「どうしても行ってしまうの?」
「ああ」
「行かないで、って言っても、だめ、だよね」
「…すまない」
「ねぇ、また、会えるよね」
「………」
「だって、だってまだ、美味しい紅茶の淹れ方、教えてもらってない。白い花の薬草もちゃんと育ってないし。満開になったらきれいだから、いっしょに見ようって約束したでしょ。どれくらい待てば良いの。どれくらいしたら戻って来るの?
いつもみたいに笑っておかえりなさいって言える日は来るの? 君にもう一度ただいまって言える日は来るの?
何か贈り合える日は来るの? あの花をいっしょに見られる日は来るの? わたし、みんなといっしょにやってきたこと、後悔してないよ。すごく楽しかったよ。君もそうなんでしょ?
どうして君だけそうやって、ひとりで全部背負って行っちゃおうとするの? ねえ、みんなは…、わたしは、君なしじゃだめなんだよ。みんないっしょじゃなきゃ何にもっ、」
「約束する」
「…」
「必ず、また会える。誓う」
「…ばか! ばかばかばか! うそつき! 帰ってこないくせに! ひとりで死んじゃうつもりのくせに!
×××××なんてっ…!」
「あんたが好きだ」
「――っ」
「だから、必ず帰ってくる」
「信じてくれとも言わない。待っていてくれとも言わない。…言わないが」
「必ず、必ず生きて帰るから、私のことを忘れないでくれ」
「、そろそろ起きなさい!」
「んん…?」
厳しい叱責に驚いて、瞬く間に夢から醒めてしまった。なんだかひどく損をした気分だ。しかし、なんの夢だったっけ。
重い瞼をなんとか持ち上げると、まず燃えるような赤毛が目に入った。
若葉色の目を優等生らしく吊り上げて腰に両手を置いた姿は、15にして既に母の貫禄を思わせる。…と言ったら確実に雷が落ちるから決して口に出しはしないが。
「朝食終わっちゃうわよ!」
「…………はあい…」
これ以上待たせると無理矢理布団を剥ぎ取られ朝から嫌な思いをすることは確実だから、黙って上体を起こす。
足はまだ温かい布団の中に突っ込んだままで、パジャマの上にのそのそと上着を羽織った。顔を洗って、制服に着替えて、ぼさぼさの髪を少しセットするだけの作業が、こんな朝はひどく億劫だ。夏休みの間に遅寝遅起が染み付いてしまったのだろう。
まだ温い魅力的なベッドにさよならを言って、よろよろと洗面所に行く。
「、あと10分よ!」
「分かってるー」
ばしゃばしゃと顔を洗い、顔をあげたついでに鏡の中の自分に顔をしかめてみせる。
急いでるならわざわざ待っててくれなくてもいいのに。
彼女は世話焼きで優しくてすごくいい人だが、と行動を共にすることをまるで義務のようにしているところがある。そんなに頼りなく見えるのだろうかと溜息をついた。いくら方向音痴のでも、5年も経てば大広間への道程ぐらい覚えている。
「先に行ってていいよ?」
はみがきを咥えて一応言ってみるが、
「そんなことあなたが気にしなくてもいいの! それに遅れたら大変よ、今日はスリザリンとの合同授業なんだから!」
これだもんなー。
口をゆすいで制服を手に取る。使い込まれたネクタイの色は、赤と金のストライプ。グリフィンドールのシンボルカラーだ。
スリザリンは緑と銀、レイブンクローは青と銅、ハッフルパフは黄と黒。
この学校は、どうして生徒を4つの寮に分けるのだろう。
入学してすぐから気付いていた。
安穏として見えるホグワーツも、既に時代という黒い渦の中に巻き込まれている。それは寮の対立という、言葉にすれば子どもじみて見えるものによって。
グリフィンドールとスリザリンの確執。
それはいつから始まったものだろう。いつから仕組まれていたのだろう。創設者の争いから1000年。それだけにしてはあまりにも長続きしすぎている。この決定的な亀裂はいつから。どうして。誰が、何の目的で。
11のときから頭の片隅に引っかかっていたこの問いは、15になった今でも解けたことはない。おそらくは誰も解いたことのない謎。いや、謎でさえないのか。
溜息と共に、フォークを鶏の唐揚げに突き刺した。ざくっという音が憂鬱な朝にはちょっと気持ちいい。
「朝から荒れてるわねえ、どうしたの」
そう言いながら、隣に座ったリリー・エヴァンスはマーガリンをたっぷり塗ったパンにかぶりつく。
「んーべつにー。夢見がわるかっただけー」
がじがじと唐揚げを齧りながら、気だるげに返す。
嘘ではない。確かひどく悲しい夢をみていた。よく覚えていないが、誰かが泣いていた気がする。思い出そうとすればするほど遠ざかるようで、は考えるのを止めた。思い出せない夢なんて、そう珍しいことでもない。
それよりも今は、いつまでもリリーの保護下から出られない自分の情けなさに苛々していた。平均よりも一回り幼く見える自分の容姿や、流れに流されることを好む自分のタチを含めて、友人に保護対象として見られる自分に嫌気がした。
「だいじょうぶ? 熱でもあるんじゃないの?」
心配そうに覗き込まれて、言葉に詰まる。
こうやって本当に心から優しい言葉をかけられるたびに、痛みといとしさで胸がいっぱいになる。純粋で真っ直ぐで心優しいリリー・エヴァンスという友人が、本当に大好きなのだ。差し伸べられる手を、断ることができないほどに。
「だいじょーぶ! ちょっとメロドラマもびっくりの悲しい夢みちゃってさー。なんつーの、涙なくしては見られない男女の別れってやつ?
