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藤田五郎は、太刀に一突きされたかのような胸の痛みを抱いて、ゆっくりと道を歩いていた。 人々の賑わいが、肌に足に絡みつき体を重くする。 かつて侍が肩で風を切って歩いたこの町は、確実に今の時代を歩んでいた。 しかし、どこそこに、あの頃の面影がある。 その道のその場所で、あのとき誰それと他愛ない立ち話をした。 いや、あちらの角では、出会い頭に刀を抜いて敵に応戦したことがあった。 そういえば無理矢理つれてこられたあの甘味処で、あんみつを奢らされたっけ。 そうだ彼とあの店で、ああいう女にはこれ、こういう女にはあれと何やらわけのわからぬことを伝授もされた。 彼らと蕎麦を食べたあの店は、もうないのか。 彼らと歩いた道はこんなにも変わったのか。 知り尽くした町を歩く。 足は自然と、昔よく通った道を通る。 思い出が生々しいほどに蘇る。その度に、胸の痛みは増していく。 辛い。痛い。 錆びた鉄の臭いを嗅ぎながら駆け抜けた町の変わりようが辛い。 だというのに、なぜか。薄れかけていた思い出がまざまざと思い出されて、湧き上がるのは言い知れぬ歓喜なのだ。 それはどこか甘い誘惑を持って、藤田の理性を酔わせもっともっとと道の先へ誘う。 と。 呼び止められた気がして、振り返る。 そこには、笑顔があった。 「 やあ、一さん。こんなところで何してんですか? 」 時が止まる。 「 おう。どこ行くんだよ? まさかまた蕎麦屋じゃねえだろうな 」 端整な仏頂面の男もいる。 笑顔と仏頂面が、やわらかい視線で自分を見ている。 ――ああ。沖田さんに土方さん、おそろいで。俺ですかい? そう、俺はこれから…… 自然と返事をしようと口を開いたとき、どんと誰かにぶつかった。 「あ、かんにん」 ぶつかった娘はこちらに頭を下げて、急いでいるのかせかせかと歩き去った。 藤田はその背中を見送って、はっとなって振り返った。 しかしそこには、誰の笑顔もなく、誰の仏頂面もない。ただ誰もいない空間だけがぽっかりと空いていた。 すべては、京という町と思い出に酔った、藤田の心が作り出した幻だったのだ。 (そうだ。死んだのだ、あの人たちは。ここに生きているはずはないのだ。あの人たちはもう笑いかけてはくれんのだ。声をかけてはくれんのだ。あの名を呼んではくれんのだ) しっかりしろ、藤田五郎。 強く自分を叱咤する。そして深呼吸をして真っ直ぐに前を見ると、霧が晴れたように町は姿を変えた。 町は町。京は京だ。 藤田は鮮明になった頭に、心の中でにやりと笑った。何を女々しく彷徨っていたんだろう。これでは彼らに笑われてしまう。 藤田は普段の無表情に戻ると、一歩足を運んだ。 やはりそれは重い。しかし先程とは比べようもない現実味を持った足取りで、藤田は目的地へと急いだ。 行き交う人々をすいすいと避けながら、藤田が思い描くのはあの仏頂面の男が珍しく見せた赤面と慌てようだった。 お雪はほうっと息を吐いて筆を置いた。 肩を回すと、こきこきと音が鳴る。 まあ半日近い時間、筆を離さなければ当然のことだろう。 しかし、全く苦ではない。書き上げたという満足感で胸は満たされている。 お雪が描いたのは、夕焼けに彩られた細い京の道の絵だった。 今までに何枚も、よく似た景色を描いている。しかしすべて色合いが違い、場所が違い、視点が違う。 女ひとりで生きていくには、世の中は厳しい。 しかしお雪は運のいいことに、ひとり静かにここで暮らすことができる。 お雪は絵を描いて生活していた。ある店に売り上げの一割を渡す約束で絵を置いてもらい、やってきた客に売ってもらっているのである。 お雪の絵は写実的で、最近の客はそれを気に入ってくれる。わざわざお雪の絵を買いに、その店に寄っている客もいるらしい。 女ひとり細々と暮らすには、十分な金だった。 お雪は毎日、絵を描いてくらした。部屋には数え切れないほどの絵が広げられている。気に入らなかった絵はすべて燃やして灰にしているので、すべていつ売りにだしてもいいものだ。 その中で、一枚、特別な絵ある。 大切にしまってあり、お雪は毎夜それを眺めたあと眠りにつく。 彼と歩いた河原とその日の夕焼けを、最もよく描くことのできた一枚だった。 お雪は彼が死んでも、強く生きていた。 自害して彼の後を追おうとは思わない。