「それ、本当?」

 告げられた言葉に、息を呑み、沈黙して、細心の注意を払って声を潜め、尋ねる。
 尋ねられた少年は、ほんのりと頬を染めて頷いた。小さな声で「ほんとう」と大切そうに囁いて。

「それって…それって…」

 胸がどきどきする。
 頬も心なしか熱い。

「すごいやあ…!」

 小さな声で秘密を祝福する。
 ああ、世界にはこんなにもあたたかいものがある。それもこんな身近に。なんて幸せなことだろう。なんて素敵なことだろう。
 目をきらきらさせて話をねだるに、少年は照れたように、けれど真剣に念を押す。

「ひ、秘密だよ? だから話したんだ。ぜったい、ぜったい、誰にも言っちゃだめだよ?」
「分かった。約束する。誰にも言わない」
「ぜったい?」
「ぜったい」

 誰にも会話が聞こえることのないよう、ますます距離を詰めて2人は小声になる。
 少年の目は優しく輝いて、見たこともないような幸せな顔で笑っている。優しい恋をするひとの笑みは、なんて優しいのだろう。胸がぎゅーっと縮んで、まで幸せな気持ちになった。

「どんな人?」
「かわいくて、すごくやさしいんだ。音楽が好きで、歌がすごく上手で、ピアノも得意なんだよ」
「わたしの知ってる人?」
「ううん、魔法族じゃないんだ。…うちの近くに住んでる、マグルの子」

 膝の上で手をもじもじさせる。その顔は真っ赤だ。
 ぎゅーっと抱きしめてやりたい気持ちになりながらも、そんなことをしたら子ども扱いしたと言って傷つくのを知っているから、その衝動を堪えて途切れがちな告白に耳を傾ける。

「おととしの夏休みに越してきたんだ。すぐに仲良くなって、それからずっと文通してた。も、もちろん、友だちとしてだけど。あのね、ボクね、彼女のこと、その、す、好きだって、気付いたのは、この間の夏休みでね。ホグワーツから帰って、家に着いたらなんだか急に会いたくなって、会いに行って、そしたら、そしたらすごく、…その…彼女が…」
「きれいになってた?」

 真っ赤になって、小さく頷いた。

「か、かわいいことは知ってたのに、そのとき、本当に本当にきれいで、ボク、ぼーっとして、いつもみたいに話できなくて」

 膝の上で握った拳を見つめている。

「ほんとに、その子が好きなんだね、ピーター」

 嬉しくなって囁くと、はにかむように、いっそ泣きそうな顔で笑った。

「へ、変だよね。ぜんぜんつり合ってないのは分かってるんだ。だけど、だけど、ボクが勝手に好きでいるくらいは、い、いいんじゃないかと思って」
「ピーター」

 握り締めた拳の上に、そっと手を置く。
 驚いたように瞬くブラウンの瞳に微笑む。

「もっと自分に自信を持ちなよ。ピーターはわたしが知ってる中で一番やさしくて、一番いいやつで、一番信頼してる友達だよ。自分をそんなふうに卑下しないでほしいな」
「…
「わたしはね、一番大事なのは、ピーターが彼女にとってどんな存在になりたいのかじゃないかなって、思うよ」

 談話室は騒がしい。2人の声は小さい。
 けれどこの談話室にいる誰よりも、2人は真剣に見つめあった。

「恋人になりたいとか、友達のままでいいとか、そんなことではなくて。そのひとに、どんなひとだと感じて欲しいのか、どんなひととして見て欲しいのか。そして、それを演じるんじゃなくて、目指さなきゃいけない。偽るんじゃなくて、変わっていかなくちゃいけない。わたしは今のままのピーターも十分好きだけど、ピーターはそうじゃないんでしょ?」
「…うん」

