あんな些細な出会いなど、忘却の彼方へと追いやられて行くのだと思っていた。
名前は知っているし、会話らしき接触もあった。だが、コレといって接点などなく、話しかける理由も気にかける必要もない。
だからこそ、別になんということもないその出会いが妙に強く印象に残り、頭の隅では引っかかっていたとしても、忙しい学生の日々の中でやがては薄れていくものだと信じていた。
その日、タッチの差で目当ての本を掻っ攫って行かれるまでは。
「待て、貴様! それは…」
「……………………あ」
小さな手が自分の目の前でその本を手にしたのにムッとして、咄嗟に声をかけた。声をかけてから、後悔した。
振り返った女が、例のグリフィンドール生だったからだ。
本人も自分が横から奪う形になったことに気付いたらしく、少し慌てた様子だったが、彼を見て動きを止めた。彼女にとってもこの再会は想定外だったらしい。
「…えっと」
「…」
黙ってしまった少年に、は困惑して立ち尽くした。
の趣味は読書だ。マグルの本も魔法界の本も、好き嫌いはあるものの偏見なく読む。物語が好きで、特にファンタジーや恋愛モノに目がない。魔法界のものは自伝や伝記でも、マグルの中で育ったにとってはファンタジー小説と大差ないのだが。
しかし休日の今日に図書館へ足を運んだのは、物語を読むためではない。締め切りが明後日に迫ったレポートを書くためだ。授業のノートや手持ちの教科書だけではとても足りない。読書仲間であり素晴しく成績の良い友人リリーにオススメを聞き、急いでやって来たのだ。タイトルは『有効だが難解な解毒薬』。少し古いが分かりやすいらしい。
異常なほど薬学が得意なことで有名なセブルス・スネイプが同じ本を求めるとは、流石はリリーのオススメ、といったところか。
「この間は…ありがとう」
沈黙に耐え切れず、とりあえず話しかけてみる。
あの日助けてもらわなかったら、今頃どうなっていたか分かったものではない。殺されていたか、売り飛ばされたか、もしかしたら怪しい実験に使われていたかもしれない。あのときのことを考えるだけで、未だに背筋がゾクリとした。
一応、精一杯の感謝を込めてみたつもりだが、少年は仏頂面を崩さない。
「そう思うならその本を譲れ。レポートを書くのに必要なんだ」
「いや、わたしも要るんだけど」
「貴様のような程度の低いレポートに使うより、私のレポートに使った方が有意義だろう」
「うわナチュラルに酷いこと言うねきみ!」
「事実だ」
「さらにひでえ!」
少年は苛立たしそうに眉間を寄せるが、その程度で怯むではない。厭味をぐちぐち言いはするものの、女から力ずくで奪おうとしない程度には、公正で律儀な人物だと知っているからだ。
「寄越せ」
「やだね」
「貴様…」
スネイプは小柄なを威圧的に見下ろすが、澄ましてあさっての方向を見る。
ここで負けるわけにはいかない。
「恩を仇で返すか」
「…それを言われると弱いんだけどー」
「じゃあ寄越せ」
「こちらも成績が懸かってるわけでしてー」
「貴様の成績などどうでもいい。大体、既に最悪だろうが。実験のたびに騒ぎを起こすくせに何が成績だ」
鼻で笑われた。
「だーかーらー、実験の成績が最悪なんだから、せめてレポートは良いの出さないとヤバイんだって」
「私の知ったことか」
「薬学のベイルダム先生恐いしさー。前のスラグホーン先生よりは好きかもだけど。わたしあの先生に何回も無視されたんだよねー」
「貴様の無駄話に付き合ってる暇はない。さっさと寄越せ!」
「だからイヤだって言ってるでしょーが、分かんないヤツだねきみも! 成績いいんだからそっちこそ譲ってよ。世の中助け合いの精神が大切だよー?」
「生憎、そんな精神は持ち合わせていない」
「…ですよねー」
溜息をつくと、同時に相手も溜息をついて、なんとなく気まずくなった。
こんなところで、何を立ち話してるんだろう。知り合って間もない同級生と話す内容でもない。
ノクターン横丁で救われたことに感謝しているのは本当だから、ここで一つ恩返しといきたいのは山々なのだ。しかし魔法薬学の成績は、このままでは本当にやばいというところまで来ている。のんびり構えて見えるが、けっこう切実な問題なのだ。
本をぎゅっと抱え込んで頭を捻る。
「うーん……分かった。譲ってはあげられないから、一緒に見ようよ。それで借りはチャラね」
「はあ!?」
ここにきて初めて、少年の苛立ち以外の表情を見た。
信じられない、理解不能だ、と顔いっぱいに書いてある。
「貴様、いったい何を考えてる!? 私は」
