15歳になったばかりの、無力な日本人の少女。
 複雑怪奇な性格やその他諸々を大胆に省いて簡単に言ってしまえば、それがだ。
 だから断じて、こんな闇に囚われ目を血走らせた犯罪者と狂人たちの無法地帯――所謂ノクターン横丁に自ら進んでやってきたわけでは勿論ない。
 イギリスのロンドン、マグルに気付かれぬ特殊なその一角にノクターン横丁は存在する。彼女は日本からイギリスまで、飛行機でやってきた。世の中にはフルーパウダーという便利な砂が普及しているが、如何せん、日本の中流階級と暖炉はあまり親しい間柄ではない。エアコンやヒーターなら溢れているが。
 ロンドンの空港に降り立った彼女は、空港の中に存在する魔法使い専用の部屋(無論マグルは知らない)の暖炉から、ダイアゴン横丁へ飛んだ。手数料を少しとられるが、タクシーを拾って行くよりは安上がりだ。
 しかし、ここで問題が起こった。
 目的地を唱えようと深く息を吸い、空気のついでに灰まで吸い込んで見事にむせた。咳き込んだ。にとってフルーパウダーとは、1年に一度しか使わない魔法道具。慣れようはずもなかったのである。
 使用5度目にして初の失敗は、最悪の方向へ流れた。

「まーいっごっのっ、まーいっごっのっ、こ・ね・こ・ちゃ・んー」

 女の喉で可能な限り低いと思われる生気のない声で、は呻くように歌った。

「ダイアゴンよこちょっはっ、 ど・こ・で・す・かぁー」

 繰り返すがここはノクターン横丁である。
 編み目のように張り巡らされた煙突のなかをぐるぐる滑って、着いたのは危険の臭いがぷんぷんする骨董店の暖炉。
 怒り狂った店主に外に叩き出されたまではまだいいが、右と左は分かっても北と南が分からないこの状況。ノクターンとダイアゴンが隣接していることは知っていても、どうしようもない。
 店の外で、服に付着した灰を払いながら辺りを見回し、絶望の溜息をつく。
 店内もそうだったが外の通りも薄暗い。日の光を嫌うように背の高い壁や塀が並び、その最も薄暗い場所を沿うようにちらちらと人影があった。みな顔を隠すようにフードを深く被り、隠さないものは直視を憚るような醜く生気のない顔をしていた。
 静かではある。けれど穏やかではない。

「どうしよう」

 不安と恐怖が胸を押しつぶし、膨張する気配を感じる。
 見知らぬ場所に放り出されたときの対処法なんて、流石のホグワーツも教えてくれたことはない。

「・・・・・・とりあえず、歩こう」

 遭難(?)したらその場に留まるのが基本だが、救助してくれるような心当たりはない。自力で道を見つけるしかないだろう。
 たくさんの視線から逃れるように、急ぎ足で歩き出した。

 気のせいではなく、は自分がたくさんの目を惹いているのを感じていた。
 子供がこんなところにいるのは珍しいのだろうとは思う。しかしそれ以上に気になるのは、その視線に込められたものだ。嫌悪では、ない。悪意でも、ないだろう。
 獲物をみつけたケダモノの、餓えた目。
 は恐怖と疲れに座り込みそうなのを堪えて歩く。右へ左へうろうろしながら、少しでも明るい方へ進もうと辺りに必死で目を凝らした。

「どうしたんだい、お嬢ちゃん」

 突然、暗闇からにゅっと伸びてきた手に、腕を掴まれる。
 驚きに身を引こうとするが、思いのほかその力は強い。萎びて骨ばった手の主は醜い老婆。鋭い爪が異様に赤かった。人を見かけで判断してはいけないと、幼稚園でも小学校でも言われてきたが、流石にこれは…。

「こんなところに、何のようだい?」

 優しさを滲ませた声音も、その目が台無しにしている。ぎらぎらと底光りする薄い灰色の目。見えているのか、見えていないのか、ひどく濁っていた。その目を三日月形に細くして彼女はにんまりと笑った。