ああ、行かないで、行かないで、スティーブ! あたしを置いて行かないで! ごめんよジュリア、君を愛しているけれど、それでも僕は行かなくちゃ。必ず帰るよマイスウィートハート!
待ってておくれ〜」
「んもう! またふざけて!」
脇腹を小突かれてうひゃひゃと笑うと、怒った顔を呆れた顔に切り替えられた。
ふざけてばかりで、いつもへらへら笑っているだが、こう見えて結構体が弱いのだ。ちょっとした環境の変化ですぐに体調を崩すを、同室のリリーは昔からよく世話してくれた。最近は少しずつ強くなってきたが、まだ病弱な友人というイメージを払拭しきれていないのだろう。リリーは人が好いから、過保護にもなるというものだ。
そんな友人を煙たく思うのは罰当たりもいいところだと、自分で自分に苦笑する。母親に反発する反抗期みたいなものだろうか。
「リリー」
「ん?」
「大好き! 愛してるよ!」
「はあ?」
がばっと抱きつくと、はいはい朝っぱらから何なのまだ寝ぼけてるの、と呆れたような小言が降って来た。
相変わらず寛容だねリリー。そんなんじゃいつか狼どもの餌食になってしまうよ。
とは潔癖のリリーには言ってあげられない。残念。あ、最近使い始めたって言ってた白百合のシャンプーの香りがステキ。
「いい匂いがするー」
と言うと、この変態!という声と共にべりっと剥がされた。
襟首をつかんで力任せにリリーから引き剥がしたのは、分厚いレンズをきらりと輝かせ引き攣った笑いを浮かべた少年。その背後にどす黒いオーラが見えるのは気のせいでしょうかお母さん。
「ぐっもーにん、ジェームズ」
「おはよう、。ところで何をしていたのか聞いてもいいかな?」
「朝の挨拶と同時に友情を確かめることができるという一石二鳥のハグハグですけど何か問題でも?」
「いや別に?」
ふふふふふ、ははははは、とお互いに笑顔をふりまきながら、襟を放してもらって席につく。
このままでは本当に授業に遅れる。
「朝から元気だねーみんな」
よく言えば歳のわりに大人びた、悪く言えば老けて見える友人が、のんびりと笑っての隣に腰掛ける。いつ若白髪が生え始めるかで賭けをしているのはここだけの秘密だ。
「おはよ、リーマス」
「おはよう、。調子どう?」
「ん、まーまー」
ちなみには1年後に賭けた。
にやにや笑いながら、の向かい側にどかっと腰を下ろしたのは図体ばかりでかくて役に立たない男。
「ちゃんはその歳にしてソッチに趣向がえかー? 末恐ろしーなーオマエ」
「オソロシーのはあんただっつの、このチャラ男」
「あ?」
「襟のボタン留めろっつの、だらしない」
「…いーじゃねーかこれぐらい」
良くない。
何せ赤い“虫刺され”が見えているのだ。
その場にいる全員(主にやリリー)から非難の視線を浴びて、渋々ボタンを留めていく馬鹿を横目に、は小柄な少年に笑いかける。
「おはよー、ピーター。そんなヤツに近寄ると頭悪くならない? 離れた方がいいんじゃない?」
「おはよう、。シリウスは、まあ、そのう…いつものことだし、ね」
「…そだね。あ、つーか今日の薬学がんばろーね、ブラザー」
「うん。今日こそはリベンジだね」
「ねー」
油断ならない腹黒眼鏡男ジェームズ。
世間知らずのボンボンシリウス。
苦労人で病弱なリーマス。
鈍くさいが優しいピーター。
口うるさい優等生リリー。
笑うちびっこジャパニーズ。
男4人に女2人。それぞれいつものメンバーが定位置に座っている。何の変哲もなく、少しも変わらないかに見える学生の日常。それぞれに秘密と痛みを抱えている以外は。
浮かべかかった苦い笑いはハムエッグの焦げで誤魔化した。
それにしても、さっき思い切り襟首を掴まれたせいか首が痛い。あの野郎あとで後ろからどつくと決めてじろっと睨む。睨まれた方は朝からリリーに見惚れている。馬鹿丸出しだ。
首をさすっていると、ふと先日のことを思い出した。
フルーパウダーに失敗してノクターン横丁に辿り着いてしまった、あの人生最大のピンチ。そういえばあのときも襟首を掴まれたのだった。
(たぶん)偶然通りかかって(おそらく不本意だが)助けてくれた正義の味方(と一概には言えないダークヒーロー)のような同級生。グリフィンドールめ、グリフィンドールなんか、と言いながらも結局ダイアゴン横丁まで送って行ってくれた、ちょっと親切な人。セブルス・スネイプ。
スリザリンの席を見ると、いた。