「スリザリン生、でしょ。マグルじゃあるまいしネクタイ見りゃ分かるっての。別にいいじゃん、グリフィンドールだろうがスリザリンだろうが。レポート書きたいのは一緒なんだし」
「……ふざけてるのか?」
「わたしはいつも大真面目」
「どこがだ」
「ぜんぶ」
「…馬鹿じゃないのか」
「馬鹿じゃないですー」
「じゃあなんだ、愚図か阿呆か」
「どこまでも失礼だねきみ!」
文句を言いながらもはへらへらと笑う。
こんな下らないやり取りがなんとなく楽しいのはなぜだろう。そういえば、まだ自己紹介もしていないのに。
「わたし、馬鹿じゃなくて、グリフィンドール5年の・」
「馬鹿で十分だ」
「きみは?」
差し出された手を見下ろして、少年はますます眉間に皺を寄せた。握り返す気はまったくないらしい。
長い沈黙が続いた。
スネイプは睨む。
関わりたくない。
は笑って、待った。
待った。
待った。
待った。
待った。
そして、結局大きな溜息をついて、渋々口を開いたのは。
「……………………………………スネイプだ」
「よろしく、スネイプくん!」
そういうことになった。
もともと休日の図書館というのはあまり人気のないものだが、それでも万一誰かに見られては迷惑だと彼が言うので、慎重に席を選んだ。
誰の視界にも入らないだろうと思われる席を見つけるのに、一体どれだけ時間を使っただろうか。
溜息を吐いたを、スネイプが不機嫌に睨んだ。
「やるのか、やらんのか」
「やりますやります。っていうか、できたら教えてください」
「ご免こうむる」
「やっぱり?」
ぎろりともう一度強く睨むが、は何が楽しいのかへらへら笑っている。
よもやグリフィンドール生と並んで座る日が来るとは思わなかったと、スネイプは天を仰いだ。
カリカリ、カリカリ、と2つの羽ペンがそれぞれ羊皮紙の上を滑る。
1つしかない本でレポートを書くのは、思っていたより困難なことだった。
が21ページの一文を抜き出している途中で、スネイプは62ページを読みたいと言う。スネイプが62ページを読み出すとは仕方なくお預けをくらう、といった具合に作業を進める。最初は互いに躊躇していたが、すぐにそれも止めてしまった。遠慮していてはまったくはかどらないのだ。待っているときは様子を伺ってタイミングを見計らい、読んでいるときは待っている気配を察して急ぎ、書き写しながら必要なくなったら相手の手元に滑らせる。配慮というよりは、作業を円滑にする一つの手段に過ぎなかったが、それはひどく自然に無自覚に行われていた。
人気のない図書館。椅子と椅子の間をよそよそしく少し離して座る男女。
手元を見つめて困り顔の少女。真剣に羊皮紙を睨みつける少年。
少女の胸には金と赤のネクタイと獅子の紋章。少年の胸には銀と緑のネクタイと蛇の紋章。
2人を取り囲むように、整然と並ぶ膨大な本。
天窓から斜めに入るやわらかい日光。
きらきらと光る埃。
そのちぐはぐな光景は、誰の目にも触れることはなかった。
「んん?…えー…なんでこーなるかなあ…」
スネイプは先ほどから呪文のように呟かれる少女の疑問が気になって集中できない。
さっさとその疑問を解決してくれないと、自分がつづきを読めないのだ。まだ半分も残っている彼女と違い、自分はあと少しだというのに。
一段落ついたところで溜息をついて羽ペンを置き、首を左右に振って骨を鳴らした。
音に驚いて顔を上げたの視線をとらえる。
「…何がそんなに分からんのだ」
と、いかにも面倒臭そうに促した。
一瞬何を言われたのか分からなかったと言うように目を丸くしたあと、少女はぱあっと顔を輝かせた。
心底から嬉しそうに、期待に満ちた目を輝かせてスネイプを見る。
どうしてスリザリン生相手にそんな顔ができるのか、スネイプにはまったく理解不能だった。どぎまぎした。
「教えてくれるの?」
「…勘違いするなよ。私はさっさと続きが読みたいだけだ」
「なんでもいいなんでもいい! ここんとこ!ここが分かんないの。こっちのページで言ってることと、もっと前の実験結果が矛盾してない?」
「……なんだそのつまらんケアレスミスは。貴様ほんとうに馬鹿じゃないのか」
「えー?」
「よく読め。だからここは……」
スネイプが身を乗り出して図解を指す。少し椅子が近づいた。
神経質そうな細い指が、難解な文章の上を滑る。
「…だから……で……」
「…あー…なるほどー…そっかー」
彼女にも分かりやすい噛み砕いた説明に、感心の吐息ばかりが漏れる。実は教師に向いているかもしれない。
