――藤田さん

 呼ばれて振り返るのに、一瞬も躊躇がない。
 当たり前のような反射的な動作。
 それが皮肉に感じて、目を伏せて自嘲を漏らした。
 たくさんの名を持つ自分にとってそれは、いろいろな意味を持った。
 山口一。生まれたときに初めてもらった名前だ。そのときは、名前を変えることなど考えもしなかったはずである。
 しかし、あの事件によって俺の人生は変わった。
 斎藤一。それが最も世に知られている俺の名前だろう。
 新撰組三番隊組長、不死身の斎藤。その名を思い浮かべるたび、震えるような何かが自分を包む。
 興奮に似ている気もする。哀愁のようにも感じた。それが何なのか分からない。果たして名前があるのかも。
 あのころが、俺の華だった。
 名声、権力、金、女。望めばいくらでも手に入った。幸い手に入れたいと思ったことはなかったけれど。
 代わりに、人を斬った。
 斬りたかったわけではない。否、それとも俺は斬りたかったのか?
 斬ることによって斎藤という自分を確立したかったのだろうか。無垢であった山口と区別したかったのだろうか。
 返り血を浴びることには慣れていた。
 殺り合っている最中のことはおぼろげにしか思い出せなくとも、人を斬った後の激しい息遣いと汗と鉄の匂いは忘れられない。
 逃げ惑う男を斬り下げたこともある。志をその目に宿した若者の首を刈ったこともある。愛しい人の名を呼ぶ男にトドメを刺したこともある。
 この手はあまりにも人を斬り過ぎた。
 竹刀だこが残るこの手を見るたび、返り血のねばつく感触を思い出した。
 洗っても洗っても消えない。

 ならば洗わずに握り締めようと吹っ切ったのは、あの人がいたからだった。
 あの人は、優しかった。
 彼を知る多くの人間はそれを否定するだろう。鬼と呼ばれた男だ。
 しかし、優しかったのは事実だ。少なくとも俺にとっては。
 恨んだことなら、腐るほどある。
 しかし彼はその俺の憎しみさえも、ぴくりとも表情を変えずただただ受け止めて。
 そう、彼は。
 優し過ぎたからこそ、哀しい人だった。
 たくさんの荷を自分のものと決めこんで、誰にも触れさせようとはしなかった。
 理解も求めなかった。
 全ての重荷を汚名を侮辱をその身で受け止めていた。
 苦しかったろう、辛かったろう、痛かったろう。しかしその重みを知るほどに、彼は他人にそれを押し付けようとはしなかった。
 強い人だ。
 辛さを押し込めて、誰にも悟らせなかったのだから。
 強い人だ。
 強い人。

  何故彼は死んでしまったのだろう。
  何故俺を置いて、逝ってしまったのだろう。

 嗚呼、あんたは。
 あのとき俺に生きてくれと言ったね。
 あんたらしくない、率直な優しい言葉に。
 どれだけ不吉な予感を感じたことか。
 案の定、あんたは死んで。
 俺は重すぎる思い出を抱えたまま、こうして生きている。

  あんたは何故、俺を置いて逝った。

 思い出にはいつも、血と汗と仲間と、そして勿論彼の人の姿がある。
 しかしその横いつもある、もうひとり優しすぎた男の影も鮮明だ。
 剣の腕は俺と互角か、…それ以上か。
 彼もまた血塗られていた。彼の人のために、自ら手を血に染めた人だ。
 その柔らかな笑顔の裏に、何を隠していたのか。
 俺には垣間見ることも許されなかったが、彼の人とあの男の繋がりは見た目よりも深いものであったと思う。
 女のように美しい笑顔が、無骨な俺にさえ儚いと感じさせる男だった。
 彼もまた、死んだ。
 病の床で鬼神と呼ばれた男は散った。
 儚すぎたが故に。

 嗚呼、あんたは。
 あのとき俺に幸せになれと言った。
 あまりにも不自然な、今にも泣きそうな笑顔に。
 どれだけ、どれだけ、胸を痛めたことか。
 あんたの死病を知っていたから。
 思い出を抱いている腕が、千切れそうなほど痛い。

  あんたは。
  あんたたちは。
  何故死ななければならなかったのだ。


 そんな埒もない問いを重ねて、俺は生きている。
 山口次郎、一戸伝八、そして藤田五郎。名前を変えて生き延びているのだ。

  彼は何故死んでしまったのだろう。
  俺は何故生きているのだ。
  何故死んだのが彼なのだ。

  何故、俺ではない。

 誰も答えはしない。
 答えられるものなどいない。神も仏も、答えなど持たぬだろう。
 俺は惨めに生きていくしかないのだ。
 それだけが俺の持つ道なのだ。
 何故なら俺には今、守らなければならないものがあるから。
 家族が、あるから。

  何故、俺は生きたいと思うのだろう。


   生きるのは、あまりにも辛すぎると言うのに。

















2004.7.2.

 妻を娶っても、子供ができても。
 彼の中のしこりは、消すことはできなかったと思うのです。
 消そうともしなかったと思うのです。
 それでも強く強く生きた彼を、尊敬せずにはいられません。