心安らぐとまではいかなくとも、そこは彼にとって落ち着いて穏やかに過ごせる数少ない場所だった。
 広い広いそこに無造作に並べられた知識の数々が、彼の目を和ませ知的好奇心を掻き立てる魅力的な場所であることも大きな要因ではあるが、それよりも更に真実に近い理由を述べるとするならば、静かであるということだろう。
 誰もが声を潜めるそこは、他者の意識を邪魔することを嫌い、また邪魔されることを拒むことが許される場所だ。
 大した意味もなく近づいてくる者を拒んでもそれはあっけないほど簡単に正当化され、心地よい静寂を破る者は数多の嫌悪の視線で追い出される。
 誰かに煩く声を掛けられる確率はぐんと低くなるし、本を読まず物思いに耽っていても誰の視界にも留まらず怪訝に思われることもない。
 更に人の気配のない奥へと進めば、本棚という壁に囲まれた空間がある。
 読書する姿を人に見られるのを好まない彼は、魔法薬学と闇の魔術の本が隣接する誰も近づきたがらない本棚の前を定位置と決めて、いつもそこの床に座り込んで本を読むことにしていた。その顔は彼を知る者が見れば目を疑うほどに穏やかな表情で、ことあるごとに嫌悪される歪んだ感情や険しさは鳴りを潜め、それは知識に貪欲なだけのただの少年の姿だった。
 誰にも邪魔されない。
 誰にも介入されない。
 だからこそ彼はそこを好んだ。
 周囲に人の気配がない状況。
 つまり、孤独と静寂こそが、彼が本当の意味で自分でいられる場所だったのだ。
 図書室。
 そこは彼が穏やかな時間を過ごすことの許される数少ない場所のひとつだった。


 だから、あってはならないのだ。


 彼がどうしても読みたい本を腕にかかえたまま、本棚に寄りかかって眠っている少女などという存在は、到底許されるものではない。


 それも、その少女というのが、彼の胸のうちをどこまでもかき乱す存在である、あのリリー・エバンスであるなど。


 断じて。



 正直、彼にはどうしていいのか分からなかった。
 軽いパニックに陥ったのかもしれなかった。
 自分の世界だと信じきっていたそこに、唐突に少女は存在していたのだ。
 彼の定位置の、その丁度向かい側に。何の違和感もなく。
 まるでそこは自分の居場所だと言うように、彼女の寝顔はどこまでも自然で安らかで穏やかで、優しかった。
 女神のようだ、天使のようだなんて、そんなありきたりな言葉はあまりにも薄っぺらい。
 ただ彼は、羽を休める不死鳥の姿を思い出した。澄み切った瞳を伏せて、偉大な老人の肩にとまった永遠の炎を宿す鳥。美しく気高く、優しい姿。
 彼は自分の思考の不自然さに更に慌てることとなったが、それが面に出ることはなかった。
 彼女が目を覚ますのを恐れて、彼は眉ひとつ動かすことができずにいたからだ。

 彼は次の行動を決めきれずにいた。
 選択肢を上げるとするならば3つ。
 速やかに退散し彼女が自分の領域から立ち去るのを待つ。眠る彼女を叩き起こして追い払う。…このまま、寝顔を見つめつづける。

 最後の選択肢はあまりにも愚かしく、即座に却下され、脳内で架空の羽ペンが乱暴に動き取り消し線がザッザッと引かれる。
 では速やかに退散するか、と自分に問えばそれは断じて嫌だと強情に返される。それが最も無難だと分かっていながら、この眠る無防備な少女に怖気づき背を向け尻尾を巻いて逃げるなど、あまりにも情けないと感じてしまう。これもまた、取り消し線が引かれた。
 ならば彼女を叩き起こす道しか残ってはいないが、それは自嘲を招いただけだった。この安らかな表情をこの手で嫌悪のそれに変えるなど、自分には到底不可能なことだ。あまりにも後味が悪すぎる選択だと思う。取り消し線。
 最初に却下された選択肢が点滅して存在を主張していたが、彼はそれを握りつぶした。
 ここは本を探し、本を読む場所だ。
 それならばその通りの行動をすればいいだけだ。
 彼はやっとそう決断を下すと、彼女を起こさないようにそっと移動して、ゆっくりと定位置に座った。
 ほんの数秒、彼女の無防備な寝顔を見つめて、それから手に持っていた本に目を落とした。
 やがて肩から力を抜いた彼は、彼女が目を覚ましていたならばきっと驚いただろうというほど、穏やかな顔をしていた。





「知らなかったわ」

 彼が本の世界に没頭し彼女の存在を忘れて随分と時間が経った頃、唐突にそのときは訪れた。
 ハッとして顔を上げた彼は、隠されていた澄んだ瞳を思いがけず真正面から覗き込む形となり、たちまち表情を硬くした。
 呼吸の仕方さえ忘れる。
 緊張に強張った顔を見て彼女は一瞬寂しそうに顔を歪めたが、やがて口元に笑みをつくった。

「さっきの方がずっといいのに」

 彼は何も答えなかった。
 答えられなかったのだ。さっきの、というのが何を指すのかも分からなかった。
 彼女は彼のそんな視線に気付いていながら、わざわざ説明しようとは思わないらしく、ただ戸惑う彼をぼんやりと見ていた。

