あの日ふたりで苦労して見つけた、人目から死角になった席。
 そこに彼女が座っていた。
 ぎくりとして足を止めたが、しかしどこかでそれを期待していたような気もした。
 そうでなければ、来なかった。





 悪役はいつだって、ヒーローに倒される。
 ヒーローは王子様だったり、騎士だったり、“どこにでもいるような普通の”少年だったり。
 それはまるで数学の公式のように決まりきった変わりようのないもので、お伽話はそれを巧みな文章で誤魔化したり隠したりしながら、ハッピーエンドまで続いていく。どんな苦難がやってこようと、どんなピンチに陥ろうと、幸せな結末の到来を知っている。主人公は死なない。
 それでも、そんなお伽噺を最後まで読んでしまうのはなぜだろう。
 読んでいれば、確かにその世界に引き込まれ、登場人物の一挙一動に心を動かす自分は何だろう。
 そんな、埒もないことを考えながら本を閉じる。
 薄っぺらいそれは、ぱたりと軽やかな音を立てた。椅子の上で抱えた膝に顔を埋めると、少しだけ笑う。
 最近自分はちょっとおかしい。やけにセンチメンタルだ。

 ゴツ

 とりあえず痛かった。

「何をしとるんだ貴様は」

 呆れたような声に、ぱっと振り返る。
 驚いたのは痛かったことより、その声の主に覚えがあったからだ。

「……スネイプくん?」
「…なんだ。他の誰かに見えるのか?」
「いや見えないけど」

 まさか君が自分から接触してくるなんて、思いもしなかっただけで。あの日、あんなことを言って別れたくせに。

「何か文句があるのか」

 ふんぞり返って言う姿は何の違和感もなく視界に映って、まるで当たり前のようにその顰め面を受け止めている自分に戸惑った。けれどそれ以上に、今は嬉しかった。グリフィンドールのくせに。スリザリンのくせに。
 いいや、グリフィンドールとスリザリンでも。本当はそう言いたくて。

「文句ないと本気で思ってるんなら逆にすごいよ。突然ひとの頭を本の角で殴るのには何か深い意味があるのかな」
「中身が詰まっていない頭を殴ったらどんな音がするのかという知的好奇心に突き動かされてね」

 ふん、と鼻で笑う彼の手には数冊の本。見たところすべて魔法薬学だ。さすが。
 先日見つけたこの席は、自習するにはもってこいの静かな席で、おそらくそこに鉢合わせたのだろう。接触したくはなかったが、自分の予定を曲げる気はないというところか。

「一般的に脳と呼ばれるものがこれでもかと詰まってるはずの頭なんですけど」
「私は自分の目で見たものしか信じない」
「かち割れと? そんでまさかホルマリン漬け? 趣味悪いんだねスネイプくん」
「心配するな。貴様のあるかないかも分からない脳など、ホルマリンに漬ける価値もない。そういう貴様は本の趣味が意味不明だぞ」

 彼の視線の先を追って机の上に目を向けると、先ほど読み終わったばかりのお伽噺。
 表紙では、どんな攻撃にも負けない強い鎧を身にまとった勇者が、美しい伝説の剣を高く掲げている。それに今にも襲い掛かりそうな大きな不気味な影。そしてそのうしろでは、純白のドレスを着たお姫様が救われるのを待っている。

「なんだそれは」
「スネイプくんには、これが広辞苑に見えるの?」
「誰がそんなことを言った」
「見たまんま絵本だし。みんな大好きお伽噺ですよー」
「私は嫌いだ」
「…ですよねー」

 『わーお伽噺かー私も実は大好きだぞー』とか言われても困ったけど。
 そんなにばっさり斬って捨てなくてもいいと思う。

「で」
「ん?」
「なんなんだそれは」
「これー? この本はねー、どこにでもいるような平凡な王子様が、攫われたお姫様を助けに行く旅で立派な勇者へ成長していくお話」
「……王子はどこにでもいないと思うが」
「確かに」

