彼女を初めて目にしたのは、期待と不安に胸を躍らせて、ホグワーツ魔法魔術学校へ足を踏み入れたその日のことだった。 噂に聞いたホグワーツ特急、囁き合う生徒たち、巨大な湖、壮大な城、動く階段、晴れ渡った空の映る大広間の天井…。全てが真新しく、魅力的に映った。 しかし、彼女との邂逅という凄まじい衝撃は、他の何物かへの興味関心一切を一瞬で吹き飛ばす威力を持っていた。自分に対してのみでない。何者に対しても、だ。 慣例通り副校長に名前を呼ばれ、彼女が立ち上がった瞬間、その場に居合わせた全ての者が息を呑んだ。 眩いばかりの波打つブロンド。 完璧な曲線を描く眉。 すっと通った鼻筋。 煌めく若葉色の瞳。 薔薇色の頬。 花びらのような唇。 美しいだけの存在ならば、ヴィーラを始めそう珍しいものではない。 しかしその“非の打ちどころのない”美貌の内側に棲む王の品格、君臨する者だけが持つ美しい矜持、一目にして窺い知れる孤高にして清廉な人格、そして、燃え盛る焔のように立ち上る崇高な何かが、彼女を常人から画していた。 11歳の少女。 新しい環境に飛び込んだばかりのまだ脆弱なはずの子どもが、その瞬間、その場の全てを支配していた。 数多の視線に臆するような様子は毛ほども見せず、彼女は颯爽と壇上に上がり、ぼろぼろの組み分け帽子を――まるで戴冠式のように厳かに――その尊くもいとけない頭に受けた。 一瞬の静寂の後、帽子は高らかに謡う。 ―――レイブンクロー!!! 3つの寮の落胆の嘆息、そしてそれを掻き消すような割れんばかりの歓声、咆哮、拍手、悲鳴。 少女はふわりと立ちあがると、制服のスカートをそっとつまみ、片足を引き、腰を折り、洗練された優雅な動きで、観衆に向かい頭を下げた。 幕引きを告げる舞台女優のように。あるいは民を前にこうべを垂れた、かの女王のように。 しかしその印象は大変な間違いだった。 誤解だった。 錯覚も甚だしい。 何故なら、その顔がゆっくりと上がったとき、その可憐な唇には、 誰もが目を疑うような、不敵な笑みが浮かんでいたのだ。 ――ごきげんよう 彼女は朗らかな、凛と澄んだ美声によるたった一言で、興奮したその場を静めてみせた。 幼さと成熟を同居させた蠱惑的な微笑みを浮かべたまま、軽く首を傾げる 「あたくしの名は×××××。たった今レイブンクローに配属されたばかりの将来有望な11歳ですわ。僭越ながら、この場をお借りして、みなさまにお知らせしなくてはならないことがございます。」 にっこりと、微笑む。 「今日、このとき、この場をもって、あたくしはあたくしの名において、『悪戯仕掛け人』の発足を宣言いたします」 輝かしき栄光の時代。 永遠に穢れることのない記憶。 お伽噺のような美しい物語。 「あたくしは愛の伝道師、現代のキューピッド、幸福と笑い声の創造主。今日からホグワーツもみなさまも、あたくしの所有物も同じ。異存は一切認めません。あたくしの思うままあたくしの手によって、存分にこの世の春を謳歌なさるが良いわ! ……さあ、幸せになるお覚悟はよろしくて?」 伝説の、幕開けだった。 その後の彼女の行動は、斬新と突飛を極めた。 容姿端麗。成績優秀。才色兼備を地でいく癖に、奇人、変人の称号を欲しいままにした。 同時に、ホグワーツではあちこちで不可思議な現象が多発した。 如何な魔法を使ったのか、厳めしい教師が教科書を開くと、禿げ頭に可憐な花が咲いた。校長の語尾が「にゃん」になった。ナイチンゲールのように鳴くアヒルが廊下を疾走し、ごつい男子生徒の背中に虹色の羽根が生えた。 