我ながら、自分の記憶力は平均より随分上の位置にあると思う。 昔から本の内容を長く記憶しておくことが得意だった。 自分にとって、一度読めばそれを覚えていられるわけだから、テストなどで苦労することはあまりなかった。 覚えていることを理解し、応用し、考えれば、答えを見つけることなどそう難しいことではなかったからだ。 記憶力。 それは人生において、大きな利点となるはずの力だ。 だがそれが私の人生でなければ、の話である。 生憎、ずばぬけた記憶力を所持したのは、このセブルス・スネイプだったのだ。 忘れたいことが、多すぎる人生。 だというのに、遠い過去のことをすぐ傍に感じて、未だその枷から抜け出せずにいる。 それを自分で自覚しているから、抜け出す気力さえなくして自嘲に励んでいるのだ。 馬鹿らしい。 逃げ出すことに何の意味がある。 逃げられないならば、受け入れればいいだけのこと。 どうせ、死ぬまでの数十年の間だけさ。 運がよければ、あと数年さ。 地下室で羽ペンを弄びながら、そんなことを思った。 この暗闇は過去というそれとよく似ていて、そこにあるくせに触れられはせず、そして逃れることも許さない。 心地よい既知感。 そこに沈んでいることで、外界の陽気から身を守られているような、安心感を抱くことができる。 幻であるとは知っているけれども。 そうして、当てもなく思考を巡らせているときだった。 ふと耳に蘇った言葉に、羽ペンを回す手を止める。 ああ、その声は。 セブルス 切なげな声。 しかしそれは凛としていて、決して美化したわけではないのに美しいと思った。 あのころはそんな風には思わなかったはずだが。 セブルス お願い 彼女は何と言ったっけ。 そう。 思い出して、微笑みを浮かべた。 そんなつもりはなかったのに、やはり自嘲にしかならなかった。 闇こそが居場所なのだと ひとり頑なに思い込んでしまうのはやめて 天井を仰いで、瞳を閉じる。 碧い煌めきが見える。 炎が揺らめくように、彼女の髪が揺れるさまが見える。 まだ忘れてはいなかった。 瞼の裏に、彼女がありありと浮かんだ。 そう。 あの日は確か何か下らないことを論じ合っているうちに、ずっと触れまいとしてきた将来の話をどちらともなく持ち出してしまったときだった。 彼女はどことなくとても不安そうにしていて、置いていかれることを知った子供のような顔をしていた。 闇以外に、私の居場所があると思うのか 自分の声が響いた。 今より少し若さを持った声。 あまり変わらぬようだが、やはり違う。 どこが違うのかは、自分では分からないけれど。 分からない 分からない、けど! 彼女の唇が動く。 少なくとも貴方は一人じゃない また自嘲。 いつのまにこんなに自分は、自虐的になったのだろうか。 古い記憶を引っ張り出して、わざわざそれで自分を斬りつけるのか。 愚かだ。 私は愚者だ。 私は君とは違う 私は生まれて死ぬまで、一生一人さ それでも、若い自分は続ける。 彼女の瞳が揺れる。 憐憫か?同情か? 悔恨か?諦めか? 昔も今も、その答えは見つからない。 ほら、テストで答えを見つけるのはあれほど簡単だというのに、人生は記憶力では補えぬ問いで溢れている。 一人じゃないわ 彼女は繰り返す。 何を言うのだ。私は一人だ。 君は生まれて死ぬまで、一生大切な人に囲まれて暮らしたけれども。 私は一人さ。 そしてそれに、満足している。 それで構わないと思っているのだ。 これ以上私の胸を抉るのはやめてくれ。 君の光はこの長い年月の中、醜くなってしまった自分を曝け出すようで、伴う焼け付くような痛みにはとても耐えられない。 あのころの未だ思っているよりは汚れていなかった、君の傍らに立つことができた自分を思い出してしまうから。 貴方は一人じゃない やめてくれ。 だって、わたしがいるもの 嗚呼。 嗚呼っ。 嗚呼ッ! 君はそうやって、また私に枷を増やす。過去の記憶にこの身を繋ぎとめる。 過去という亡霊が私の背後に、そして前方に取りついている。 私はいつもそれから逃れる術を持たない。 君は死んでしまったじゃないか。 私を置いて、いってしまったじゃないか。 そう瞼の裏の悲しげな彼女を責めながら、あの日胸に湧き上がった感情の記憶が蘇った。 驚きと喜びだ。 そして。 あのときはまだ幼すぎて分からなかったけれど。 これは、ああ。 湧き上がるこの感情は、彼女への…。 忘れないで 彼女が言う。 微笑みを浮かべて。 気の強い彼女が浮かべた、今にも涙で壊れてしまいそうな笑み。 あのとき自分は、何も言わずに彼女を抱きしめたのだ。 この腕で。 肩が細くて。 炎色の髪が視界を覆い尽くして。 ああ、愛しいと思った。 守りたいと思った。 この命を懸けて、守り通したいと思った。 忘れないで 「ああ、忘れないとも」 声に出せば、暗闇がそれを虚しく響かせる。 答えはないのだ。 彼女はそこにいないのだから。 「忘れないとも。私と君が過ごしたあの日々のことならば」 彼女は結婚したけれど。 彼女は子供を産んだけれど。 彼女は自分を置いて、死んでしまったけれど。 「忘れない。君と愛しあったことを」 君に愛された日があったことを。 ありがとう、エバンス。 …忘れない。 君が隣にいて、私は一人じゃない日があったことを たとえまた、一人になったとしても 2004.7.27. |