「友だちになりたい、っていうのは贅沢なのかな」

 誰にも聞こえないように呟くと、膝を抱えて顔を伏せる。
 談話室の窓辺。2人がけのソファの端。快晴の日などは格好の日向ぼっこスペースだが、今日の空はどんよりと曇っている。どうせなら降ればいいのにと思うのに、泣き出しそうな灰色をしているだけで結局降りそうにない。
 騒がしい談話室の賑やかさにかき消された小さな呟きが、床にひっそりと転がっている。
 拾われないように言ったのはだ。けれど拾えるように言ったって、拾ってくれる人はいない。ここがグリフィンドールの談話室である限り、永遠に。それを寂しいと思うのは悪いことだろうか。それを悲しいと思うことは、裏切りなのだろうか。
 初めて話をしてまだひと月も経っていない。
 なぜ彼にこだわるのか自分でも分からなかったが、理屈ぬきに彼との時間は楽しかったのだ。
 偶然の出逢い。一か八かのSOS。義務感による親切。握り締めたマントの端。走らされた石畳。大きな借り。交わった視線。図書館。一冊の本。有効だが難解な解毒薬。平行線の押し問答。隠そうともしない溜息。簡潔すぎる自己紹介。心地よい沈黙。分かりやすい説明。呆れた声。降ってくる悪態。こみ上げる笑い。
 他愛もないほんのひとときが、あんなにも心を軽くしたのはなぜだったのだろう。別れ際言われた言葉に、どうしてあんなに傷ついたのだろう。聞き慣れたセリフ。グリフィンドールだから。スリザリンだから。グリフィンドールなんて。スリザリンなんて。グリフィンドールのくせに。スリザリンのくせに。
 もう慣れたはずなのに、こんなにもいたいのはなぜ。

「どうかしたのか?」

 予想外に近くで声がして、がばりと顔を上げる。
 いつからいたのか、目の前には心配そうに屈みこんだ少年。黒髪。黒目。

「シリウス…」
「腹いてぇの? 変なもん食った? あ、生理痛?」
「え、なに、そんな殴られたいのマジで? ボディ? ボディがいいの?」
「いやごめんなさいすみません冗句です!」

 手を合わせて謝るので、半ば本気で握った拳を渋々下げる。
 どこまでもデリカシーのないヤツだ本当に。今にはじまったことではないが。

「元気ねぇの?」
「ううん、別に。ちょっと眠いだけ」
「なんだよ心配して損したー」

 冗談めかしてけらけら笑う彼の顔には、安堵が確かに刻まれていて胸があたたかくなる。
 シリウスは馬鹿で阿呆で考えなしで単純だけど、友だち思いのいいヤツなのだ。それはたぶん、グリフィンドールのみんなが知っている。誰かが風邪を引いたら真っ先に様子を見に行き、甲斐甲斐しく世話を焼く。クィディッチで誰かが怪我をしたら、すっ飛んで行って背負ってくれる。こうして誰かが落ち込んでいるときは、一番に気がついて励まし、笑わせてくれる。それだからみんな彼の馬鹿を、呆れながらも笑って許してしまうのだ。

「シリウスは…」
「ん?」

 どうしてスリザリンが嫌いなの。
 言いかけて、止めた。
 聞いてはいけないことだった。
 少なくとも、ホグワーツの敷地内で口にしていい問いではなかった。彼女がグリフィンドールである限り、永遠に。
 代わりに、にっこりと笑う。

「どうしてそんなに馬鹿なの?」
「……え、ちょっとムゴすぎねえそれ?」
「世界七不思議じゃないこれ?」
「え、そんな世界規模の疑問なのそれ?」
「知らないの? マジで? ますます馬鹿じゃない?」
「うわ、ちょっマジきついってその笑顔」
「女の子の笑顔に向かってきついって何それどういう意味?」
「ってかあと6つって何?」
「え、無視? 無視するのこのわたしを? っていうかほんとに知りたいのそれ?」
「…やめとく。どうせ全部俺関係だろ」
「せいかーい! すごいねーシリウス、ちょっと賢くなったねー。よかったねー。進歩だねー」

 手を伸ばしてヨシヨシと頭を撫でる。
 突然のヨシヨシに一瞬きょとんとしたシリウスは、みるみるうちに拗ねた顔になった。要するに照れているのだ。この坊っちゃんめ。
 図体のでかいハイティーンの男が、頭を撫でられたことに照れて拗ねた子どものように頬を膨らませている光景なんて、滅多に見れるものではない。そのうえ意味もなく笑いを誘う。堪えきれず噴き出し、腹を抱えて笑っていると、騒ぎを聞きつけたリリーやリーマスが寄ってきた。

