不思議な色に染まる空が広がる。
 たなびく雲の陰影は淡い紫に。その背景は、沈みゆく夕日に近ければ近いほど紅く、明るく、遠ければ遠いほど濃く深い青へ。夜の帳がゆっくりと、しかし目に見えるほどの速さで下りていく。まだ遠いあの青も、一番星を伴ってすぐにここまでやってくるだろう。
 小高い丘のてっぺんに、ずんと腰を据えた目を瞠るほどの大岩。
 何百年とそこに在り続けているそれは、色を持った柔らかい陽射しと岩独特の灰色とが混ざり合った不思議な色合いに染まりつつ、今日も黙って佇む。長い影が、丘のふもとまで続いている。おごそかな空気が満ちている。
 その上に、座ったままじっと動かない小さな影があった。
 風が、さらさらと彼女の髪を梳く。

 草を踏む音がする。
 気配を消そうと思えば消せるはずだが、彼女の前で、彼がそれをしたことはない。
 此処にいる、と彼は何も言わず彼女に伝え続ける。

「なに?」

 彼女は振り返らず、問う。

「お迎えに」

 主語も述語もない答えだが、彼に限ってはこれは無礼には当たらない。
 彼の反応が薄いのは、いつものことだ。それが公然のものとなって久しい。彼女にとって彼のそれが心地よいものとなった日は、更に時を遡る。大人の事情など知らず、社会の仕組みなど知識ばかりで、無邪気に笑い合い互いに触れることを罪を感じなかった幼き日。いまとなってはもう、遠い昔に見た夢の中の出来事のように、おぼろげな話だ。

「そう」

 返す彼女の答えも、素っ気無いものだ。
 しかし、彼は知っている。普段常に微笑みを浮かべ柔らかい表情を保ち続けている彼女が、自分の前でだけ表情を無くす意味を。厳しい教育の中でとうの昔に捨てた彼女独特の淡々とした口調が、自分の前でだけ戻ってくることを。彼女の本当の笑顔は、大きな笑い声を伴うことも。淡々とした口調が、彼女の真実に最も相応しいしなやかなものであることも。

「もうそんな時間か」

 空も染まるはずだと、ほうと息をついて呟いた。吐息が白く濁る。
 それに気付いた彼女が、ふっと小さく笑った。

 もうそんな季節か。

 夜の帳のそれと同じく、時は足を止めることを知らない。真白の冬はすぐそこまで来ている。国中が白く彩られることに違いない。
 秋が終わる。冬が始まる。やがてその冬も終わり、春がやってくるだろう。そうなれば、この野原はいっぱいの菜の花に包まれて、金色に輝くに違いない。

 もう一度、それを見たかったな。
 此処で。
 お前と。

 口には出さない。彼が困ることを知っているからだ。

「冷えます」

 彼は身軽な動きでたちまち大岩のてっぺんに来ると、自分の羽織を彼女の肩に掛けた。
 彼女は宝玉と謳われた瞳を、白い瞼で覆い隠す。
 そのせいで彼は、その奥で揺れていたものを見極めることが出来なかった。それで良かったのかもしれない。

「なあ」

 風に飛ばされぬよう、掛けられた羽織をぎゅっと胸の上で掻き合わせる。

「お前が好きだよ」

 何よりも、誰よりも。
 世界中のどんな男より。

「お前が、好きだ」

 夜の帳が、すぐそこまで来ている。
 先程よりやや薄暗くなったが、それでも2人の姿は黄昏色に染まっている。

「思えばわたしたちは、ずっと一緒だったな。幸せなとき辛いとき、楽しいとき悲しいとき、どんなときも、お前はわたしの傍にいた。わたしはずっとそれを、当然だと思ってたんだ」

 お前がそこにいるのが、あんまり自然なものだから。
 幸せというのは、そうしていつも手を伸ばせば触れられる距離にあるものだったのに。

「ふたりでひとつだと、思ってたんだ」

 どんなに強い翼でも、ひとつでは飛べない。
 だから、今までのように手に手をとって、いつまでもそこにあるものと信じていた。

「いいえ」

 やっと口を開いた彼は、いつもと変わらない様子で穏やかに目を細めた。

「最初から、ひとつではありませんでした」

 ぴく、と彼女の肩が動く。
 けれど振り向くことはしない。ただ彼の心地よい声に黙って耳を傾けている。

「ひとつではないから、貴女を想うことができた」

 しなやかで若く美しくそして本当は脆いその心が、決して折れてしまわぬように、全力をかけて守ろうと誓ったのは、遠い昔。そしてそれは今も、本当は変わらないのだ。

「国を出ましょう」

 無口な彼が、今までにないほど饒舌に言う。
 焦っているからだ。
 彼女がいない未来に。

「誰も知らないような遠い国で、此処のような広い野原に小さな家を建てましょう。そこでふたりで暮らせばいい」

 彼女は目を閉じる。
 黄金色の野原。小さな家。洗濯物を干す自分。手伝ってくれる彼。笑う。彼も照れたように笑う。ときどき下手な裁縫を披露する自分。上達したと褒めてくれる彼。彼が狩ってきたもので、料理をする。向かい合って、食べる。話をする。笑い合う。そしていつかその食卓には、子どもが増えるに違いない。ふたりの血を受けた子どもが、無邪気に笑っているに違いない。
 なんという幸せだろう。
 まるで。

「夢みたいだ」

 涙が出るくらい、愛しい。

「ありがとう」

 それが出来ないことは、ふたりとも分かっている。
 彼女は国を捨てられない。彼女が今国を捨てれば、此処はすぐさま戦火に包まれるに違いない。戦を回避するために、彼女は他国に嫁いでゆくのだ。それで、避け切れるかは分からない。もしも避けきれないならば、彼女は敵国の王の妻となる。武官の彼と、再会するのはどこになるだろう。

 貴女を攫って差し上げたい。

 男はその叫びを押し殺して、目を閉じた。
 様々な思い出が、手繰り寄せればいくらでも蘇る。今までの人生すべてを、彼女のために使って来たと言っても過言ではない。後悔は、露ほどもない。

「なあ」

 彼女はゆっくりと立ち上がる。

「わたしはこの名を置いてゆくから」

 わたしとお前が好んで使ったこの幼名は、奪われるから。

「わたしはわたしでなくなってしまうけど」

 お前以外の男の、妻になってしまうけど。

「そのときは」

 どうかそのときは。

「お前だけは、どこかで、遠いどこかで構わないから」

 この耳に、その声は聞こえなくても、届かなくても構わないから。

「わたしの名を呼んでくれないか」

 もう誰も呼ばなくなったこの名を。

「もう一度だけ」

 どうか。どうか。

「もう一度だけでいいんだ」

 もう一度だけ、ふたりの翼を感じたいんだ。



「必ず」



 男は頷いて、最後に、彼女を痛いほど抱き締めた。







2005/10/11