穏やかな午後。
 テラスのロッキングチェアに腰掛けた彼女を、あたたかでまだ色のない陽光が包む。

 透き通るような青い空が広がり、木々はいつの間にか少し赤茶けていた。
 するりと、風が彼女の紅い髪を揺らす。
 思いの外温度の低かったそれに、柔らかい色の細い赤の毛糸と編み棒を操っていた手を止め、薄いショールを掻きあわせた。
 季節は穏やかに移り変わっていく。
 緩やかだが確かな時の流れ。
 そんな些細なことさえも幸せの象徴のようで、彼女の胸に温もりが広がった。

 これからはこの季節の流れを、“3人”で感じていくのだ。
 様々なことを共に感じ、様々な困難を共に乗り越え、共に生きていくのだ。
 “家族で”。
 嗚呼。なんて美しい響きだろう。
 家族3人で(いいやもっと増えるかもしれない)、毎日を生きていくのだ。
 目の眩むような幸福に、これは都合のいい夢ではないだろうかとさえ思えた。

 ふっと息を吐いて、もう一度手元に目を落とすと、

「風邪を引くぞ」

 背後で聞き慣れた声がする。
 低いそれはよく人に威圧的な印象を与えるが、今は穏やかで優しく響いた。
 足音で歩み寄ってきたのが分かり、キイと椅子が軋んだので彼が背もたれに手をついたのを知った。

「大丈夫よ」

 実際テラスは日当たりが良く、ぽかぽかとしていた。
 それでも彼女を見下ろす男の顔は、少し曇っているように見えた。
 心配性の夫に苦笑して、彼女は再び毛糸と編み棒を動かし始めた。

「もう少しだから、仕上げたいの」

 器用に動き続ける編み棒によってほぼ全貌を現したのは、冬に備えた小さな毛糸の靴下だった。
 これを履いた己の子の姿を思い浮かべると、自然と頬が緩んだ。
 ちらりと見上げた夫の顔も、やはり同じように緩んでいたが、彼はすぐに顔をそらしてしまった。

 彼は自分の上着をショールの上から彼女の肩にかけると、日の光に背を向け妻と向き合うようにして、腕を組み手すりに寄りかかった。
 彼女から見ると、彼の輪郭が淡く金色に光って見えた。
 とすると、やはり太陽の光は黄金色なのだろうか、などとぼんやりと考えた。
 緩慢な時の流れに浸って、彼女は目を細めた。

 と、突然家の中から金切り声が上がり、平和な空気を切り裂いた。

 同時に顔を見合わせて、苦笑する。
 小さな王子さまが束の間の眠りから目を覚ましたようだ。
 彼女が立ち上がるよりも先に、彼がサッと家の中に入った。
 まだ泣きたらんのか、という低く呻くような呟き声に、昨夜も凄まじい音量で咆哮を上げた息子の姿を容易に思い出した彼女は、弱々しい苦笑いを浮かべた。
 夫の背中を見送って、ショールと上着を引き寄せながら立ち上がる。
 伸びをして、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


 なんと幸せな日々だろう。

 このときが、永遠につづけばいい。


「リリー」

 背後から困惑したような声で呼ばれて振り向くと、一向に泣き止まない息子を不慣れな様子で抱いた夫が立っている。
 いつもと変わらぬ眉間の皺が、今だけは困って寄せられたものに見えるのが何となく可笑しい。
 我慢しきれずに吹き出すと、彼は憮然とした顔をふいと背けた。

「はいはい、きっとお腹が空いたのね」

 クスクスと笑いながら、両手を突き出した。

「ハリーをわたしに……」


 “ハリー”?


