「つらいか」 平坦な、しかし奇妙な体温が感じられる声に、伏せていた顔を上げる。 掛けられた言葉の意味にルシウス・マルフォイかと振り返れば、立っていたのは予想に反して自らが君主とする男だった。 「…は……」 一瞬、息をすることを忘れる。 つらいかと聞いた声に確かに感じられた体温は、スネイプを絶句させるには十分だった。 その様子に気付いているのかいないのか、ヴォルデモートはゆっくりと窓辺に寄る。 響く足音にはっと我に返り、数歩下がって場所を譲る。 先程まで自分が握りしめていた窓枠に、彼はそっと手を当てる。窺い見たその仕草は、やはり普段の冷徹な姿からは想像できない人間臭さを内包していて、スネイプは黙り込むしかない。 知っているのだろうか。…まさか。そんなはずはない。 彼がサクラ親子の秘密を、今日という忌まわしい日の意味を知るはずはない。 ならば今話題にされているのは? スネイプは今日の光景を瞼の裏に見る。 ああ、そうだ。人を殺した。 遠い島国で善良な親子が泣きながら祝う今日と云う日も、自分の手は赤く汚れている。 初めて人を殺した日から、もうどれだけになるだろう。慣れることなど決してない、と言えた頃の自分に戻りたいと思うほど昔なのは確かだ。少しずつ何かが麻痺していくように、もう前ほど痛みを感じない。 それでも、その死に顔を一人として忘れたことはない。 驚愕に見開いた彼らの目。糸の切れたマリオネットのようにどうと倒れてなお、閉じられることのない目。 あの目が、何対もの目が、今なお瞼でスネイプを見ている。 「お前は正しい」 王が言う。 彼が見上げる先に、満月がある。 今頃は闇と同盟を結んだ人狼たちが、欲望のまま駆け回っているのだろう。 ずきりと痛むどこかに、眉が寄るのを止められない。 「我々が為していることは、決して善のものではない。正義ではない。今はただ、残虐なだけの殺戮と暴力でしかない。それをつらいと思うお前は、正しい」 そして珍しい、と王の唇は確かに微笑んだ。 「みな、殺しを境に変わって行く。妥協と諦念で私の手を取った者たちも、殺しを境に残っていた良心を捨てる。倫理観を捨てる。暴虐を罪として悔いるのをやめ、自分の行いを正当化するか、精神の在り方を歪ませて単純な悪人に走るかに分かれる。だがお前は今もなお、そのどちらにもなり下がらずに罪の意識を残している」 咎めているようではない。しかし言葉に反して褒められているようにも感じられない。 むしろ、憐れんでいるような。 「悔いているか」 この手を取ったことを。 その腕に、髑髏を刻んだことを。 「…悔いては、いません」 「嘘だな」 間髪入れずに否定される。 「お前は馬鹿じゃない。暴力に悦楽を見出すタイプでもない。お前は、何のためなのか分からない、いつ終わるとも知れないこの戦いに疲弊している」 「私は…」 ごくり、と上下した喉が痛む。 「…純血のために、」 「それも嘘だ」 顔を上げると、青白い貌と紅い眼光が月明かりに浮かんでいる。 鋭い目の光に、何故かふと恩師を思い出した。あの日確かに見た、サングラスの奥に隠されていた、あれは、痛み? 「純血主義? 何を馬鹿な。そんな幼稚なもののために、お前は人を殺すのか!」 嘲る響きに、スネイプは全身を強張らせる。 闇の頂点を自称する男が、口にする言葉ではなかった。 「純血主義は周囲を欺く演技に過ぎないと、私にだけは言えないと言うのか? そんなもの下らないなどという本音は吐露できない? ならば混血のプリンスよ、お前にだけは教えてやろう」 にたりと笑う、唇は血に濡れたように赤い。 「私の父は生粋のマグルだ」 スネイプは声も出せない。 全身から汗が噴き出す。 聞いてはいけない話だった。命の危険を直感が告げた。 気付かぬうちに、禁断の深みまで招き入れられていたのだ。 「純血主義など、近親相姦を重ねに重ねて血の巡りが悪くなった、愚かな貴族たちを従わせる方便に過ぎん。純血に意味などあるものか。純血が最も優れていると言うのなら、私は今ここにない。血に魔法力が関係するなら、マグルの中から魔女は出ない。そんな単純なことも分からぬ馬鹿どもの言うことだ」 月が翳る。 闇夜にぼうっとに浮かび上がる2つの赤から、目が離せない。 「しかし、お前は決して馬鹿ではない。純血を最良とする論理の破綻に、気付いていないとは言うまい?」 