「なになに? なにを笑ってるの?」

 が息も絶え絶えに、「シリウスって馬鹿だよねって話」であることを伝えると、

「え。今更そんな当たり前の話で笑えるの? すごいね。僕もう無理だよ」

とリーマスは呆れ顔。
 両手に顔を埋めて「俺って…俺って…」と膝をつき泣き崩れるシリウス。
 馬鹿は無視することにしたらしいリリーは、苦しそうに笑い続けるの背中をさすっている。
 秘密がある。
 意識するたびに張り裂けそうなほど胸が痛む。
 闇の時代という渦の中では、指摘を許されない歪みがある。
 口にしてはいけない言葉がある。
 たった一言を口にするだけで亀裂の入る友情しか、ここでは育むことができない。
 グリフィンドールが正義を望む限り。闇の帝王と呼ばれる男がスリザリンを求める限り。この世界はいびつに歪められたまま。
 それなのにここは、こんなにも心地いい。
 笑い過ぎて浮かんだものを、笑いながら袖口で拭った。
 失いたくない。





 有効だが難解な解毒薬。
 本当は以前から購入したかったのだが、図書館に在庫があることに甘えて他を優先し、結局買わなかった本。
 せこいことをせずに買っておけばよかったと、今更後悔しても遅い。あの後、レポートは終わったはずなのになんとなく貸し出しの手続きをして部屋に持ち帰ってしまい、今もこの手の中にある。読み返したいところなら何箇所もあるはずなのに、まったく手につかない。あの顔がちらつくからだ。
 苛立ちに任せて本を放り出し、ベッドに倒れこむ。すっかり馴染んだ天蓋付きのそれがぎしぎしと鳴った。

「機嫌悪いの?」

 クィリナスが問う。
 ごろりと転がって声のした方を見ると、床に座り込み、いつものようにカードでピラミッドを作っている。

「…別に」
「そう?」

 まだ2段目だ。角度を変えて観察し、慎重に微調整を繰り返す。
 彼は暇さえあればああしてカードで遊んでいる。部屋に一式、制服のポケットに一式常備している。

「…楽しいか?」
「うん」

 手は止めたが振り返りはせずに、クィリナスは笑った。

「何千回目かな、その質問」

 そうやって笑うだろうと分かっていて問うたスネイプは、想像と寸分違わぬ横顔と科白に、少し表情を緩める。
 5年間、暇さえあればカード遊びをしているクィリナスに、問いつづけてきた疑問。答えはいつも変わらないが、スネイプは未だによく分からない。だが、そうしているクィリナスを眺めるのは、嫌いではない。それに、無防備に表情を緩めることができるのは、クィリナスがこっちを見ていないからだ。彼もそれを分かっていて、だからわざと振り返らない。笑っていると知っているからいいのだ。そしてスネイプも、わざと振り返らないクィリナスを知っていた。
 部屋がまた静かになる。ここの沈黙は穏やかで心地いい。クィリナスの息や、トランプの擦れる音が優しい。
 天蓋を見上げて、腕で目を覆う。
 またあの顔が浮かんでくる。あの気持ちの悪い笑顔。
 苛々した。
 得体の知れない何かがもやもやと彼を包んで混乱させる。

「分からないんだ」

 スネイプの苦々しげな告白。
 クィリナスは振り返らない。相槌も打たない。だが手は止めた。聞いてるよちゃんと。

「間違ったことなんて言ってない。私が言ったのは真実だし、常識だし、暗黙のルールだ。正しいことだ」

 もう二度と、あんなことは起こらない。
 スネイプはスリザリン、彼女はグリフィンドール。
 闇と光。
 影と日向。
 出逢いも、再会も、間違いだった。もう間違いは起こらない。起こってはいけない。
 誇り高きスリザリン生だから、彼女のようなグリフィンドールと馴れ合うことなどあってはいけない。
 当たり前だ。常識だ。間違ってなんかない。

「正しいことを言ったのに」

 閉じた瞼の裏。
 持ち得る全ての絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜてかき回したしたような色の視界。黒に近い。けれど決して黒になれない。闇には程遠い。

「どうしてこんなに何度も思い出すんだ」

 分からない。
 完璧な曲線を描いた唇。やわらかく細められた目。少しだけ傾げた首。おどけたような明るく楽しげな声。赤褐色に閉じ込められた黒。その向こうを過ぎった何か。
 何度も何度も思い出す笑顔。

「セブルス」

 顔を覆った腕はのけない。瞼は上げない。体も起こさない。
 ただ黙った。聞いている。

「間違ってないことを言うことが、いつも正しいとは限らないんだよ」

 クィリナスは滑らかなカードの表面を撫でた。
 使いすぎて擦り切れた縁をなぞった。

「傷つけたことを後悔してるなら、謝ってきたら?」

 後悔。
 息を呑んだ。
 胸を締め付けつづけた得体の知れない霧に、その瞬間、名前がついてしまった。
 図書館を後にするとき、あんなにも後味が悪かった意味が分かってしまった。
 そして多分、同時に気付いてしまった。
 “そんなもの”と言った彼女の言葉もまた、同じくらい“間違っていない”ことに。

「いやだ」

 ちくしょう。

「謝るくらいなら死んだ方がましだ」

 ちくしょう。ちくしょう。

「後悔なんてしてない」

 だからグリフィンドールなんて嫌いなんだ。





 でももう、二度と言わない。

























2008/03/06
 あんなふうに傷ついた顔で笑うなら。