辛いとき何度か考えたことがあるが、それは絶対にしないという意思がある。 それでは、彼に顔向けができないのだ。侍として、武士として、男として、立派な散った彼の元に行くのに、寂しくて自害したなどあっていいはずがない。 だからお雪は、強く強く生きていた。 からりと縁側の戸を開けて庭に出た。 春の爽やかな風が、全身をふうわりの包み込んだ。 夕暮れ前の青い空が眩しい。 目を細めてそれを見上げたあと、うーんと少女のように大きく伸びをした。 すると、道の向こうに人影が見えて、動きを止めた。 背が高く痩せていて多少猫背気味の男が、緩やかな坂道を俯き加減に上ってくる。人の気配に気付いたのか、ふと視線を上げた。 狐のような細い目の、しかし穏やかで静かな顔をしていた。 じっと見られているものだから、お雪は手を下ろすのを忘れて見つめ返していた。 相手が頭を下げて、やっとハッと気付いて腕を下ろす。急に恥ずかしくなって、顔が少し赤く火照った。それを誤魔化すように、頭を下げ返した。 「お雪さん、ですね」 決して声を張り上げたわけではないのに、その声はよく聞こえた。 名前を知られていることに軽く警戒心を覚えないでもなかったが、悪意らしきものは微塵も感じられない物腰に、不思議とお雪は素直に頷いていた。 「はい。あの…失礼ですが、あなたは…?」 「ふじ――いえ、斎藤 一と申します」 その名前に、彼の笑顔を思い出した。 笑いながら指折り数えて己の部下の名前を上げた。それがどういう人物なのかも事細かに説明してくれた。 「あなたが…」 「ご存知ですか」 斎藤は小さく笑った。 お雪は口を開きかけて止まり、慌てたように家を振り返った。 「どうぞ、中へ」 「すみません」 お雪は慌てた様子で、ばたばたと家に走りこんだ。 首を傾げながらも後につづき、斎藤は成る程と頷いた。 小奇麗で清潔な部屋だが、今は一面に紙が散らばっている。慌てて片付けるお雪を横目に、斎藤は近くのそれを無造作に拾い上げた。 ほうっと声が漏れる。 なかなかいい絵だ。夕暮れ色に染まった池の中の鯉。写実的で、美しい。 「絵を描いていらっしゃるんですか」 「ええ。趣味が商売にとでもいいますか」 お雪は気恥ずかしそうに言って、かき集めた絵を隅の方にまとめた。 彼女がお茶を準備している間に、斎藤は畳に正座して黙って部屋を見回していた。 ここにあの人は座っていたんだろうか。いや、たぶんあの辺りにだらしなく寄りかかって、煙草でもふかしていたんだろう。 あの縁側でごろごろ横になっていたこともあったのだろうか。あの庭の梅を見て下手な句でもひねったことがあったんだろうか。 「粗茶ですが」 彼女が湯のみを斎藤の前に置いた。 斎藤は会釈してそれを受け取る。その間にお雪は自分の座る場所を確保するために、更に絵を片付ける。 待っている間、斎藤は湯のみの蓋をはずして脇に置くと茶を一口飲んだ。 (……あ) 斎藤は湯のみを覗き込んで、しみじみと呟いた。 「これはいい茶ですな」 「え?」 「いえ、こっちの話で」 お雪は不思議そうな顔をして、やがて向かい合って座った。 斎藤は静かに手の中の茶を見下ろしている。 「斎藤さまは、わたしのことを?」 「一度副長からお聞きしましてね」 みんなで寄ってたかって問いただした、と言った方が正しいかもしれない。 「あなたのことを話す副長はなかなかの見物でしたねえ。いやあ、あれは面白かった」 真顔で言われて、お雪は思わずころころと笑った。 「慌てもので口うるさいって言ってらしたでしょ」 「いえいえ。江戸の気風が気持ちのよい、よく気のつく美人だと」 「嘘ばっかり」 「嘘じゃあない。俺は生まれてこのかた一度も嘘ついたことないのが自慢なんですから。ただ記憶が曖昧なだけです」 斎藤はやはり真顔で言い切って、ずずずとお茶を啜った。 お雪も湯のみを握ったはいいのだが、笑いのせいで結局飲めずにいる。 「あの人もよくあなた方のこと話してくれました。ですからわたし、隊のことはとっても詳しいんです。三番隊組長の斎藤一さまですね?」 「はい。今は“藤田五郎”と名乗っています」 「そうですか。…あの人の話には、斎藤さまがよく出てらっしゃいましたよ」 「おんや、そうですかい? 一体何と言ったのやら。どうせ悪口でしょう」 「“あいつぁ、おっもしれぇ奴だよ。俺ぁは我ながら鋭いほうだと思うんだが、あいつにゃ敵わねえな。