「わたし、知らなかったわ」

 と繰り返す。

「あなたがそんな顔するなんて」

 とは言わない。
 ただ知らなかったとだけ呟く。
 彼にはその言葉の意味が相変わらず分からない。苛々が募った。それは険しさという形で顔に表れる。
 彼女はそれを見て、その険しさの原因は自分だと気付いていながら、小さく嘆息した。

「何を言っている」

 ぎろりと、視線には威圧感がある。
 それにも彼女は怯まず、きゅっと眉根を寄せて困ったように笑った。

「なんでもないの。ただ意外だっただけ」

 視線が絡み合う。
 それだけのことに、彼の思考は凍り付いてしまう。
 緑という言葉で片付けるには深く、若葉よりも思慮深く、宝石よりも感情的な色。美しいなどという安易な言葉を使うには、あまりにも様々なものが満ちすぎていた。
 その瞳は何かを訴えているように見える。
 その先に行けば、何かが自分を待っている。
 悪いものか良いものなのかはここからでは判断がつかない。けれど、きっとそれは自分にとって、今までにないほど大きなものなのだ。
 そんな理屈ではない何かを感じて、彼はなぜだか戦慄さえ覚えた。
 先に目を逸らしたのは、彼の方だった。
 急に意識され始めた沈黙が、肌にひりひりと染みこんでいく気がした。
 なんて、臆病なんだろう。

 眠気を振り切るように何度か目を瞬かせると、彼女の顔から“ぼんやり”が消えた。
 大人びていて生真面目な、普段の彼女が戻ってくる。
 彼はそんな彼女に安堵している自分に気付いた。
 先ほどまでのどこか得体の知れない目は、どうも落ち着かない。妙なことを考えている自分に焦る。そわそわする。
 そうでなくとも、彼女を見かけたり彼女のことを考えたりすると、胸がざわざわとして落ち着かないのだ。そんなとき、己の胸に爪を立ててその奥の何かを抉り出してしまいたいという、奇妙で無為な衝動に駆られた。その頻度は日を追うごとに増している気がする。彼女を遠くから見るたび、遠くから見た彼女の表情を思い浮かべるたび、そんな自分に気付くたびに、何かが自分の領域により深く根を張るのを感じる。
 自分の世界だと信じきっていたそこに、唐突に少女は存在していた。
 そう。丁度、今の状況に似ていた。
 彼は物思いを断ち切るようにバタンと音を立てて本を閉じると、サッと立ち上がった。彼女が抱えている本をちらりと見遣ったが、もうそんなものはどうでもいい気がした。
 彼女もつられたように立ち上がった。
 彼が踵を返して足を踏み出す。すると視界の隅で彼女が口を開いた。

「ねえ、あなたは知っているの?」

 窺うような声音に、彼は眉を寄せて彼女を睨んだ。
 それ以上気安く声をかけるなと、牽制の意味が込められていたことに、気付かない彼女でもない。
 だが彼女はじっと彼を見つめる。何かを探るように彼の瞳のその先を覗こうと目をこらし、やがてふと息をついた。
 何かを確認し終えたようで、その表情は寂しげとも満足げとも取れた。
 やはり彼はそんな彼女に落ち着かなくて、臆病者めあとで自己嫌悪に襲われると分かっていながら、はやくここから逃げ出してしまいたいと思った。
 そのまま、何も言わずに歩き出した。

「ねえ」

 背後から、声がかけられる。
 が、振り向いてはいけない気がして、彼は立ち止まらなかった。

「わたしは知ってるわ。知らないふりしてきたけど、たぶん、ずっとずっと前から知ってた」

 困惑したような響きに、彼は足を速める。
 困惑しているのは、彼だって同じだ。たぶん、もしかしたら、彼女よりも。
 気付いてはいけない何かを、気付かされる予感がした。

「ねえ、あなたは本当に知らないの? それとも知らないふりをしてるだけ?」

 彼女の声は、すがるように彼にまとわりついた。
 立ち止まり、振り返り、逃げないで立ち向かうチャンスを、ぎりぎりまで与えようとするように。
 だが段々とそれは、広がっている距離に比例して小さくなっていく。

「わたしが……本当は…」

 彼はその言葉を聞く前に、

「…ずっと、ずっと――」

 角を曲がって、

「あなたのことを――」

 姿を消した。

 声の届かない遠くへと、


 彼はやがて走り出していた。





 そうさ。本当は知っていた。


 ずっと前から気付いてた。



 君の翠玉のその奥に、ぼく宛ての感情があったこと。




 君に心を奪われて、君しか見えなくなっていたこと。




 ああ   気付いてはいけなかったのに















2005/01/28

 がんばれヘタレなすねいぷくん。
 でも学生時代のふたりの接点が、これきりで終わると良いと思う。
 そのまま、何も進展のないまま、卒業して、もう2度と顔を会わせることのないまま。
 そんでもって、ハリーに向ける憎悪の目は、あの日臆病になって彼女の言葉から逃げてしまった自分へ向けたものであるのが理想。
 あの日、一度だけ振り返っていれば、もう一度彼女の瞳を覗き込んでいれば、何かが変わっていたのではないかと。
 それこそセブリリ!と思うわたしは末期ですv