 ハッと息を呑んで、彼女は動きを止めた。
 我知らず、自然と紡いだその名前が、その場にそぐわぬ響きに聞こえたのは何故なのか。
 何かが違う気がする。
 何かを忘れている気がする。

「どうした、リリー」

 ひどく冷たい声で、彼は問うた。
 顔を上げると、先ほどまでの困惑は面影ひとつなく掻き消え、ただ虚無のような暗い2つの穴が彼女を見ていた。
 彼女は一歩、後ろへ下がった。

「ほら。お前の子だ、リリー。ハリーだ」

 ぐいと、押し付けようとするように突き出された、泣き喚く赤ん坊。
 赤ん坊は、泣き叫びながら、真っ直ぐに母親を見ていた。

 母親譲りの碧い瞳で。

 彼女はその視線に怯えたようによろけて、一歩二歩と後退った。
 からりという音に、ぎょっとして振り返る。

 そこには秋の日差しが優しく包むテラスなどはなく、真っ暗な闇と底なしの穴が広がっていた。
 崖のような場所の端に立った彼女は、妻の怯えなどまったく気付かない様子で、子を抱いて無表情のままただ突っ立っている夫を見た。
 夫はぴくりとも顔を動かさなかったが、彼女はそこに何故だか明らかな蔑みを見出した。

 彼が口を開いた。
 彼女は咄嗟に耳を塞いだ。

「抱いてやらないのか、リリー」

 けれど嘲るようなその声は、はっきりと彼女に届いた。
 まるで、頭の中から聞こえているようだった。

「お願い、言わないでッ!」

 彼女は叫んだ。
 わたしから此処を奪わないで。“3人”の未来を奪わないで。わたしと、子どもと、あなたとでつくる未来を。

 しかし、懇願は聞き入れられなかった。


「リリー・ポッター」


 足元が崩れて、闇に飲み込まれる一瞬。
 彼女は確かに、見た。

 ホグワーツの制服を身につけ、スリザリンカラーのタイをきゅっと締めた、学生時代のままの彼が。
 あの頃、ときどき垣間見せたあの穏やかな顔で、別れを告げるように手を挙げたのを。

 その姿がどんどんと遠のいていくのを。








 がばりと起き上がり、汗でびっしょりと濡れて冷えた体を己の手でぎゅっと抱き締めた。
 リリーはゆっくりと部屋を見回した。
 見慣れた、いつもの寝室だった。

(夢だったんだ)

 ほっと小さく息を吐いた。

(……酷い夢だった)

 赤ん坊が泣いている。
 夢の中で聞いていたのはこの声だったのか、とリリーは目を閉じた。
 すぐに行ってやらなければと思うのに、体が動こうとしなかった。
 と。
 ごそごそと動く気配。
 ぎょっとして全身を緊張させると、隣で眠っていた夫が呻き声を上げて目を覚ました。

「…リリー?」

 寝ぼけた声を上げた男は、目を瞬かせながら身を起こした。
 リリーを視界に納めた彼は少し驚いた顔をしたあと、鳶色の目を優しく細めて笑った。

「どうしたの? 酷い顔色だね。怖い夢でも見たのかい、ダーリン?」

 そい言って、男性独特の大きな手を伸ばし、顔にかかっていた彼女の前髪をどけてやった。
 リリーは目を見開き、そんな夫を凝視していた。

「…ジェー、ムズ」

 胸の上に置いた両手が、がたがたと振るえ、心臓を抉ろうとするようにぎゅっと己の服を握り締めた。

(確かに今、今わたしは)

 彼の顔を見て、彼がジェームズ・ポッターであり。
 自分が確かにリリー・ポッターであり。
 あの泣いている赤ん坊が紛れもなく自分の子どもで、ハリー・ポッターであることをことを確認した途端。

(失望した)


 夫が、“彼”でなくジェームズだったことに、失望した。


「リリー? どうしたんだい、リリー?」

 赤ん坊が泣いている。

「ご、めんなさ…」

 全身が震える。
 罪悪感に耐え切れずに、震えている。

「ごめんなさぃ…ごめんなさぃ…ごめんなさいッ…」

 ベッドサイドテーブルに肘が辺り、眠る直前まで手にしていた編み物が、床に落ちる。

「リリー? どうしたの?」

 赤ん坊が泣いている。

「どうして泣いているの?」

 赤い毛糸がころころと床に転がり、血の跡のように細い線を描いた。




















2005/03/05

 うわ暗っ。
 暗いな、セブリリ。(暗いのはあんたの思考回路だよ)
 いいのかこんなんで。ハリーが愛されない不幸っ子じゃないか。
 まったく残酷だなあ。(残酷なのはあんたの/略)