「迷子なんだろう? あたしが案内してあげるよ」

 何処へ案内するのか。太陽の光が降り注ぐダイアゴン横丁でないことは確かだ。
 本能的に危険を感じて、は精一杯抵抗した。

「おおおお気持ちは嬉しいんですけど全力で遠慮します結構ですありがとうございましたさようならご恩は一瞬忘れません!」

 睨まれた。一瞬かよだめじゃん、と気の利いた突っ込みを入れてくれるほど心の広い人でもないようだ。
 振り払おうと精一杯力を込めるが、ぎりぎりと手首を握るその手は、高齢のわりに怪力を誇りぴくりとも動かない。実は老婆と見せかけて老いたニューハーフなのかもしれない。

「黙ってついてきな!」
「ひぎゃあ!」

 ぐい、とその手を引かれ、あまりの強さによろめいた。
 急速に迫り来る石畳。僅かに水たまりの残るそれと仲良くこんにちはして悲惨な顔になる、その寸前。

「ぐえ」

 ぐっと襟首を引っ張られた。
 呻き声を漏らしながら、地面に手をついて安全を確保。ひとまずほっと息をつき、振り返る。
 新たな悪人の登場か。わたしを巡っての争奪戦か。そいつはわしの実験材料じゃよこせ! なーにおう! 先に見つけたのはあたしだ! やるか! やんのか!? やめて、わたしのために喧嘩なんかしないで!
 あまりの恐怖に思考を飛ばしかけたノアの襟首を掴んでいたのは、あまり年の変わらなさそうな少年だった。
 決して友好的とは言えない後悔と苛立ちを混ぜ合わせたような目でを一瞥すると、醜い老婆を睨みつける。老婆は先ほどの強気はどこへ行ったのか、おどおどと暗闇に引っ込んだ。怯えているのか、小さな声で言い訳のようなものを呟いている。

「消えろ」

 冷たい一言のあと、呟きが遠ざかる。最初は謝罪と言い訳だったようだが、遠のくにつれて途中からは悪態と愚痴に変わったようだった。
 呆然としているは、少年を仰ぎ見るばかりだ。
 立ち上がっても見上げる形になってしまうのは彼が長身というわけではなく、単に が小柄なだけだ。
 よほど間抜けな顔をしていたのだろう。少年は軽蔑するように見下ろした。

「その間抜けな口は閉じられないのか? いつにまして見るに堪えん顔をしている」

 それが初対面の人間に発する言葉だろうか。いや、口ぶりからして初対面ではない。となると、同級生?
 あまりの言い草に恩も忘れて反発しそうになるが、いやいやここは自分が大人にならねばと、無理矢理笑みを貼り付けた。

「ありがとう。助かったよ」
「こんなところを暢気にうろつくな。目障りだ。それともこれはグリフィンドールお得意の冒険とやらの一環か? 相変わらずくだらんことしかせんのだな、貴様らは」
「ちーがーいーまーすー! フルーパウダーに失敗して、それでちょっと……迷子に…」

 自分で言ってて情けなくなった。
 尻すぼみに元気をなくした切り替えしを、少年は鼻で笑う。

「迷子! その歳で迷子とは恐れ入った。なるほど訂正しよう、グリフィンドールはある意味で驚くべき才能を持った愚図の群れだな。心の底から驚嘆するばかりだ」
「……ひでえ」
「声が小さくて聞こえん」

 吐き捨てると、黒いマントをひるがえし踵を返した。こんなうすのろに付き合っている暇はない、さっさと帰ろうと言わんばかりだ。
 しかし早足で歩き出したところで、つんのめる。
 驚異的なバランス感覚で体勢を立て直し怒りの形相で振り返ると、少女がマントの端をしっかと握っている。

