仕事柄、約束の時間に遅れてしまうことは、しばしばあった。 そういうとき、今までの女――俺にだって過去のひとという存在はそれなりにいる――は、酷く機嫌を悪くしているのが常だった。けれど彼女は怒らない。どうしても抜けられなくて1時間も遅れてしまったときだって、「今来たとろこなの」と笑ってくれた。今までにない、余裕を持ったタイプの女性だった。 だから、今回も彼女のご機嫌取りを考えてはいない。 初めて約束に遅れて来たとき、謝りながら途中で買った花を渡すと、彼女は少し花を見つめて可笑しそうに笑って許してくれた。 「あなたのそういう律儀なところ、好きよ」 そう言った笑顔を見たとき、俺は彼女に初めて惚れた。 正直それまでの付き合いは、“彼女”が欲しかった、ボインな美人とうまくいきそうでラッキー、という程度のものだったから、俺にとっては真剣な恋愛ではなかったのだ。前の恋人を引きずっていたからでもあったし、油断のできない緊迫した状況のつづく職場のことが頭から離れないからでもあったのだろう。それが笑顔ひとつ、言葉ひとつでコロリとやられたのだから、俺も我ながら分かりやすい男だと思う。 それからだ。俺が約束に遅れてしまったときは、必ずどこかの花屋で花を買う。花束のときもあったし、一輪だけのこともある。それは俺にとって、ある種の儀式のようなものだった。遅れてすまないという気持ちと同時に、あの日と変わらず君に惚れているのだという気持ちを、それに込めているつもりで。そんなこと、気恥ずかしくて死んでも口にはできないが…。 そしてやはり彼女は、穏やかな笑みを浮かべて、 「そんなに待ってたわけじゃないのに。…ありがとう」 と、許してくれるのだ。 なんて寛容な女性なのだろう! Oh、マイラブ! この恋よ、どうか末永く! 女運の悪さなんて彼女の登場で吹っ飛んだのだきっと。 そして、俺は今日も時間に遅れてしまうことになった。 それというのも、大佐がせっかく軍曹が提出〆切日別に分けておいてくれた書類を、見事ひっくりかえして室内に散乱させてしまい、俺たちに片付けを押し付けられて(あの人が片付けをしようとすると逆に手が付けられない凄いことになるのでさっさと追い出した)、そのうえ余分な仕事が回されてしまったせいだ。まさか故意の事故じゃないだろうな、あの無能め。 まあそういうことで、俺は待ち合わせの喫茶店へ走る。 「っとと」 途中、通りかかった花屋の前で急停止。 並んだ色とりどりの花にザッと目を走らせて、ぴたりと一種に目を留める。 「これ、ええと、6本ください」 「あらお兄さん、デート?」 「そゆこと」 いいわねえ、と笑う花屋のおばさんに代金を渡して、小さな花束をひっつかんで俺はまた走り出した。 風が花束から、一枚花びらを攫っていく。 穏やかな淡い、限りなく白に近い象牙色。 一目見て、彼女の肌に似ていると思った。明るい昼間の日の光より、夜の美しい月の光の方が似合いそうな花。優しいというより穏やか。儚さも繊細さもなく、成熟した落ち着きを備えて。人を拒絶するように日陰にありながら、ときに妖艶でときに寂しげで。 目的地へと可能な限りの速さで急ぐ。 彼女は自分がいないとき、どんな顔をしているのだろうか。弱さをちらりとさえ見せないうえに、時折見せる謎めいた表情。何かを抱えているのが分かっていて、支えにならないのも分かってしまっている自分。 いつかは傍にいられなくなるだろうと、根拠のない予感が頭を過ぎることもある。けれど、せめてそれまでは。 いつも待ち合わせに使う喫茶店に彼女の姿を見つけて、声を掛けようとした。注文したらしい湯気のたつコーヒーを前に、左手で頬杖をつき、右手の爪を退屈そうに眺めている。その紅い目に、いつもの穏やかさはなかった。 なんて冷たい表情をするんだろう。 俺は一瞬、声を掛けるのを躊躇った。しかし故意に、そのわけの分からぬ不安を押し殺す。 なんとなく分かっている。いつかは。けれど、けれどそれまでは。 「ソラリス!」 手を高く挙げると、豊かな黒髪を揺らして振り返った彼女は、先程の凍えるような表情を消して笑みを浮かべた。 雪が溶けるように温かな笑顔……なんて言わないが、それだけで俺には十分だった。 「ごめん。待ったか?」 パステルエナメルの花束を手渡す。 彼女はくすりと笑って、それを眺めて穏やかに首を傾げてみせる。 「いいえ。わたしも今来たところなの」 彼女はわざと嘘をつく。そしてそれが嘘だと俺は知っている。俺が知っていることを、彼女も分かっている。 そして俺は向かい側の席に座って、走ってきたせいで少し乱れた息を整える。コーヒーを頼んで改めて彼女と向かい合うと、どちらからともなく微笑み合う。 そんな、一時的な不安定で脆い、それでいて緩やかなテンポの関係。 幸せという言葉は重すぎ、遊びというには温かく。 情熱はなく冷めてはいるのに、しばらく会っていないと落ち着かない。 信頼を感じるほどではなく、他人というには近すぎる。 そんな、曖昧な関係。 ただ、傍にいるだけで、満たされていく気がするから。 今はそれだけでいい。 それだけで。 「今日はどこ行こうか?」 「そうねぇ……買い物にでも行きましょうか」 小さなテーブルを挟んで、相手の吐息さえ感じられる距離で微笑み合う。 テーブルの上には2つの白いコーヒーカップと、小さな花束。 白のようで白ではなく、儚いようでしなやかに強く、凛と冷めているのにあるだけで満たされる。 そんな、曖昧な。 曖昧だからこその美しさを主張する、不思議な色の花。 2005/03/27 パステルエナメル…絵の具の一色、象牙色 結構ハマっちゃったりして。 ウロボロスの印を見たハボの動揺っぷりや、そのくせに割と割り切るのが速かったところとか。 よく調べたわね、って言ったラストの満面の笑みとか。 結構、穏やかでいい時間を共有したんじゃないかとか、考えたりして。(末期) |