風が吹いている。
 それは雑音(ノイズ)という薄い膜となって、耳を塞ごうとしているようである。
 誰かが誰かに聞かせようとしているように、喉を嗄らして叫ぶ悲鳴にも似ている。
 どちらにしろあまり、心地よいとは思えぬはずの風だ。
 だというのに、ここを動けぬのは何故だろう。
 意味もなくここに突っ立って、曖昧な曇り空を見つめているのは何故か。
 今日に限って、いや今日だからか、頭の回転がひどく鈍い。
 何かを考えることが、ひどく億劫だ。
 ただ、こうして風を受けていると、自分を形作っている汚らしい埃の層が、ぱらぱらと後方へ後方へ流されているような気がしてくる。
 乱暴な空気の流れが、少しずつ少しずつ余分なものを削って、いつか本当の自分を暴いてくれるような。
 そんな幻想に浸る。
 馬鹿らしいと思う冷めた自分さえ、風に乗って消えていく。

 遠く。
 遠く。
 誰も知らない、どこかへ。

 ああ。

 酔ったような焦点の合わぬ目を静かに伏せる。

 ああ。
 自分も風に乗って、消えてしまえればどれだけ…。

 ――ス

 ――セ……ス

「セブルス!」

 やっと呼ばれていることに気付いた彼…セブルスは、ゆっくりと振り返った。
 そこには、風にばらける炎色の髪を片手で押さえながら、どこか必死な顔つきの少女がいた。
 深緑の優しい瞳が困惑に揺れている。
 セブルスには、色合いのないこの世界で、それはあまりに眩しすぎる異質の存在に思えた。

「ああ」

 ゆっくりと回転を始めた頭が、彼女が誰であるかはじき出す。

「エバンスか」

 そうだ。リリー・エバンスという名だ。
 つい先程までいたはずの『ホグワーツ』という守られた美しい世界が、ひどく遠く感じられる。
 リリー・エバンス。
 グリフィンドールの寮生のくせに、何かと自分と関わりいつしかファーストネームを呼ぶようになった、風変わりな女生徒。
 ときたまその煌々と放つ輝きに、強く惹かれることがあった。
 思考が、鼓動が、言動が、狂うほどに。
 しかしその過去は、先程風に乗って消え去ってしまったばかりだ。
 ああそうか。
 セブルスはひとつの事実に行き当たった。
 こんなにも頭の回転が遅いのは、過去や感情の多くが、先程削られて飛ばされてしまったからだ。
 その非現実的な事実が、ひどく可笑しかった。

「どうした」

 問いを発しながらも、彼の顔には訝しげな色は浮かばない。
 その他の感情も、一切見当たらない。
 普段不機嫌でないときも眉を寄せて険しい顔をしているというのに、それさえもない。
 能面のような無表情だ。
 それが、リリーは怖かった。

「それはわたしの科白よ」

 自分でも、今にも泣きそうな情けない声だと思った。
 震えるか細い声は、乱暴な風に飛ばされて、本当に彼に届いているのか不安になる。
 だから今度はもう少し声を大きくして、先を続けた。

「貴方こそ、こんなところでどうしたのよ」

 声は普段の強さを取り戻したように思えた。
 それは凛と空気を震わせて、セブルスの感覚器官へと届く。
 彼はその声を耳にして、その言葉の意味を理解すると、ゆっくりと表情を動かした。
 柔らかく微笑んだ。
 ぞくり、とする。
 それはいつもの、彼の笑みではなかった。
 彼女が好きだと思う、彼独特の優しさの滲む微笑みではなかった。

「何も」

 彼は答えた。
 微笑んでいるというのに、そこには何の感情も見られない。
 ただただ、柔らかいだけ。
 スポンジのようにただ受け止めて、単調に返す作業を繰り返しているだけ。

「やめてよ」

 リリーが言った。
 遠くから見たとき、胸騒ぎがした。
 あれは幻ですから確かめてごらんなさいと言われたかのように、奇妙な不信感が揺れた。
 近づいて彼がいつものように不機嫌にあしらってくれせすれば、それはただの杞憂に終わったというのに、この状態だ。
 この人は本当に、私の知るセブルス・スネイプだろうか?
 確かめたくて、確かめなくてはならない気がして、彼の元へ歩みを進める。
 彼はそれを見ているのか、見ていないのか、ただ人形のように動かずに待っていた。

「わたしを置いて行かないでよ」

 歩みながら、唇が言葉を紡ぐ。
 自分でも何を言っているのかよく分からなかった。
 ただ、何か言わなければ、彼は二度と戻って来ない気がした。

「いつまでも、貴方のままでいてよ」

 セブルスの目に、何かがちらついた気がする。
 戻って来て。
 戻って、わたしに笑いかけて。
 何を言ってるんだ、ここにいるじゃないかって、いつもみたいに苦笑して言ってよ。

