クィリナス・クィレルがそれを目撃したのは、まったくの偶然だった。
親友が向かったはずの図書館に行った帰りだった。
ついでに両親に書いた手紙を出してきたから、おそらくそのせいでスネイプとは行き違いになったのだろう。図書館に着いたとき、既に彼の姿はなかった。その気配がないことを確かめると、さっさとそこを出る。読書が嫌いというわけではないが、今のところ読みたいものもないし、資料が必要なレポートもない。
そのすこし前を、背の低い女の子が歩いていた。
持ってきていた鞄に入らなかったのだろう、数冊の本を両手に抱えていた。よたよたと重そうに歩いていたが、よほどその本を読めるのが嬉しいのだろうか、後姿はどことなく喜びに満ちて見えた。おそらく、さりげなく追い越して振り返れば、にまにまと笑っている顔が見れただろう。
クィリナスはそれを微笑ましく思った。
彼に寮による差別意識はあまりない。人間の特性はたった4つに分けられるほど単純ではないと思っているからだ。純血主義でないくせにスリザリンにいる自分などがいい例だ。それは彼のどこかが、計算高く狡猾にできていたということだろうが、彼自身がそれを強く意識したことはない。状況を見定め、計算し、自分の行動を決定するのは、生きているかぎりは多かれ少なかれ誰もがすることだろう。
だから、ここからは確認できないその少女のネクタイの色が何色であろうと、クィリナスにとってそれは微笑ましい光景だった。
声をかけて、荷物を持ってあげてもいいと思った。
力仕事に向いているとは言わないが、彼女よりはマシだろう。
しかし、それにはやはり彼女の寮が気になった。下手にグリフィンドールやハッフルパフだったとしたら、変な噂を立てられかねない。穏やかな学生生活を望むクィリナスとしては、権力を持った上級生や噂話の好きな輩とは事を起こしたくなかった。
どうしようかと悩みながら眺めていると、彼女はとうとう階段に差し掛かった。登る気のようだ。
そこでクィリナスは手伝うのを諦めた。あの方向にはグリフィンドール寮しかない。
しかし、彼女の足取りは相変わらず不安定で、階段を登る姿は見ていてハラハラした。柱の影に隠れ、しばらく見ていることにした。
危険なことは自覚しているらしく、慎重に足を運ぶ。ゆっくり、ゆっくり、確実に登っていく。
どうやら大丈夫そうだと視線をはずしたところで、ぎくりとした。
彼のいる場所とは間逆の柱の影に、意外な人物を見たからだ。
リディウス・ベイルダム。
本校の魔法薬学を担当し、またスリザリンの寮監を兼任する教授だ。就任してからずっとスラグホーンとクラスを分担して受け持っていたが、しばらく前に彼が退職してからは全ての仕事をひとりでこなしている。薬学の知識と経験は豊富で、授業も分かりやすいと評判だ。噂ではDADA教師としての素質も十分らしい。
ポーカーフェイスや長い黒髪、口数の少なさも彼を構成する大事な要素だが、何と言ってもそのトレードマークは、人前では一度もはずしたことのないサングラスだ。
日の光に弱いんだとか、いやあれはファッションだとか、実は盲目だとか、斜視を気にしているんだとか、様々な噂がとびかっているが真実は誰も知らない。
例のごとくスリザリン贔屓で無口で謎めいた彼が、クィリナスは嫌いではなかった。どことなく友人に似ている気がしたからかもしれない。ぶっきらぼうな話し方や、冷淡なようで常に周囲に気を配っている様子などが特に。
その彼が今、奇妙な表情で少女を見ていた。
