カリカリとペンを動かす手を止めて、マスタング大佐はちらりと部下の横顔を窺い見た。 部下は気付いているのかいないのか、書類のチェックと分類わけする手を止めない。 意を決して、マスタング大佐は口を開いた。 「なあ、中尉」 「仕事です。大佐に休みはありません」 まだ何も言っていないうちに、ちらりともこちらに目を遣らないまま、質問の答えをきっぱりと言い放った。 マスタング大佐に殺気のみでそんなことを強制できる部下は、リザ・ホークアイ中尉その人しかいない。 「……やっぱりそうなるか」 「当たり前です」 がっくりと肩を落とし、額をゴンと机に押し付けたマスタング大佐は、低く呻いた。 「クリスマス、なんだがねえ中尉」 「軍にクリスマスも何もありません。それとも軍服をクリスマスカラーにでも統一しますか?」 「……女性がミニスカならそれでもい」 「撃ちますよ?」 「いかなあなんてこの私が考えるはずがないじゃないかはっはっは」 処理の終わった書類を左側の山にのせる。 彼女はインクが乾いた順にそれを取り、鋭い目でチェックをする。 母親に見張られながら宿題をすます子供の気分ってこんなものだったかな、などと他愛もないことを考えながら、左側のそれより更に高い右側の山のてっぺんから1束にまとめられた書類を取った。 「…なあ、中尉」 「だめです」 「まだ何も言っていないじゃないか!」 「この書類の束すべて片付けたら、女性のところへ行っても結構ですよ」 彼女の経験と把握している限りのこの上司の過去の言動を計算したところで、彼の言葉とそれに対する正しい答えはあっけなく弾き出された。 ―なあ、中尉。今日は約束があるんだが。 多少違いはあったかもしれないが、意味合いは間違っていなかったはずだ、とほぼ確信を持っていた。 が、どうだろう。 「いやいや、そうじゃなくてだね…」 と、彼は首を振った。 驚きは努めて顔に出さず、「では何ですか」と首を傾げてみせた。 口を開きかけた彼は途中で動きをとめ、やがて口を閉じた。ペンの頭を顎にあてしばらく難しい顔をして黙り込んだが、 「あー……なんでもない」 と言ったきり、また書類に戻ってしまった。 一体なんなのかと気になりはしたものの、仕事をやれと急かしているのは自分なので、せっかく真面目に書類に向かっているのを邪魔すると不愉快な矛盾を生じさせることになりかねない。 あえなく断念し仕事を再開した中尉の背中に、彼の視線が突き刺さる。 振り向いても、澄ました顔でペンを動かしているだけだ。 なんだというのだ、まったく。 苛立ちか呆れかが顔に出ていたのだろうか。ちらりとこちらを見た彼は、どことなく決まりの悪そうな顔をした。 「中尉こそ、今日予定はないのかね」 「大佐と残業です」 「それは奇遇だな」 「……………大佐」 誰のせいだと思ってるんだ。 殺気込められたその意味を的確に理解した彼は、顔をひきつらせて無理に笑った。 「そうかそうか。じゃあ、私が終われば中尉も終わり、と?」 「分かっているならさっさと仕事してください。まったく……上司の怠慢が原因でクリスマスを過ごせない部下の身になってみるべきでは?」 「いやあ、まったくだ。うん、すまない」 まったく悪びれない顔で、あははと笑いながら謝罪されては呆れるしかない。 溜息をついた中尉は、大佐のマグカップにコポコポとコーヒーを注いだ。 「中尉、私はね」 「……」 彼のそれをデスクに置いて、つづいて自分のマグカップに注ぐ。 上司は無視を決め込む部下の端整な横顔に、自然と顔を綻ばせた。 「クリスマスは本命の女性と過ごしたいのだよ。社交的な付き合いじゃなく、ね」 彼の視線を受け流しながら、書類をぺらりと捲る。 いけない。ここはタイプミスがある。