朝から仏頂面で黙々とパンを食べている。小さく千切って食べているところを見ると、意外に行儀作法がなっているらしい。
隣の席に座っているのは、確かその友人のクィリナス・クィレル。こちらは対照的ににこにこ笑いながら延々と喋り続けている。
返事が返ってこないのに喋り続けるって、独り言とどう違うんだろう。それともときどきは相槌を打ってくれるのだろうか。そうかもしれない、とちょっと笑った。少なくともあの薄暗がりで出会った彼は、厭味のような悪態のような相槌ぐらいは打ってくれそうだった。冷たく見下ろす黒い目の奥で、「面倒だが見捨てるわけにもいかんしな」とでも言いたげな、僅かな温もりが揺らめいて見えた。
そんなことを考えていると、ふとその彼が顔を上げたので、慌てて目をテーブルに戻す。
誤魔化すようにあまり好きじゃないカボチャジュースに口をつけて、顔をしかめた。まずったー。
視線を感じて顔を上げると、慌てて彼女は顔を逸らした。バレバレだ。グリフィンドールは馬鹿ばかりだ。今更だが。
誤魔化すようにジュースを飲んで、盛大に顔をしかめたのまではっきり見えた。
馬鹿め。鼻で笑う。カボチャジュースは嫌いらしい。
いかにも失敗しましたという顔で、パンに齧り付いている。千切って食え。千切って。
「どうしたの、セブルス」
「…なんでもない」
ハッと我に返って、居心地が悪く目を泳がせた。
女の名は・。
名門ホグワーツでも珍しい東洋人の留学生だ。5年も同級生をやっていれば、名前ぐらいは知っている。知ってはいたが、初めて接触したのはつい半月ほど前だ。
薬草を買いに行った帰り、不安げに右往左往しているのを、実を言うと少し前から見ていた。最初は顔を見ても誰だか思い出せなくて、しばらく眺めていたら思い当たった。何のことはない、制服でなかったから分からなかったのだ。あの忌々しいポッターどもとつるんでいるチビだと気付いたら、その瞬間に見捨てて行くことが決定し、さっさとその横を素通りする、つもりだった。
助けたのは誤算だった。未だに思い出すと自己嫌悪に陥る。妙な噂がルシウス・マルフォイあたりに届かないことを祈るばかりだ。
その上あの事件のせいで、ポッター一味を目にするたびに、その横をちょろちょろしているその女に目がいくようになった。毎度毎度あの失敗を思い出させるのだから苛々することこの上ない。
こういうことはさっさと忘れるに限る。
限る、はずなのだが。
隣に悟られぬように、小さく溜息をついた。
ときどき自分の目がそれを探してしまっているのを、確かに自覚していた。
理由はない。なんとなく、だ。なんとなく、あの小動物のような不安そうな様子を思い出してしまうのだ。結局ダイアゴンに入るまで、彼女はマントの端をしっかり握って離さなかった。あの縋りつくような小さな手を思い出して、少しだけ気にしている。
けれどそうして見ているうちに、あの不安げな様子は彼女のほんの一面に過ぎないことをすぐに知った。大人しく本を読んでいるかと思いきや、大きな声で笑いながら、自分より一回りも二回りも大きな男をばしばし叩いている場面などざらに見かける。この間はシリウス・ブラックの後頭部を丸めた雑誌で思い切り殴っていた。ここだけの話、見ていてちょっとスカッとした。
一時の気の迷いだ。我に返るたび、スネイプは自分に言い聞かせる。
5年間、何の接触もなかった女。あと2年間もきっとない。一度きりの、ほんの僅かな何かの間違い。それだけだ。それだけ。
そう言い聞かせれば落ち着いて、スネイプはいつものスネイプに戻れる。
「クィリナス、食ったか」
「うん」
「行くか」
「行こうか」
立ち上がる。
ふと、また視線。
顔を上げると、またあの女がこちらを見ていた。
バチン、と静電気が生じたときに似た弾けるような音。
確かにそれが響き渡ったのではないかと一瞬危惧したほど、ばっちり目が合った。
きょとんとして瞬きを繰り返す。
ぎょっとして硬直するスネイプ。
お互いの目が語っていた。
あの日のことを忘れていないこと。
あの日出会って、ほんの少しの間並んで歩いたことを、今でも少し気にしていて、今でも少し意識していること。
同時にそれを悟って、同時に悟られたことにも気付いて、同時に焦って、同時に目を逸らした。
ようやくが顔をあげたのは、不機嫌そうな真っ黒な背中が扉の向こうに消えたあとだった。

2008/02/28
|