 ピーターは苦く笑う。
 は思う。彼は決して不出来ではない。薬学はと同じくらい苦手だが、劣等生というほどでもない。しかし、いつからだろう。気がつけば周囲はそういう目で見るようになっていた。付き合っている友人があまりにも優秀すぎるのだ。
 破天荒だが学年トップの成績を誇り、グリフィンドールの名シーカーの肩書きをも持つジェームズ。
 名家ブラックの長男に生まれながらグリフィンドールに所属し、勇敢な所業で多くの女の子を魅了するシリウス。
 病弱でお人好しだが、首席でもないのにその人望を買われて監督生に選ばれた優等生、リーマス。
 彼らといるのは楽しい。だが、彼らと過ごせば過ごすほど自信がなくなっていくのも、また事実だった。どんな長所も、彼らの前では霞んで見えた。決して敵わない、しかし決して憎むことのできない壁。
 しかしその壁も、今の彼には関係ない。彼の恋の障害には――そして言い訳にも、ならない。

「ボク…」
「……」
「…ボク、やさしく、したいんだ。前よりもっと、彼女にやさしい人に、なりたいんだ。…みんなにやさしい人に、なりたいんだ」
「うん」
「もっと笑わせてあげたいんだ。そばにいて、リラックスさせてあげられる人になりたいんだ。彼女の好きな音楽のことも勉強して、もっと楽しい話をできるようになって、彼女が困ってるときに傷つけないで助けてあげられるように、守ってあげられるようにもっと強くなって、もっと…いい人になりたい」
「うん」
「そばにいるとどきどきして、うまく喋れなくて、失望されないかこわくなって、逃げたくなって自分が情けなくて、すごく苦しくなるのに、ホグワーツに戻って彼女と遠く離れた今は、前よりもっとずっと苦しいんだ」
「うん」
「ボク、強くなりたいよ、

 泣きそうな声だった。
 搾り出すように言った、か細い声が、切なかった。

「なれるよ。大丈夫」
「ほんとう?」
「うん」

 その手を強く、ぎゅっと握った。
 このあたたかな気持ちが、確かな信頼が、少しでも伝わるように。その大切な大切な、誰にもからかわれたくない、誰にも穢されたくない、うつくしくまぶしい気持ちを、他の誰でもなく自分に打ち明けてくれたことへの感謝を込めて。

「ぜったい」

 ゆっくりと言った言葉が、彼の芯まで染みこむのを願った。
 彼と彼女の未来が、幸福であることを願った。

「ありがとう」

 震える声で呟いて、ピーターは、目を伏せて微笑んだ。





 ドスン、とソファが重く沈んで2人は文字通り飛びあがった。

「ふたりでなーに話してんだよ」
 座ったのはシリウスでよりにもよって厄介なやつにとは思ったが、話は聞こえていなかった様子なのにとりあえず胸を撫で下ろした。ピーターは頬を染めたまま、おどおどと展開を見守っている。

「ないしょばなし」
「ほっほーう」

 ずばりと言ったに一瞬ピーターはぎょっとしたが、最初から秘密であることを口にする方が、この場合は得策だ。
 持ち前の好奇心をくすぐられたらしいシリウスは、胡乱な目をして知りたそうにしたが、彼女の真っ直ぐな視線を浴びて苦笑した。話す気はないのは伝わったらしい。

「やーらしーなお前ら。俺だってオトモダチだろ、もっと仲良くやろうぜ」
「それはシリウスの今後の所業次第かな。ね、ピーター」
「え、あ、そ、そうだね。シリウスの所業はひどいもんね」
「……………」

 ピーターは純粋かつ無自覚に痛いところを突くから恐ろしい。
 シリウスは何かに刺されたように胸を押さえて前のめりになった。いちいちアクションがオーバーな男だ。自己主張が激しいともいう。

「そういえば、まーた女の子泣かしてたんでしょ?」

 話を逸らそうとが尋ねると、更に傷口を広げられたような顔をした。まるで手の届かないところがひりひりしてるというように、複雑に顔をしかめた。一応、良心は痛んでいるらしい。

「ちげーよ、あれは…」
「前に付き合ってた子?」
「…そうだけど」
「自分はきれいに別れたつもりだった?」
「……………」
「でも実はその子はまだシリウスが好きで、傷ついてて、悲しんでて、それなのにもう忘れたみたいに振舞ってるシリウスに怒って引っ叩いてそのまま泣かれた?」
「……………なんでそこまで知ってんだよ」