 お姫様を攫ったのは、不気味な城に住む悪い魔法使い。
 魔法使いはお姫様を塔のてっぺんに閉じ込めて、国を寄越せと王様に言う。

「お決まりのパターンだな」
「でしょー。でも、何となく読み出したら、止まらなくなっちゃって」

 王子様は信頼で結ばれた仲間たちの手を借りながら、魔法使いの手下たちを次々と打ち破る。
 そうして少しずつ強くなりながら、とうとう彼は魔法使いの城にやってきた。
 右手に剣を、左手に盾を持ち、勇敢に敵の根城に乗り込んでいく。目指すは幽閉されたお姫様の待つ塔のてっぺん。
 そこに立ちはだかる魔法使い。
 彼は炎を操り毒を使い、彼らの行く手をことごとく阻む。
 しかし、それも最後には。

「魔法使いは王子様の勇気ある一撃に倒れ伏しました。彼の剣は魔法使いの氷の心臓を貫き、永い永い時を生きてきた魔法使いは砂になって死んでしまいました。そうして王子様はお姫様を助け出すことに見事成功し、それに感謝した王様は、お姫様と王子様を結婚させました。王子様はやがて王様になり、立派に国を治めることになったのです。そしてみんな末永く幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」

 椅子の上で膝を抱えなおした。
 小さな丸椅子の上で器用にバランスを取るを、スネイプは呆れた目で見遣る。

「陳腐だな」
「そうだね」

 小さく笑った。

「でも、そんな話を感情移入しながら読んでしまうわたしは、もっと陳腐だ」

 陳腐な話。陳腐なわたし。陳腐な結末。
 みんなが末永く幸せに暮らせるのは、お伽噺の中だけだ。

「めでたしめでたし、なんてさ、そんなことあるわけないじゃん? 生きるってことは、そんなに単純じゃない。誰かが幸せなったら、誰かは不幸になる。みんながみんな、幸せになることなんてできないんだ」

 そんなことは、本当は誰もが分かっている。
 それでもお伽噺は言う。“めでたし、めでたし”。お姫様と王子様が幸せになったことで、誰かはきっと不幸になったはずなのに。

「この魔法使いは何を考えてたんだろうね」
「……何を?」
「うん。お姫様と国のどちらかを選べなんて言われたら、王様は辛くてもきっと国を選んだ。そんなの少し考えれば分かることでしょ? それなのにどうして魔法使いはわざわざお姫様を攫ったりしたんだろう」
「…普通そんなことを考えながら本を読むか?」
「わたしは考えるんだよ」
「考えるなよ」
「考えるよー。スネイプくんは考えないの?」
「まず読まない」
「読もうよ」
「断る」
「えー」
「…それで?」
「んー?」
「それで、魔法使いがどうしたんだ?」
「…こんな話つまんないでしょ? 聞いても仕方ないと思うけど」

 の困り顔を見て、スネイプはぎゅっと顔をしかめた。

「つまらないのは本当だが、中途半端なのはもっと嫌いなんだ。さっさと話せ」
「…仕方ないなあ」
「なんだと?」
「いえいえ。えっと、どこまで話したかな。…そうそう、魔法使いが何を考えてたのか、ね。魔法使いがよっぽど頭悪くて考えなしじゃなかたら、王様が国を選ぶことが分かっていての要求だったってことでしょ? でも王様はきっとお姫様を救いたくて、いろんな手を打つだろうってのも分かってただろうね」

 必死に娘を助けたがる父親。お姫様奪還の旅に名乗りを上げる王子様。魔法使いの城への扉を開くための秘密の鍵。唯一魔法使いを倒すことのできる伝説の剣。ドラゴンが隠し持つ最強の鎧。城に張り巡らされた茨の毒を退ける薬。さまざまなイベントが、さまざまなアイテムが、すごろくのように見事に並んでいる。あまりにも出来すぎた配置。
 最後の戦いを、心配そうに見守っていたお姫様。傷ひとつない姿で、健康そのものの体で。
 永い永い時を生き、王子様の剣の力で死んでしまった魔法使い。

「さびしかったんじゃないかな」
「魔法使いが?」
「永い永い時を、誰もいない城でたったひとり生きていくことに、疲れてしまったんじゃないかな」

 誰かと交わっても、瞬く間にみんな死んでいく。いつも自分はただひとり置き去りにされて。もう親しい誰かの死を悲しみたくなくて、住まいの城を閉ざしてしまう。永い永い静寂。ぬくもりのない生活。時は流れ、次第に忘れられて。

「死にたかった?」
「うん」
「すべては世界を巻き込んだ大掛かりな自殺だと?」
「そこまでは言わないけど、でも少なくとも、その静寂の崩壊は望んでてもおかしくないと思う」