あとで修正しておかなくては。 そんなことを考えながらも、(では本命とは誰だろう?)などと考えている自分は、見事にロイ・マスタングの術中にはまっているのだろうか。 しかし女性付き合いが異常に多いこの男に、そんな存在があるとは。 複雑な心境を微塵も感じさせない無表情で、書類の文面を追う。 無反応だったのに少し拗ねたような顔をして、彼は乱暴にサインした書類の束を左側により分けた。 また新しい書類を手に取り、つまらなそうに目を通す。 それからどれくらいの時間が経っただろう。 少なくとも、その後2束と3枚の書類を処理した頃に、彼はまた口を開いた。 「ついさっき。……本命の女性となら」 中尉は紙の上の世界から現実に引き戻され、それからその上司の言葉が何分も前の話のつづきなのだと認識するまで、約2秒。それだけの間沈黙をつくったあと、少し微笑んで頬杖をついた。 「残業デートも悪くはないかと思ってしまったんだよ。私としたことがまったくもって不覚を取った」 手を止めて、振り返った。 彼はやはり頬杖をついたまま微笑んでいたが、どこか緊張して見えるのは気のせいだろうか。 笑っていると目を細めるのでよくは分からないが、黒い瞳が少し真剣にも見えた。 柄にもなく顔が火照りそうになるのを察知して、中尉は顔を背けた。 「…残業デートなんて…わたしは御免です」 沈黙が降りる。 あまり間を空けないで、デスクの方からペンが紙の上を滑る音が再び聞こえ始めた。 空になったポットと、自分のマグカップを盆に載せる。 平静を装った歩調でデスクに歩み寄り、上司のマグカップも回収する。 彼女は彼の顔を直視できずに、目を伏せたまま呟いた。 「ですから、さっさと仕事を終わらせてください。……19時までに終わったら、予定変更も考慮します」 平静を装っているものの、いつもより速いテンポの足音を聞きながら、彼はぽかんと彼女の背中を見送った。 ばたん、と拒絶的な音と共に執務室の扉が閉まる。 それからしばらくして、彼もばたんと机の上に伸びた。 「まいったなあ」 今きっと、自分はポーカーフェイスどころじゃない顔をしているに違いない。 「まいったよ、まったく」 顔をあげた大佐の顔にはにやにやと子供のような照れ笑いが浮かんでいる。乾ききっていなかった書類の上に伸びたせいで、鼻の先には黒くインクがついている。 29歳の成人男性とは思えない顔で、意欲的に書類の束をまとめて手にとった。 「…やる気さえ出せば、こんなもの」 19時まであと3時間ある。 「すぐに片付けてみせるさ」 終わった頃はきっと丁度良い時間になっているだろう。だから、夕食に誘おう。 きっと町は恋人で溢れかえっているだろう。そこを2人並んだら、人の目からはどんな風に見えるのだろう。 どこに行こうか。 彼女はどんなところが好みだろうか。 クリスマスイヴの日暮れ時。 執務室の前を通りかかった軍人Hが、いつにない速さで仕事をこなしていく上司を目撃した。 首を捻りながらも自分のデスクに戻った彼が、凝った肩をぐるぐると回していると、凄まじい音がその場に響いた。振り向くと、どんなときも沈着冷静な美女の上司が、砕け散ったマグカップ2つ分を呆然と見下ろしていた。 軍人Hは色々と可能性を考えてみたが、不毛すぎると頭を振って忘れることにした。 煙草を吸いに軍人Hが部屋を出てもまだ、彼の上司はマグカップの残骸を睨みつけていた。 平静さを取り戻した彼女が再び執務室のドアをノックするのは、それから1時間半後のこと。 一人の男が、きれいになった机を前にきらきらした笑顔を披露するのは、更に15分後のことだった。 2004/12/21 ロイアイって難しいっス。 とりあえず。メリークリスマス! 良い夜を。 佐倉 真 |