 図星らしい。

「いつものパターンじゃん。もう予想はつくよ」

 はため息をついた。ピーターも同時にため息をついた。
 のため息は呆れからだったが、ピーターのため息は同情からだった。その女生徒と、シリウス両方への。
 シリウスは女性経験は豊富かもしれないが、まだ恋をしたことがない。今のピーターにはそれがはっきりと分かる。一度本当に好きになったら、そんなにも簡単にその思いを消すことはできない。こんなにも胸を高鳴らせたものの温もりを、きらめきを、記憶を、そんなにも簡単に捨てることはできない。
 シリウスにはそれが分からない。

「どうして別れたの?」
「…友だちと恋人とどっちが大事なの、て聞いたから」
「………なんて答えたのかは言わなくていいよ、この友情マニア。最低」

 シリウスはむず痒そうに笑った。
 は笑わなかった。
 ピーターは胸を痛めた。

「…シリウスはそれでよかったの?」

 ピーターが我がことのように悲しげに尋ねた。

「…嘘ついたって仕方ねえだろ!」

 ピーターにまで非難されて機嫌を損ねたらしい。眉間にしわをよせてそっぽを向いた。話がこんな方向に進むとは思っていなかったのだろう、話に割り込んだことを早速後悔しているようだった。
 その拗ねた横顔に反省の色はない。当たり前だ。反省すべき点が彼には分からない。

「シリウスは、恋をしなきゃだめだよ」

 諦めたように悲しげに言って、ピーターは席を立った。
 ピーターはこのひと夏で成長した。彼は相手を思うあまり自分の意見を口に出せずいつも流れに流されてしまうが、実際は様々なことを考えているし、きちんと自分の意見を持っている。ジェームズやシリウスは、まだものごとの表面しか見ることができないが、今回のことで彼はその段階を超えたようだった。
 ピーターは優しい。人の痛みを思いやれる人だ。相思相愛と思っていたのに結局思いが届いていなかったことを知った女の子の痛みも、そうして将来必ずシリウスを襲うだろう痛みも、我がことのように感じ我がことのように悲しむ。
 置き去りにされたシリウスは、戸惑ったようにを見た。

「なんだよ、あいつ」
「みんなそうやって、少しずつ大人になるんだよ、シリウス」
「はあ?」
「かくいうわたしも成長途中なんだよ、シリウス」
「何の話だよ?」

 シリウスは首をかしげる。
 は笑う。
 自分はどこまで来たのだろう。恋をしているという自覚はまだない。ただずっとシリウスの友人でありたいと思っている。何かの拍子に恋人になってしまえば、たくさんのもの――たとえば絆だとか、たとえばこの打ち解けた空気だとかを、失ってしまうのが分かっているからだ。少なくとも、今のままのシリウスでは。女友達というカテゴリの中で、もっとも親しい友人であればいいと思った。もっとも近い位置で、彼の笑顔や幸せを見ていられる人間でいたいと思った。それは独占欲だろうか。それとも恋なのだろうか。それさえも今は分からない。

「まだまだ修行不足ってことかな」
「誰が?」

 君も。わたしも。ピーターも。みんな。

「さあ、誰でしょう?」
「あー? 分かんねえなあ。…それより、なんかピーター怒ってなかったか? なあ、怒ってたよな? 俺なんか悪いこと言ったか?」

 はにこりと笑う。

「ばっかだねー、シリウスは。そんなだからジェームズに考えなしの単細胞オバカわんこって言われるんだよ.。秘密なんて誰にでもあるもんでしょ。他人に不用意に触れられしちゃだめなものがさ。秘密を暴くものじゃなくて、明かすもの。無理に知ろうとするから、こういうことになるんだよ」
「……別に、俺はそんなつもりじゃ」
「分かってるよ。シリウスはただ暇つぶしにピーターをからかって遊ぶつもりだったんだよねー酷いよねー悪人だよねー趣味悪いねーもー最低だねー」
「そこまで言う!? 言っちゃう!? なんか俺すげえ極悪人みたいになっちゃってんですけど!」
「ピーターをこれ以上詮索しちゃだめだよ? 暴く側は楽しくても暴かれる側は無傷ではいられないんだから」
「……分かったよ」