 人の気配。向けられる感情。憎しみ。怒り。恐怖。なんだって良かった。

「生きるってことは、死に向かって進んでいくこと。終焉の見えない孤独が生きることなら、その終焉を自分でプロデュースしたくなるのも分かる気がするな」
「…自ら仕向けた終焉にしては、お粗末な気もするがな」
「そうだね。でも、魔法使いを倒せる唯一の剣を使わせるとしたら、それしかないんじゃない?」

 の白い手がそっと開いたページには、顔の見えない魔法使いの大きな影。勇敢に立ち向かい、斬りかかる王子様。正義の光。燃え盛る炎。不気味な深緑の煙。絶叫をあげ、砂になる魔法使い。大きく開けた、赤い赤い口。

「お姫様はどうしてたんだろう」
「……今度はプリンセスか」
「だって、来るか来ないかも分からない迎えをじっと待ってるなんて、そんな人いるかな? 誰もいない城で、誰が食事を用意してくれてたんだろう? 洗濯は? 着替えは? 静寂だけが支配する大きな城で、高い高い塔のてっぺんで。魔法使いとは一度も話さなかったのかな。魔法使いは何も話さなかったのかな。王子様が旅に出てから迎えに来るまでの、短くない時間を、ふたりはどんなふうに過ごしてたんだろう」
「……禁断の愛でも期待してるのか貴様は。妄想にも限度があるぞ」
「そうだけどさ、考え出したら止まらないんだよ。だってどう考えてもおかしい!」
「なにが」
「だって」

 心配そうに見守るお姫様。
 魔法使いが灰になった瞬間、彼女の拘束は安全に解ける。晴れて自由の身になったお姫様は、目にいっぱいの涙を浮かべて王子様の腕の中に飛び込んで行く。

「だって、誰も魔法使いのことを考えてくれない!」

 スネイプが驚くほど、は必死に訴えた。
 どんなタチにせよ感情移入しすぎだ。それも、敵役に。

「彼にだって彼の人生があった。彼が生き物である限り、彼にだって親はいた。彼が生まれてくることを望んだ人がいた。幼い彼を世話した人がいた。言葉や魔法や生きるすべを教えた人がいた。嬉しいことや、悲しいことや、恥ずかしいことや、腹の立つことなんかがいろいろあって、誰かに恋をしたり、友達をつくったり、誰かと愛し合ったり、そんなふうに過ごした日だってあったかもしれない。生きるって、誰にとってもそういうことでしょ?」
「………」
「理由もなく悪くなる人なんていない。悪いと思っていて自ら悪くなったのか、悪いと思わず自分の正義を信じていたかは知らない。だけど、彼には彼なりの理由があって、そんなふうに生きてきたのかもしれないのに。それなのに、誰もそれを考えてくれない」

 誰も気づかない。誰も迷わない。誰も擁護しない。
 悪は悪。正義は正義。正義は正しく、悪は滅ぼされるべきもの。
 そして魔法使いは、孤独のまま死んでしまった。

「そんなの、かなしいよ」

 開いたページには、幸せそうな王子様とお姫様。
 色とりどりの花吹雪に包まれて、王子様はお姫様の手を引き、花嫁衣裳を着たお姫様は頬を染めて笑う。
 広場に集まった大観衆が、満面の笑みで両手を天に向け、万歳を繰り返す。
 そんな、結末。
 幸せな終焉。

「考えれば、それでいいのか」

 スネイプは顔をしかめる。

「誰かがそれに気づいたら、考えたら、何かが変わっていたのか。王子は討伐をやめたのか。魔法使いは幸せになったのか。違うだろう。魔法使いが“悪”に走った理由が何にせよ、彼がやってきたことをなかったことにはできない。そして彼が本当に死にたかったんだとしたら、生は絶望の延長に過ぎない。ひととき幸せを手に入れても、結局はまたひとり残される。貴様がさっき言ったんじゃないか。誰かが幸せになれば、誰かが不幸になる、みんながみんな幸せになることなんてできないと。その通りじゃないか。何が気に入らない?」