スネイプは説明しながらざっとレポートに目を通し、思っていたよりよくできているのに驚いた。少なくとも平均以上ではあるだろう。
それなのになぜ実験の成績があれほど悪いのか。授業中はピーター・ペティグリューと並ぶ問題児だ。
「…ということだ、分かったかこの愚図」
「ありがと!」
悪態などまったく気にせず疑問が解けて嬉しそうに頷いただが、それだと途中からやり直しだと思い当たり、は片手で黒髪の頭を掻き毟った。
少年はそんな彼女を奇妙な生き物を見るように見つめた。愚図だとか、馬鹿だとか、そういう悪態に普通の女子はもっと敏感だ。怒ったり怯んだり、とにかくスネイプは大体それで女子に嫌われている。それでいいと思っているから口の悪さを治すつもりはない。しかし、同室のクィリナスでさえ彼の毒舌に慣れるのにいくらか時間を要したというのに、目の前のグリフィンドール生はただ笑って受け流している。
いったいどんな頭をしているのか。よほど平和なのか、愚鈍なのか。
「なにこの変な名前の虫。ってかなんで薬に虫を使うわけ。誰が飲むのそれ。消費者センターに訴えるぞコノヤロウ。うわこれぜったい飲みたくない飲んじゃだめだって絶対うわー」
どうやら材料に文句を言っているらしい。
ぼんやりとグリフィンドールとの合同授業を思い出した。そういえばいつも騒ぎは虫関係の授業に起こった気がする。
「おい、」
「ん?」
「もしかしなくても先週の授業で、『ゴキブリ』と叫んでいたのは貴様か」
「……もう過去のことよ」
わたしは今を生きる女なの、と視線を逸らす。
「ゴキブリなんぞ出てこなかっただろうが」
「…色々と複雑な事情があったの! そこ突っ込まないでよ、忘れたいんだから」
「意味が分からん」
また溜息を吐く。今日この女と会ってから、何度目になるか数え切れない。なんだか急にどっと疲れた。眩暈がしそうだ。
本当に不可解な女だった。いつのまにかペースに巻き込まれている。疲れる。が、居心地が悪いというわけではない。
妙なやつだ、本当に。
「じゃ、今日はありがと、スネイプくん」
「……疲れた」
なんだかんだと結局最後まで彼女のレポートに付き合って、気がつけば日も暮れかかっていた。
なんでこんなことに、と何十回目かの問いが虚しく空中に浮かんでいる。忌々しいことに答えは簡単。流れだ。ちくしょう。
「困ったときはまたよろしく!」
「ご免こうむる」
きっぱりと断ったのに何を思ったのかへへへへと能天気に笑う・を睨みつける。
何がそんなに楽しいのか、嬉しいのか。考えても考えても、彼女のことが分からない。
そのことになぜか、こんなにも腹が立つのだ。
「貴様の馬鹿に付き合わされるのは、もううんざりだ。二度と話しかけるな」
「えー、やだー」
「やだじゃない!」
「だってほらー、不測の事態とかいろいろあるじゃん?」
「ない!」
ないことを祈る。
もう二度と。
「もう二度と、こんなことは起こらない」
言い聞かせるようにゆっくりと紡いだ言葉が、自分でも驚くほど冷たく響く。
だがそれは、ぎくりとするほど正しい言葉だった。
彼はスリザリン、彼女はグリフィンドール。
闇と光。
影と日向。
出逢いも、再会も、間違いだった。もう間違いは起こらない。起こってはいけない。揺らいではいけない。
少女を冷然と見下ろす。
「私は誇り高きスリザリン生だ。貴様のようなグリフィンドールのクズと馴れ合うつもりはない」
本心だった。
だが彼女は怯まなかった。彼の目をただ真っ直ぐに見上げた。黒いと思っていた彼女の目は、近くで見ると少し赤味がかった茶色をしていた。黒い瞳孔の向こうで、形容しがたい何かが閃くのを見た気がした。
一瞬の沈黙の後、少女はにっこりと笑った。
阿呆にしか見えないあのへらへらとした笑みではない。
赤褐色の目を細めて、目を疑うほど大人びた顔で笑った。
「それでもわたしは、そうでないことを祈るよ、スネイプくん。わたしはグリフィンドールだけど、そんなもので君を嫌いたくないもん」
笑みを滲ませた楽しげな声で、彼女は朗らかに言い放った。過ぎるほど完璧な弧を描いた唇から優しく発された言葉は、スネイプを容赦なく斬りつけた。
硬直したスネイプを置いて、は身をひるがえす。
途中で振り向いて、あの笑みを貼り付けたままその小さな手をひらひらと軽やかに振った。
「またね」
スネイプが我に返ったときには、そびえ立つ本棚の向こうに後姿は消えていた。
嫌なものを見た、と思った。

2008/03/04
そんな顔をするなんて卑怯だ。
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