何考えてんのかさっぱり分かりゃしねえ。あれぁどっかの狐が人間様に化けてんだよ絶対。賭けてもいいぜ”…と」 斎藤は笑った。 「失礼な。人を何だと思ってたんだか、あの人は」 「狐だと本気で信じてたみたいです」 「覚えてる限りじゃ、俺は尻尾なんて持ってないんですけどね」 「揚げを食べるために毎日蕎麦屋に通うんだとも言ってましたよ」 「…純粋に蕎麦が好きなんですよ」 「ほんとに?」 「これはほんと」 「これは…? 嘘をつかない方の発言とも思えませんね」 「敵わないなあ、ほんとに。副長も口では負かされていたんじゃないですか? ま、俺でさえ勝てたからねえ」 大真面目な顔をされても、どこからどこまでが冗談なのか分からない。 成るほどこれは狐だ、とお雪は笑った。 「斎藤さまは、ご家族は」 「妻と息子が一人ずつ」 「一人ずつ?」 「いえいえこちらの話で」 まさか妻が2人いるのかと思わせるような口ぶりに、またお雪はころころと笑った。 笑顔がきれいな人だと、斎藤は顔に出さずに思う。 成るほど、あの鬼副長が惚れたのも頷ける。 そんなことを考えてお茶を飲むと、僅かに何かを感じた気がして振り返る。が、そこには壁があるだけである。 「どうなさいました?」 「いえ。ちょっと」 殺気が。とは言えない。 変なことを考えたので、あの世であの男が怒っているのかもしれない、とくだらないことを考えて笑った。 「ところで斎藤さまは、今日はどうしていらっしゃったんですか?」 「あー……そう聞かれると困るものがありまして」 髭のないつるりとした顎を撫でて、ううんと唸った。 「あなたの話をお聞きしたあと、副長に言われたんですよ」 「はあ。また何を」 「“俺にもしも何かあったら、頼まれてくれないか”…と」 「はあ?」 ぽかんと口を開けたお雪に、斎藤は苦く笑った。 「そういう意味じゃなかったと思いますよ。ただ女ひとりにするのが心配だったみたいでね。気にかけてくれないか、ぐらいの気持ちだったようです」 「ああ、それで」 「ええ。でも俺は会津の者なので、身動きが取れない時期がありまして。最近はようやく生活にゆとりが持てたので、やっと約束を果たせたというわけです」 「お気になさらなくても、こうして生活できていますのに」 「ですよねえ。お雪さんは副長よりしっかりして見えますから」 「そうですか?」 「ええ。あの人案外ガキでしたから」 「…否定できませんね」 「でしょう」 夕暮れに染まった坂道を、藤田はゆっくりと下った。 不思議とあたたかい気持ちで、穏やかな景色に細い目を細めている。 春の風が吹く。 そういえばあの人は春が好きだったと、梅の木の下を通りながら思う。 唐突にその夕暮れを眺めていたくなって、人気がないのを確認した藤田は草むらに腰を下ろした。 目を瞠るような真っ赤な太陽が、細い雲の間でゆっくりと沈んでいく。 そういう藤田の背後にある空は紫色で、夜がすぐそこにやってきていた。 ふと、先程貰ったものを思い出した。 ――わたしの描いたものです。よろしければ、お暇なときにご覧になってください。 丁寧に折りたたまれた紙。 恥ずかしいからと、なぜかその場では開かせてもらえなかった。 懐からそれを取り出して、藤田は紙を開いた。 そこにあった人の顔に、藤田は固まった。 見開いた目から、どっと涙が零れ落ちる。 愛用の煙管を右手に持って、左手では乱れた髪を掻きあげながら、穏やかに笑う男の顔があった。 あまりにも写実的で。あまりにも似ていて。あまりにも。あまりにも。 今にも動き出しそうなその顔に、藤田は涙の止め方を忘れた。 右手で口元を覆う。 子供のように嗚咽する喉を抑える余裕もなく、俯き、口元から右手をはずし代わりに顔全体を隠すように抑える。 涙が頬を伝い、顎で止まり、落ちる。 「ひ、……かた…さ…」 あんたはあの人の前じゃ、こんな無防備に笑っていたのか。 彼がそれほどに誰かを愛していたのだという事実が嬉しかった。 そして。彼がそこにいない事実が悲しかった。 斎藤一は、子供のように声を上げて泣いた。 2004/12/27 すみません。斎藤氏はこんなヘボぢゃありません。 もうオリジナルだか二次創作だか分からんものになっちまいました。 お雪さんは「燃えよ剣」の彼女をイメージ。 でも斎藤さんは「獅子の棲む国」の彼をイメージ。 ううん。難しいっス。 |