罠なのか。 これは、粛清の予告なのか。 雲間から丸々と太った月が再び顔を出す。青白い光が2人を照らす。 自分の終焉を予感せずにはいられないのに、浮かび上がったその相貌に、なぜなのか、夏の日差しの面影を見てしまう。 今世紀最強の闇魔法の使い手の、その血縁。混血の祖父を持つ、混血の娘。本当の意味で純血主義を見捨てたのは、おそらく彼女の影響だった。寮と寮との垣根を越えて、傷つくことさえ構わずに傍らに在った笑顔のせいだ。 「…母の血筋は誇りです。父を憎んでいたのも本当です。しかし確かに純血主義は、自分にとって視界をチラつく煩わしいものでしかありません。混血の貴方を崇拝しています。マグル生まれに友人もいました。我々のやり方に、悪行に、疑問を感じていないと言えば嘘になります。しかし、」 するすると本音が零れたのは、死を覚悟したからなのか。 それとも今、偽らないヴォルデモートの姿が王としてでないのを感じているからなのか。 「悔いては、いません」 保身を考えるなら、今こそ完璧に偽るべきなのだろう。 それが出来ないのは、彼の向こうにあの女を見るからだ。泣いている彼女を見たときに、感じた憤りの欠片がどこかに残っているからだ。彼が偽らないのなら、どうせこの後に粛清される命なら、彼が語らない真実を暴いてみたいのだ。そして知りたいのだ、彼女を、彼らを、多くの人々を、こんなにも苦しめる価値がそれにあるのか。 「貴方の思惑のまま二分した魔法界に生まれ育ち、スリザリンの道を運命づけられた。そもそも初めから、闇の外に道などなかったのです。この手を汚すことになっても、家族だと仲間だと言ってくれた人たちを裏切ることはできない。後悔するというのなら、まずセブルス・スネイプとして産まれたことから否定せねばならない。だから私に悔いはしません。例え時間を戻せたとしても、何度でも同じ道を選ぶでしょう」 父にも母にも愛されず昏い目をした幼い自分を、温かく迎え入れたスリザリン。暗い将来への予防線のようにすべての寮と敵対する代わり、身内にどこまでも甘かったスリザリン。 どんなにつらい選択を迫られても、誰を守れず死なせても、組み分けの日を悔いたことはない。 しかし、 「心を残してきた誰かを死なせても、同じことが言えるのか?」 顔色を変えたスネイプを、男は嗤う。 知っているのか。鎌をかけただけなのか。 どちらにしても平静を装わなければならないのに、それが出来ない。土砂降りの日に預けてきた心が拒む。怒りが視界を燃やす。 それを問うのが、よりにもよって、ヴォルデモートでさえなく、トム・マールヴォロ・リドルその人だからだ。 「貴方が、それを言うのか」 「顔色が変わったな。愛していたのか」 赤く薄い、闇の裂け目のような唇が、うっそりと笑う。 く、だ、ら、な、い。 その唇の動きに杖を握ろうとする利き腕を、全力で抑える。 罠だ。鳴り響く警鐘が頭をがんがんと揺する。分かっていて、それでも、理性とは別の部分で叫んだ。 「愛していたのは、貴方じゃないか!」 彼が愛したから、リチャードは生まれた。 彼が愛したから、リチャードは誰も憎めなかった。 彼が愛したから、リチャードは人を愛せた。 だから、あいつは生まれた。 「貴方が人を愛すから、あいつは貴方を憎めないのに、」 目の奥が熱い。 「あいつが闇を憎めないから、あいつは私と出会ったのに、」 握った拳が震える。 「貴方が、それを言うのか…!」 愛したはずの、貴方が後悔を口にするのか。否定するのか。切り捨てるのか。くだらないなんて、言えるのか。 それならあの苦しみはなんだったのだ。誰も憎めない自分を責め続ける、あの父子の苦しみはなんだったのだ。生まれ故郷のイギリスを捨てて、日本に逃げ隠れするしかなかったリチャードの恥辱はなんだったのか。拭えない罪の意識を押し殺す、あの女の笑顔の仮面はなんだったのだ。この男を愛し愛されたが故に、戦後間もない島国で死んでいったという女の人生はなんだったのだ。 「スリザリンに生まれなければ、私が私として生きて来なければ、あいつと出会い理解り合うこともなかった。それを思えば後悔など、何の意味もないでしょう。人生を初めからやり直せるとしても、私は何度だってセブルス・スネイプに生まれたい。貴方が思うほど、私の人生は不幸ではない」 憐れむな。 見下すな。 馬鹿にするな。 