それらは何ともいえず笑いを誘い、生徒は勿論、教師も説教を投げ出して笑い転げた。 だからこそ、誰もがその怪事件の犯人を知っていたにも関わらず、特別なお咎めはなかった。それだけそれらには、ケチのつけようがなかったのだ。 首謀者はレイブンクローの美しき奇天烈。 その脇を固めるのは、スリザリンに属す双子の兄と、ハッフルパフの同級生、そしてグリフィンドールのアルバス・ダンブルドア。 彼らを4人で、人々は悪戯仕掛け人と呼んだのだ。 「初代…」 シリウスが繰り返す。 老人は頷く。 「そう。初代。聡明な彼女の悪戯は、実に素晴らしかった。今でもあの幸せな日々が目に浮かぶよ。…誰もが笑わずにはいられなかった。厳めしい者も、捻くれた者も、腹を抱え手を叩きそろって笑い転げた。悪戯をされて怒っていたはずの側でさえ、彼女の笑みを前にすると、たちまちふにゃふにゃになってしまうんじゃ。しまいには、頭に花を咲かせた当の本人が、自分の滑稽な姿に笑い出す始末…」 くっくっと、込み上げる笑いを拳で隠して、彼は遠い目を細めた。 不死鳥がその耳を優しく噛む。 「当時にも、やはり対立はあった。家系、血筋、寮、闇、光、黒、白。それは誤魔化しようもなく我々の生の一部で、切り離すことなど出来なかった。それでも、腹を抱えて笑っている僅かな間は、それらを全て忘れていられた」 紅茶のやわらかな香りが漂う。 古い思い出の美しい響きが、何故か耳に痛い。 「君たちは、対立し、いがみ合っていたいた相手と共に、腹がよじれるほど笑ったことがあるかね。お互いの滑稽な姿に、杖ではなく指先を向け合って、涙が出るほど笑い合ったことが?」 答えなど、聞くまでもない。 「どんなにその相手を憎んでいても、顔を見るだけでその時のことを思い出して、思わず噴き出してしまうんじゃ。そうすると、もう憎しみや怒りなど形を保っていられなくなる」 美しい花や虹色の羽根の強烈なインパクトが、それまでの色々を吹き飛ばしてしまう。 笑いすぎて立ち上がれないほどくたくたになって、やがて、自分が満ち足りていることを知る。 「それを彼女は“悪戯”と呼んだ」 臆面もなく、己の正義を愛と定義した。愛を笑いで形にした。笑いはやがて、幸せと呼ばれた。幸せは少しだけ、軋轢を忘れさせた。 それが彼女の魔法だった。 「わしなど足元にも及ばない、世界一素晴らしい魔法使いじゃった」 ――さあ! あたくしのあたくしによるあたくしのための、華麗なるショーの始まりよ! ――アルバス、ギルバート。やっておしまい! ――不幸? 不運? そんなもの、穴のあいた靴下と一緒よ。ごみ箱に放り込めばもう、ただの思い出。 ――あたくしの好敵手は、痛みとか悲しみとか憎しみとか、人の胸の内にだけ棲むもの。決して個人や団体ではないのよ、アル。 ――誰かのためにやっているのではないの。あたくしのためにやっているのよ。あたくしが、みんなに笑って欲しい。ただそれだけ。 ――争いは決して絶えないわ。人間が人間である限りね。でも、争いを無くそうとする努力が無価値だなんて、そんなことは絶対にない。 ――真実の愛は須らく許されるの。血も名も家も種も関係ない。愛が存在することに、罪なんて一片もないのだから。 ――許されざる恋? 禁忌の愛? それがどうしたっていうの? ――たとえ、神が! 王が! 世間が! 許さないとしても! あたくしが許すわ! それでもまだ何か不満があって? 「彼女はわしに言った。“人の最大の使命は、自分と他人の笑顔と幸福なのだ”と。