する一拍の間さえ見せなかった。

「俺が大人で、貴様が子どもだからだ」
「え?」

 迷いのない即答。
 揺るぎない信念。

「どんな時代でも、大人とは子どもを守るものだ」

 は虚を衝かれて黙り込んだ。
 思いがけず、彼女が見つめていた垣根とは違うところで展開された答え。
 寮ではなく、年齢。
 闇でも光でもなく、大人と子ども。
 たとえ、どんな、時代でも。
 黙り込んだ彼女をベイルダムはしばらく見下ろしていたが、やがて、のメガネケースを握ったままするりと部屋から出て行った。

「素直じゃないでしょう」

 はっとして顔を上げると、ふんわりとマダムが微笑んでいた。
 答えられず、曖昧に笑って首をかしげる。

「ホグワーツにいる先生方はね、みんな生徒思いの優しいひとばかりなのよ。無口だしスリザリンの寮監だから誤解されやすいけど、彼だって、ダンブルドアに選ばれた教師の一人ですもの。いつだって、すべての子どもたちを、すべての脅威から守ってあげたいのよ」

 マダムは微笑む。
 けれどそれは、少しだけ悲しげに見えた。

「たとえ、それが思うようにいかなくともね」










 紫外線とは無縁の地下室で、サングラスが必要なことなど滅多にない。
 ベイルダムが極端に日の光に弱いとか、人には見せたくない目の色をしているとか、メデューサのような石化能力があるわけでも勿論ない。スリザリンの寮監として振舞うには、正直すぎる目を隠すため、というのが全てでもない。
 手段ではないのだ。かけることこそが、目的。
 久方ぶりにレンズごしでない視界は今、ただ一点に注がれている。
 使い込まれた皮製のメガネケース。
 表面に指を滑らせる。なめらかで、やわらかで、大きな傷も小さな傷も違和感なく融け込み、既にその歴史の一部と化している。
 掌の上に傾けると中から滑るようにして出てきたのは、無論、から借り受けたサングラス。ずいぶん昔のものらしいが、優雅な曲線が古臭さを感じさせない。
 ベイルダムはそのフレームをなぞる。
 ゆっくり、ゆっくり。
 確かめるように。
 思い出すように。

 リディ! リディウス! 親愛なる我が腹心の友よ! 宿題みーせてっ!
 自分でやれ自分で。そんなだからお前はいつまで経っても…
 だってさー、ルーン文字なんてさー。
 だってもあさってもない。

 リディ、今日はなにするー? なにしよー?
 大広間に何か仕掛けてみるか?
 のった! あっ、新作花火持ってきた?
 俺を誰だと思ってる。
 魅惑のリディウス・ベイルダムさま!

 日の光なんて大っ嫌いだ。
 仕方ないだろ、目、弱いんだから。
 ちぇーっ。
 …。
 あーあ。外で遊びたいなー。

 うおー、これ何。今度は何つくんの?
 …サングラス。二人分。
 ………。
 俺たちともあろうものが市販のやつなんて使えないだろ。
 …。
 デザインはお前に任せるからな。
 ……ありがと。
 ………うるせえ!
 いて! ぐーで殴りやがったなこの野郎!

 地下室の薄暗い静寂の中、ベイルダムは黙って手の中のそれを見下ろす。
 先ほど砕け散った自分のものと、寸分違わぬデザイン。
 違うのはただ一点。内側に小さく、特徴的な書体で彫り込まれた、金色の「R」。ベイルダムのそれにも、同じ書体で「L」がある。