「エバンス、何を言っているんだ?」

 人形のまま、彼は音を発した。
 それは本当に不思議そうで、リリーは何故か悔しくなる。

「だって」

 立ち止まる。
 あと2歩で、彼とぶつかる距離。
 リリーは真っ直ぐに彼を見上げた。

「だってわたしの知ってるセブルスは、そんなんじゃないもの!」

 届いて。
 その耳を覆う薄い膜を破って、彼の中で眠る本当の彼に届いて。
 彼らしくない彼は、違和感を超えて、今にも風の中に溶けそうな不安定な存在に見えた。
 まるでそれは。

「まるでセブルスの中身はどこかへ消えてしまって、皮だけが残像になって残ってるみたい」

 からっぽ。
 人にあるべき単純かつ複雑な、感情や過去、背負っている抱いているすべてのものを、どこかへ置いてきてしまったような。

「エバンス。分からないか?」

 からっぽのセブルスが言った。
 表情からあの恐ろしい笑みは消えていた。
 ただ哀れむように目を細めて、リリーの瞳をまっすぐに見ている。

「私はいずれ、この身で『あの方』にお仕えするんだ」

 闇色の瞳は、どこまでも続く穴のようだった。
 見つめ続けては呑まれてしまうと分かっているのに、目を逸らすことができない。
 その目がひどく恐ろしいのに、何故だかいとおしくも感じる。
 一瞬、呑まれても構わないと思ってしまったほど。

「お前を置いて」

 ああ。
 彼は風に乗って消えてしまうのだ。
 そして彼は。
 彼はどこかで。
 それを望んでいるのだ。
 闇の彼方へと消えてしまうことを。
 …否。
 闇へと歩み闇に抱かれ闇に眠り、いずれ深い深い光の射すことのないそこと同化してしまうことを。

「……行ってしまうの?」

 わたしを置いて?
 涙があふれて止まらなかった。
 ぽろぽろと雫が零れて滑らかな頬を伝い、ぱたりぱたりと服に染みをつくる。地に落ちて消えるものもある。
 セブルスはその様子を優しい目で見つめていた。
 それはいつのまに戻ってきたのか、いつもの彼だ。
 …否、違う。
 からっぽの彼は、彼の中に確実に根を張っていた。彼は身体の半分を、闇に侵されている。
 しかし、それでも。

「エバンス」

 いつもの声音で、彼は彼女の名を呼んだ。

「泣かないでくれ」

 リリーは答えない。答えられない。
 嗚咽が込み上げてくる。
 涙で霞む視界の向こうに、困ったような笑みを浮かべた彼がいた。

「リリー」

 彼がそっとその名を口にした。
 びくりと彼女が肩を震わせる。
 その様さえも愛しいと言うように、彼は一歩だけ彼女との距離を詰める。

 そして手を伸ばし、彼女の頬を伝う悲しみの軌跡を、優しく拭う。
 リリーは何も言わなかった。
 ただ碧い瞳を深い悲しみに染め上げて、涙を生んでは零していった。

「リリー」

 確かめるように、もう一度その名を口にした。
 風が世界の果てへとその響きをいざなう。
 そこは闇か。光か。それとも、どちらでもないのか。もしくは両方なのか。
 そんなことは、どうでも良かった。

「好きだ」

 そう言って笑みに他の感情も滲ませた。
 困惑と優しさと愛しさと悲しさと、想いを口にできた喜びと、想いを叶えることができない事実への憎しみと、遠い過去と近い過去と重い未来と。人が人であるために彼が彼であるために必要な、そしていつか失ってしまう背負うべきものが、今一遍に彼を襲っていた。
 彼らしい、不器用な。
 リリーはその複雑な心情を理解したかのように、無理に笑みを浮かべた。

「わたしもよセブルス」

 彼女らしい、不器用な笑み。
 それでもそれは、やはりひどく鮮やかで。
 セブルスは。
 愛しくて愛しくて、胸が潰れそうだった。指すような痛みさえ心地よく思えた。
 汚らしい埃にまみれているからこそ、守られている美しい世界に立っているからこそ、抱くことのできる輝き。

「わたしも、あなたが好きよ」

 嗚咽の混じったその言葉を、この数年どれだけ夢見てきたか。
 セブルスはそっとその病的なほど白い手を、彼女の頬から顎へと滑らせる。
 想いを伝え合った唇を、そっと重ねて。
 激しい風が吹く中で、互いの背に回した腕に力を込めた。

 愛する人が、風に飛ばされてしまわないように。




















2004.7.26.