貴方がそこに君臨すればこそ生まれた全てが、闇だと思うな。 そこには確かに、幸福な、かけがえのない日々と、後悔を許さない笑顔があるのだ。 「私は決して、不幸ではない」 あいつが毅然と立つ限り、後悔などと情けない真似はできない。 誰に膝まづいても、媚びへつらっても、自分はセブルス・スネイプ以外の何者でもないのだ。それを幸福と言わず何と言うのか。そう断言できる自分の、何と幸運なことか。 「私は、…貴方が憐れだ」 「………」 「私はどれだけ変わろうと、セブルス・スネイプでいられる。けれど貴方は、もう本当の貴方を持たない」 本当の彼を知る人はもういない。 自分は心を預けてきたが、彼は心を捨てたのだ。名前と共に。 それはどんなに、寒く、冷たく、孤独であることだろう。痛みに揺らいだとき、どこに拠り所を求めれば良いと言うのだ。 「私が、憐れか」 男は微笑った。 確かに、微笑ったのだ。 優しく、穏やかに、まるで春の陽射しのように美しく。 「お前は優しいな」 ―――セブルスは優しいなあ。 そんなことを前にも、誰かに言われた気がする。 「こんな苦境にあっても、そんなに血みどろになっても、そのそもそもの原因たる私をさえ思いやれるのか。…人が好いにも程がある」 ―――まったく、莫迦みたいにお人好しなんだから! 誰かがそんなふうに笑っていた。 「…だからこそ、私にはお前が必要なんだと言ったら、どうする?」 目を細めて悪戯に笑う表情は、子どものそれだ。 肩が動き、腕が上がり、血の気のない真っ白な細い手が、すらりと差し伸べられる。 死体のように冷たいそれが頬に触れて初めて、スネイプは、目の前の男が自分より少しだけ背が低いことに気付いた。そんなことさえ気付かないくらい、この男を恐れていたのだと気付いた。 一人の人間に、過ぎないのに。 「無慈悲に振る舞いながら希望を忘れないお前が、冷たさを身に纏いながら誰かのために熱くなれる若さが、永久を生きる私には必要なんだよ」 離れていく冷たさに、突然、その両手を引き止めてあたためてやりたいと強く思った。 しかしそれは出来なかった。 どうしてなのかは分からなかった。 「世界には戦争というものがあって、日々秒毎に人が死んでいると聞いたとき、私は孤児院の薄汚いベッドの上で世界平和を願った。それからしばらくして、自分には特別な力があると知った。天啓だと思ったよ。それが私の使命なんだと、頭ではなく全身の細胞で感じた」 今もそれを信じている、と言った。 「世界は平和でないのは、国境があるからだ。宗教が違うからだ。言葉が違い、文化が違い、人種が違うからだ。それならば、一人の王がこれを統一すればいい。死ぬことも、間違うこともない王が、世界を正しく、まっとうに、真っ直ぐに導けば良い。幸いにして、私はこれといった努力をしなくても誰より優秀で、抜きん出ていた。やがて私の周りには人が集まり、組織となり、幼い私の途方もない野望は、10代のうちに形になりつつあった」 そして、とそこで一つ息をついて、彼は苦笑を洩らした。 「何かが違うと気付いたときには、もう遅かった。気付かせた女は既に失く、私の命はうつろわぬ存在と化し、全ては動き出していた。もう後戻りはできない。失われた命、この手で握りつぶし踏みにじってきた命の分だけ、私は前に進まねばならない」 はるか高み、誰も手の届かない場所に、男はたった一人座して世界を見下ろしていた。 「だからこそ、お前のような生きた人間が必要なのだ。永遠は私を狂わせるかもしれない。永遠は私を間違わせるかもしれない。こんな年になって、ようやくそのことに気付いた。だからお前は、そのまま優しくあってくれ。希望であってくれ。がむしゃらに、ただ真っ直ぐに生きてくれ。そんな存在が傍にないと、私は指針を見失ってしまう。あの女を愛した私を失くしてしまう。私の望みは、暴走してすべてを壊してしまう」 血の通わない冷たい手。涙を流せない赤い目。孤独に震えることさえも許されない罪深さ。今はただ恐怖でしかない秩序を、やがては正義に変えなくてはならない責任を負う背中。 「私は、間違えてしまう」 なんて。 なんて、かわいそうな人だろう。 スネイプは結局、詰ってやることも、慰めることも出来ずに、暗がりに溶けるように男が――ヴォルデモート卿が――消えるまで、黙って立ち尽くしていた。 2009/03/26 |