「…嗚呼、」

 痛いほど。
 胸が張り裂けそうなほど。
 かなしく、なるほど。

「懐かしいな…」

 瞼を閉じればいつだって鮮明に思い出せる、絶対唯一の相棒の笑顔。
 かけがえのない、代わりなど居ようはずもない、唯一無二のパートナー。
 魂の半身。
 片割れ。
 しかし、瞼の裏で微笑み続ける、その笑顔は今も18歳のまま。
 思い出は美しく、どんな財宝より光り輝いて、ベイルダムの奥底で眠り続けてきた。
 ベイルダムもそれを、眠らせつづけてきた。
 揺り起こすには優し過ぎ、思い出すには辛過ぎる。痛みは今も過去になり得ぬまま、目の前の現実にしがみ付いて、その傷を誤魔化してきた。
 厳格な教師。スリザリンの長。この闇の時代、その肩書きを持つからには単なるお山の大将ではいられない。威厳を保ち、純血主義を仄めかし、気位の高い名家の間で上手く処世できなければ。
 潰される。
 しかし処世だけでは、生徒を守りきることができない。家柄と気持ちとの板ばさみになって、無意識に心を捻じ曲げていく少年たちや、楽しそうに笑いあう振りをしながら影で俯いている少女たちを、救えない。に言ったあの台詞は、決して嘘などではない。真実、心からの、嘘偽りない本音だ。守りたい。大人が子どもを守るのは当然だ。あの頃、彼がそうであったように、彼らもまた守られて然るべきだ。
 しかし、守りきれない。
 未来ある子どもたちを守れない大人の一人として、無力感に苛まれながら、それでも出来得る限り影で動いた。少しでも負担が減るように。少しでも闇を忘れられるように。少しでも笑っていられるように。
 その厳しい現実に必死になって、自分の問題からはずっと目を背けてきた。
 それが、5年前。
 突然に、それは本当に突然、唐突としか言いようのない形で、亡霊は現れた。
 彼女の名前は、ある朝、ミネルバ・マクゴナガルの凛とした声によって大広間に響き渡り、彼の頭を真っ白に塗り替えた。呆然とする彼を置いて、“あいつ”によく似た少女は立ち上がり、彼のすぐそばを不安そうに早足で歩いて行った。
 黒い髪。褐色の瞳。東洋人。
 声を失っていなければ、“あいつ”の名を叫んでいたかもしれない。
 そして組み分け帽子は、高らかに獅子の名を謳った。
 相棒と同じ、獅子を。
 彼女はよく笑い、よく遊び、よくはしゃぎ、よく失敗し、よく怒られ、よく落ち込み、しかし決して泣くことなく、挫けることなく、よく笑った。
 ふやけた笑顔に面影を見た。はしゃぐ横顔に記憶を重ねた。覚えのある、だらけた話し方に揺さぶられた。
 やめてくれと叫びたかった。消えてくれとなじりたかった。
 これ以上、俺を狂わせるな。

「どうして、いまさら」

 震える手で、それを机の上に置く。
 目の奥が、熱い。
 手で覆う。
 火傷しそうだ。

「どうして…」

 娘に預けられたサングラスが、“あいつ”からのメッセージであることは明白だった。
 大切な大切な、ふたりの思い出のそれを、ベイルダムのいるホグワーツへ向かう娘に預けた。彼の目に触れるか分からない、届くか分からない、賭けのような手紙。“あいつ”のやりそうなことだ。そして、それに気付いてしまう自分も、どうかしている。
 彼の耳には聞こえる。頭に響く。今もまだ18歳のまま、時を止めたままの、相棒の声。
 ここにいるぞと。
 忘れてないよと。
 覚えているかと。
 幸せなあの頃を。あの約束を。あの誓いを。あの日々を。
 お前はまだ、覚えているだろうかと。

「忘れるわけが、ないだろう…っ!」

 忘れられるわけが、ないだろう。
 あんなに幸せな日々を。あんなに面白かった日々を。あんなに笑い合い支え合い輝いていた、俺とお前を。
 変わることなき永遠の友情の約束を。
 生涯を懸けた誓いを。

「―――っ」

 声もなく、その名を叫んだ。
 何度も何度も口にした、唇に、舌に、喉に馴染んだ、その名を。
 嗚呼、聞こえる。

 こっちは元気だぞ、お前は元気にしているか、と。

 変わらない、あの腑抜けたような笑顔で。































20080520