わしはそれを信じた。今も信じておる。君たちはどうかね?」 生徒たちは押し黙っている。 困惑、葛藤、反感、疑念、後悔…。様々な思いが4つの頭の中で渦巻いているのが手に取るように分かった。 それを見つめて、胸の中に、頭の中に、瞼の裏に、今も生き続けている少女が、優しく笑っている。 ――まったく、仕方のない子。 だからアルバス・ダンブルドアは、どんな時も誰にだって微笑みかけることができるのだ。今もまたやはり、唇は穏やかに弧を描いた。 「さあ、年寄りの昔話はここまでにしよう。そろそろ部屋に戻りなさい」 子どもたちの居なくなった部屋で、アルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアは、ひとりティーカップを傾けた。杖を振って、クラシックのレコードに針を落とす。この年になると、椅子から立ち上がるのも億劫になる。程なくしてピアノソナタが小さく響き始めた。 ――悪戯って、人を笑顔にさせるものだと思うんだ。笑っていい思い出にできるものじゃなきゃ、ダメだと思うんだ。 ありったけの勇気を振り絞った、幼い少女の言葉が蘇る。 「驚いたのう。…こんな時代にも、君と同じことを言う子がいたよ」 瞬きをした拍子に、するりと涙が零れた。 ――…もっとすてきなことで、くだらないことで、いっしょに笑いたいんだ。 こんな時代に、彼女を知るはずもない少女がそれを口にした。誰よりも偉大な彼女と同じことを言った。それが、他の誰でもなく、あの・だなんて。 「こんなに嬉しいことは、ここ最近なかったよ。なあ、フォークス。お前もそう思うじゃろう?」 涙声で笑う。嗚呼、年を取ったものだ。 部屋に漂うアッサムの香りが、彼をますます深い追憶へと誘う。 彼女は紅茶が好きだった。 特に、彼女の兄が手ずから淹れるミルクティーが好きだった。 晴れ渡った空の下。眩いテーブルクロス。ギルバート自慢のプラムのタルト。黄金色のアッサム。螺旋を描いて溶けてゆくミルク。悪戯。笑い声。計画。笑顔。 最も幸福だったあの頃。 満ち足りていた、数年間。 「わしらは、どこで間違えたんだろうなぁ」 もう100年もの間、同じ問いばかり繰り返している。答えなど出たことはない。 フォークスが音も立てずに彼の肩を離れ、止り木へ戻る。それをぼんやりと見遣りながら、やはり彼女を想う。 彼女は未登録のアニメーガスだった。11歳の内にその術をマスターした少女は、美しい不死鳥の姿で大空を滑空した。青空によく映える深い紅。太陽の光を受けて燃え立つ黄金色。瞳の色は人の時と変わらず、悪戯に煌めいていた。 そっとその名を口ずさむ。 うつくしいひと。すばらしいひと。そして何よりも、あわれなひと。 彼女は言った。 許されぬ恋などないと。愛に禁忌などないのだと。罪など、背徳など、瑣末な慣習に過ぎないのだと。それならばなぜ、 「なぜ、わしらは間違ったんだ」 なぜ、幸せになれなかったんだ。 答える者はいない。問いかけは彼女には届かない。 胸の中に、頭の中に、瞼の裏に、彼女は今も生きているのに、それは結局記憶に過ぎず、問いかけることのできなかった問いの答えを口にしてはくれなかった。彼女はただ、今も微笑んでいる。穏やかに。清廉に。死ぬ瞬間にさえ浮かべていた、あの変わらない笑顔で。 ――貴方は誰も彼もを愛し過ぎるのよ。 ――偉大なことだけど、素晴らしいことだけど、それってたぶん………すごくむごいわ。 紅茶はもう、冷たくなってしまった。 ![]() 20090416 |