件のサングラスをかけているのではっきりとは分からないが、普段のポーカーフェイスが微妙に崩れていた。
放心しているような、懐かしんでいるような、怒っているような。
クィリナスの知っている彼ならば、グリフィンドールの一生徒に過ぎない彼女を見ても、無関心に横を通り過ぎるか、行きがけの駄賃に理不尽な理由でいくらか減点を言い渡してもおかしくはない。けれど彼は動こうとしない。
じっと黙って、彼女を見ていた。
いや、見守っていた。
クィリナスは、そこに特別な感情を見た。
年の離れた少女への恋情なんてものではない。もっと複雑で、よく知った何かだ。
クィリナスは目をすがめて、その正体を見極めようとした。
そのとき。
ベイルダムが、目を見開いた。
はっとして見ると、少女の体がぐらりと傾いた。
時間の流れが濃密になった。
現実が、スロウ再生される
足を踏み外したらしい。よろり、と2、3歩後ろ向きに階段を下りた。
小さな両手から本が離れて、ばさばさと階段に落ちた。
かばんが滑り落ちるようにその後を追った。
踊り場もない、長い階段のほとんど最上段。
両手を振ってバランスをとろうとしたが、その甲斐むなしく、少女は更に後ろ向きに姿勢をくずした。
足が階段を離れた。
クィリナスは杖に手を伸ばした。
間に合わない。
そこに影が飛び込んできた。
彼は一足飛びに階段を駆け上がる。
彼女が倒れこもうとしていたその場所に、体を滑り込ませた。
しっかりと抱きとめる。
しかし足場が悪い。
ふたりして大きく傾いた。
彼は何を思ったか――おそらく咄嗟の判断で――階段のへりを強く蹴った。
いつのまにか取り出した杖を振り、何事か唱えた。
少女を抱えて、跳躍した。魔法の力を加えられたそれは、凄まじい跳躍力を見せた。
ふたりは固い石造りの階段を転がり落ちることなく、落ちた。
すべての衝撃から少女を守るように、彼はその小さな体を抱え込んで、床に体をしたたかに打ちつけた。
ごろごろと横に転がる。
どこかでかしゃん、と何かが割れる音がして、ようやく時は正常に流れ出した。
もぞもぞと少女が動き出しても、クィリナスは柱の影から動かなかった。
目の前で起こったことに驚いていたし混乱していたが、頭の隅にはここで出て行くのが得策でないことを計算している、冷静な自分もいたからだ。
「……おおう? もしやわたし生きてる?」
少女は目をぱちくりとして、周囲を見回した。まだ混乱しているらしい。
「なして? どして? えーだってあそこから落ちて生きてるとかこのすべすべお肌が鉄でできてない限り無理でしょー」
「……ぉい」
「ゴキ並みの生命力ってかー」
「……」
「うわーマジで生きてるよーすげーなおいー」
「………・」
「………………声が、下から」
「教師を無視するとはいい度胸だ小娘」
「………聞こえてくるよ?」
「グリフィンドール5点減点」
恐る恐る振り返り、彼女は彼を認識する。認識したくはなかっただろう。おそらくあれは現実逃避だ。
下敷きにされたままのベイルダムが、苦しそうに顔を歪めた。
「重い。どけ」
「……………ひぎゃあああぁ! すんません!!」
慌てて飛びのいたが、その際に膝だか肘だかが当たったのらしく、ベイルダムは低く呻いた。あれは痛い。
しかしそれよりも重症なのは背中の方だろう。あの高さから落ちて、二人分の体重に耐えられたとはとても思えない。
「大丈夫ですか? うわあほんとすみませんごめんなさいすみません死なないでください後生ですから!