 は唇を噛む。そのとおりだ。
 スネイプは彼女のつむじを見下ろす。

「くだらない! 何を悩んでいるのかは知らんが、慰めを求めるなら他所に行け。かわいそうにとでも言って欲しかったのか? 考えるだけで、気づかない周りを責めるだけで、結局は何もしない貴様は、何にも気づかない奴等と何が違う? 自分は何もできないと諦めて何の行動を起こさないくせに、嘆いているのはそんなに楽しいのか。悲劇のヒロインにでもなったつもりか?」

 はっと顔を上げた彼女は、驚きと恥ずかしさで奇妙に歪んだ顔をしていた。
 作り笑いに少し似ていた。
 最初は自分に責める権利なんてないことを分かっていたはずだった。しかし、誰も気づかない、誰も考えない、学校という小さな社会の中で、その意識は薄れてやがて忘れた。訳知り顔で苦笑して、何も言わずに無知を責めて、自分の言葉を閉じ込めて、それで何もかも分かっている気になっていた。

「自分を憐れんだり、報われない誰かを憐れんだり、そんなことが楽しいんなら好きなだけやっていればいい。だが、本当に誰かを憐れんでいいのは、その当事者だけだ。何もせず、何もできず、部外者で読者で傍観者でしかないだけの貴様が、無駄に頭を悩ませて何になる。同情される魔法使いにしても、貴様の憂鬱に巻き込まれる私にしても、誰にとっても迷惑なだけだ。何にも気づかず役割を演じているだけの馬鹿どもの方がよっぽどマシというものだ」

 どん!
 絵本のすぐわきに、数冊の本が叩きつけられる。彼が彼女をそれで殴ってから、ずっと抱えていた本だ。
 見上げると、そろそろ見慣れてきたお得意の顰め面。

「無駄なことを考える脳みそがあるなら、これでも読んで勉強していろ。毎回毎回、合同授業のたびに爆発の危険にさらされるなんて、それこそ、本当に、心の底から、迷惑だ!」

 それだけ言うと、踵を返して行ってしまった。
 早足で、まるで逃げるように。
 呆然とその背中を見送った。
 我に返り、積まれた本を手に取ってみる。
 一番上のタイトルは『馬鹿でも分かる魔法薬学』。
 その下は『複雑な分量の易しい計算法』。
 『ニアミスしやすい薬学 50のコツ』。
 『薬品の基本的な保存方法』。
 そして、『有効だが難解な解毒薬』。
 ほとんどが彼には簡単すぎる本ばかり。自分で読む気が最初からなかったのは確かで、それならこれは、彼がのためだけに選んで集めてくれた本だ。そして自分が静かな席で勉強するためではなく、これを彼女に渡すためだけに、この席やってきてわざわざ声をかけたのだ。
 ――もう二度と、こんなことは起こらない。
 ――
私は誇り高きスリザリン生だ。貴様のようなグリフィンドールのクズと馴れ合うつもりはない。

「…うそつき」

 心の中で責めるだけだった。ひとりでただ嘆くだけだった。何もしなかった。何も言わなかった。
 そんな自分にも、変えられるものがあった。
 目の前でひるがえった、黒いマントの端をつかんだ。彼は振り返った。不機嫌そうな顔で、けれど彼女を見た。声を聞いた。答えてくれた。
 傷ついた自分に、気づいてくれた。
 謝罪をしたり、発言を撤回したりもしたかったけれど、彼は彼なりに何かを妥協してくれたのだ。

「ありがとう」

 嬉しかった。
 胸がぎゅうぎゅうとして痛いほど、嬉しかった。
 『有効だが難解な解毒薬』を、両手でぎゅっと抱きしめる。今日はじめての本当の笑みが顔に浮かんだ。
 妄想に囚われながら絵本を読んでいても、本当ならいくらでも誤魔化せたはずだった。いつものように笑みを浮かべて、いくらでも嘘をつけたはずだった。それをしなかったのは、たぶんチャンスを逃したくなかったからだ。もう二度とないと言われたコンタクトを、最後かもしれない接触を。そしてたぶん賭けたのだ。彼の変化に。自分の思いを。

「ありがとう」

 変わらなければならないのは、本当は周りではない。
 何にも気づかず、考えず、全き正義を信じているジェームズやシリウスや、その他の人たちではない。
 誰よりも先に、自分なのだ。
 何もしないで諦めている自分なのだ。































2008/04/10

 悲劇のヒロインごっこはもうやめた。