 しゅんと項垂れるシリウスは素直だ。
 真っ直ぐで、真っ直ぐで、だから彼は彼にしか見えないものがあり、けれど多くのものが見えていない。それが幸せなことなのか、不幸なことなのかは分からないけれど、変わって欲しくないとたぶん心のどこかでは思っている。
 成長することが、変わっていくことだとしたら、真っ直ぐだった彼の向こうには何があるのだろう。
 なぜだか、見たくないような気がした。

「シリウスはとりあえず、その女癖の悪さをどうにかすべきだね」

 真面目くさったのセリフに、通りかかったリリーが噴き出した。

に恋愛で説教されるなんて、天下のシリウス・ブラックも落ちるとこまで落ちたわねえ! でもまったくその通りだわ! と言っても、もう手遅れかもしれないけど」
「リリー」
「…って、ちょ、今さりげなくわたしのことまで悪く言わなかったリリー?」
「あなたの悪行はわたしの耳まで届いてるんですからね。この間、引っ叩かれたのを怒って、女の子を泣かせたんでしょう? 噂になってるわよ」
「まじでか…」
「リリー? わたしの話きいてるー?」

 シリウスはますます前のめりになって落ち込んだ。

「まあこれだけ派手にやってれば、そりゃあ噂にもなるわよねえ。まあ噂ていうか限りなく真実に近いのが問題なんだけど。ていうか、まだ15歳なのになんなのその恋愛遍歴は? 10代の甘酸っぱい青春というより、むせ返るような香水と血の臭いがしそうよね。修羅場の連続? 学習能力のない単細胞はこれだから嫌よね。趣味が悪いたらないわ!」
「オーケーまったく聞こえてないねリリー」
「……うるせーやい。恋愛経験のないカタブツ監督生のくせに」
「…なにか言ったかしら、そこの女たらし」
「あーもーやめなよーふたりともー」
「おえらい監督生さまはお部屋に戻って大好きな蛙のお相手でもしてたらどうですか、って言ってんだよ!」
「キレんなよシリウスー」
「なんですってえ!? ちょっと、そこに座んなさいシリウス・ブラック! 今日という今日は許さないわよ!」
「許さなかったらなんだよ、え? 何ができるのかなーリリー・エヴァンスー?」
「目にもの見せてやろうじゃないの?」
「やんのかあ!?」
「やるわよ!」

 きいちゃいねえ。
 仲裁を諦めたは、とりあえず2人の喧嘩を遠くから見学しているリーマスの隣に避難する。

「やあ、。逃げてきたの?」
「うん、逃げてきたの」
「止めないの?」
「止められないの」
「なるほど」
 リーマスはポケットからチョコを取り出し、に進める。
 ホワイトチョコはあまり好きじゃないが、せっかくだから受けとっておく。
「見てるの?」
「うん」
「止めないの?」
「止まると思う?」
「思わないけど」

 リーマスは微笑んで肩をすくめる。楽しそうに見えるのは気のせいなのか。

「…楽しそうだね」
「楽しくないの?」
「…うーん。個人的に血気盛んな若者は嫌いじゃないんだけどね。あの溢れんばかりのエネルギーは、も少し他のところに使うべきだよねー」

 リーマスは声を上げて笑った。

! 年寄りくさいよそれ!」

 さすがにそれを彼に言われたのには傷ついた。ということを正直に打ち明けたら、さすがに彼も傷つくだろうか。
 そしてシリウスとリリーの一触即発の空気をぶち壊したのは、何を勘違いしたのか大騒ぎのジェームズだった。
 いつもどおりの喧騒に包まれるグリフィンドールの談話室で、誰もが笑っていた。






























2008/04/06

恋を知った少年。恋を考える少女。恋を知らない少年。