「離せ!」
「通りすがりの正義の味方、顔色悪いダークヒーロー!」
「何の話だ!」
「お願い、ダンアゴンまで連れてって!」

 可愛らしく(見えるように祈りながら)首を傾げて頼み込む姿に、少年は彼女が迷子であることを思い出す。
 額を押さえて溜息を吐いた。
 元々、彼は面倒ごとに首を突っ込むつもりはなかったのだ。
 彼女が誰にからまれていようと、口を出そうとは思っていなかった。どんないかがわしい事をされようが、何処に売り飛ばされようが、彼には関係のない話だ。しかし、ちょうど横をすり抜けるときに、彼女が顔面から倒れそうになるものだから、つい反射的にその襟首を掴んでしまったのだ。あのくそ忌々しい親友のせいで、人の襟首を掴むのが癖になっているのだとしたらどうしてくれよう。
 幸か不幸か、老婆は彼を知っていたらしい。
 あの怯えた様子からして、おそらく最近マルフォイ家系列のならず者か何かだろう。
 彼は幼い頃から闇の寵愛を受ける者として知られている。この辺りで“マルフォイ”を後ろ盾に持った者と問題を起こそうとする者は少ない。だが、だからこそ彼女をここで助けたことは、彼にとってとんでもない失態だった。噂はたちまちここ一帯に広がり、この少女が自分の庇護下にいるとでも勘違いされかねない。自己嫌悪に陥るばかりだ。しかし、一度は自分で招いた不幸。放り出すのも気が引ける。
 渋々、重い口を開いた。

「ついて来い」

 そのコンパスを最大限に生かした彼独特の歩きで、少年は再び歩き出した。
 そのマントの端をぎゅっと握り締めたままだったは、急に歩き出した少年に引っ張られ、つんのめるようにして歩き出す。
 慌てて「待ってよ!」と叫ぶがスピードは大して緩めてもらえず、彼女は小さなコンパスを必死に動かし、ほとんど走るようにして彼の後を追った。



 狭い道、細い道を右へ左へくねくねと行く。
 この道のすべてを正確に記憶しているらしいこの少年の頭を、一度かち割って覗いてみたいものだと思った。
 離されて、引っ張られて、追いかけて、追いついて、また離されて。何度をそれを繰り返しただろう。マントの端を離さないように握り締めた。
 と。
 突然、開けた場所に出た。
 魔法使いや魔女が行き交い、笑い、話、品々を手に取っては値踏みしている。子どもたちの目は期待や喜びに輝き、大人たちの服装は色彩様々に華やいでいる。日のあたる、見慣れた通り。
 間違いなくダイアゴン横丁である。

「ここまで来れば、フルーパウダーの使い方を間違えるようなとんでもない馬鹿でも分かるだろう」
「…ど……ども……」

 皮肉られているのは分かっていたが、息切れのあまり反論もできずには頭を下げた。
 同時にマントの端を離す。

「あり、がと、ござい、ました」

 頭を上げたとき、そこには既に彼の姿はなく、慌てて辺りを見回して、振り返りもしない不機嫌な背中をようやくはるか遠く人ごみの中に見つけた。
 走り続けて苦しい胸を片手で押さえて、大きく深呼吸する。頬が熱い。

「あぁ、思い出した。…セブルス・スネイプだ」

 あの毒舌、あの不機嫌面、間違いない。
 いかに人の顔を覚えるのが苦手なでも、今年で魔法魔術学校ホグワーツの5年生になるのだ。他寮でも同級生ぐらい知っている。
 だが、これが2人のファーストコンタクトだったのは間違いない。
 また学校で会ったらお礼をしなきゃ、とそこまで考えて人にぶつかる。
 道の真ん中でいつまでも立ち止まって通行の邪魔をしていたいた自分に気付き、ごめんなさいっ、と謝って歩き出しても、“セブルス・スネイプ”……その名前が頭から離れなかった。親しい友人たちの口から、悪意と共によく聞く名だったからだ。
 もう一度振り返り、人ごみに消えてしまった背中に、顔を歪めて苦く笑う。

 15歳になってしまった、夏の終わりのことだった。






























20080226

書き直し。
ヒロインの性格を統一せねばと。