痩せますから! これから毎日夜中にこっそり夜食として食べてるおやつとかどうしてもお腹減ったときの間食用チョコバーとかジェームズから脅し取った秘蔵のバタービールとか極限まで減らして必死こいて痩せますからあ!」
「………落ち着け」
今更痩せたってなんにもならない。
どうやら彼女はまだ混乱しているらしい。
両手を意味もなくわたわたと動かし全身で混乱を表現する少女を眺めながら、ベイルダムがゆっくりと立ち上がった。体の調子を確かめるように、ゆっくりと体を伸ばしたり捻ったりしてみる。やはりどこかを痛めたらしく、眉間にぐっと皺が寄る。しかしそれは一瞬だけで、すっと平素の彼に戻った。
「いやしかしいったい何が起こって先生がわたしの下に?!」
「……………」
ベイルダムは答えなかった。
無論、落ちてくるのを見て慌てて駆けつけたなどとは、口が裂けても言えなかっただろう。彼がスリザリンの寮監である限り。
代わりに、少女を頭から足先までじろじろと眺める。少女にはわけが分からなかっただろうが、クィリナスには彼女がどこにも怪我していないことを確認しているのだと分かった。
それに満足したのか、無関心に戻って――いや、無関心を装って――おもしろくもなさそうに服の埃を払った。そして突然、はっとしたように顔に触れる。辺りを見回す。少女も同時に気づき、息を呑んだ。
割れたサングラスの残骸。
ベイルダムはゆっくりとそれに歩み寄ると、つまらなそうに摘み上げた。
転がったときに、どこかでふたりの体重がかかったのだろう。フレームが折れ、歪み、割れたレンズははずれている。レパロの呪文でも、簡単には直せなさそうだ。
「……先生?」
数秒それを眺めていたが、ふと思いついたように杖を振り、レンズの欠片を片付けた。修復は諦めたらしい。
クィリナスの位置からでは、そのときの彼の表情は分からなかった。
「」
「はいぃ!」
「荷物の持ちすぎだ」
「すみませんっ」
「5年にもなって階段の罠に足をとられるな」
「はい」
「図書館の貴重な本を投げ出すな」
「はい」
「具合が悪いのか」
「はい……って、ええ?」
少女が俯いていた顔を上げる。ベイルダムが少し屈んで、その顔を覗き込む。
「顔色が悪い」
少女は目を零れそうなほど丸くして彼を見上げた。ぱちぱち。瞬く。
それから、まるで緊張が緩まるように、固い結び目がほどけるように、蕾が花開くように、心底から嬉しそうに笑った。
「はい!」
「…………頭も悪いのか」
「はい!」
ベイルダムが、呆れ返ったように溜息をついた。
へらへらと笑っている少女のことを見放したように放置して、彼は散らばった本を拾い上げる。何気なくその表紙に目を落とした彼は、ふと動きを止めた。
「……薬学」
クィリナスは目をこらした。視力は抜群に良い。
落ちているすべての本が、薬学の専門書だった。明後日提出の課題が、いっそ残酷なほどどっさりあったことを思い出す。クィリナス自身は、薬学馬鹿の友人を持っているおかげで苦労していないけれど。
ベイルダムが、二度目の溜息をついた。
もし彼の本質的なところが、本当に我が親友と似通っていたとしたら、少なからず責任を感じずにはいられないだろうという場面だった。
ふたりがそこを去ってから、クィリナスはまたゆっくりと何事もなかったかのように歩き出した。
と呼ばれた少女は、問答無用で医務室に連行されていった。おそらく例の薬を飲まされて、耳から煙を出す羽目になるだろう。かわいそうだが仕方がない。具合が悪いうえにあの荷物を運んだせいで階段から足を踏み外したのだから、彼女自身も懲りているだろう。あの様子では、確信はできないが。
クィリナスは、「」という響きを口の中で転がした。
思い出す。そう、たしか東洋人の留学生だ。自分と同じ学年で、まともに魔法を使えない落ちこぼれ。彼女が杖を振って、標準以上の成果をあげているところを誰も見たことがない。聞こえよがしにささやかれる”スクイブ”という言葉は、彼女の耳にも届いているだろう。それでも彼女はいつもにこにこと気楽そうに笑って、秀才4人に劣等生2人という、グリフィンドールの珍妙なグループに混じっている。
クィリナスが覚えている限りでは、確か彼女は薬学が大の苦手で、ベイルダムは彼女にいつも容赦がなかった。ベイルダムは・を、ほとんど目の敵にしているようだった。ほんの少しのミスで減点し、小さな失態で罰則を言い渡した。
しかし、今回の事件を見たからには、その見解を改めなければなるまい。
彼はあの女生徒に、特別な感情を抱いているようだった。そしてそれを恥じ、表に出すまいと必死になっている。
その感情を何と呼ぶのか、クィリナスには分かりそうで分からなかった。けれどそれは温かくやわらかいもので、恥じなくてもいいように思えた。
今見たばかりのベイルダムの焦り顔や困り顔を思い出しながら、親友にこのことを話すか話すまいか考えた。
たぶん、話さない方がいいだろう。
あの出来事を、誤解のないよう正確に伝えることができないような気がしたからだ。
クィリナスは微笑んだ。
とにかく、いいものを見た、と思った。

2008/04/26
痛みをさえ見せないで、そっけなく、あたたかく。
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