変わってしまった町並みを横目に、重い足を引きずって歩く。 この風景から逃げ出したいと胸は叫ぶのに、歩調は決して速くはならない。 人々の笑顔が痛い。 穏やかな空気が辛い。 春がやって来た。 緩やかにまた、春が廻って来た。 俯いて歩く内、賑わいは通り過ぎて背中に。 少しずつ遠くなって、やがて静かになる。 変わらない川の水音が聞こえる。 流れて流れて、川は決して止まらないのに、あの頃と変わらない姿で。 桜が、一本ある。 細くはない。しっかりとした幹。 少し大きくなったかもしれない。生きているのだから当然。 でも触れた、幹の冷たさは。 風に舞う、花弁の色あいは。 あのころと、何も変わらない。きっと錯覚じゃない。 あの人は、春が好きだった。 「おい斎藤」 「はいよ」 「何してんだ、お前ぇ」 「空見てんですよ。…いやあ、春ですなあ」 「当たり前じゃねえか」 「桜でも見に行きますかい、土方さん」 「野郎と見に行く趣味あねぇよ。見たいんなら一人で行ってきな」 冷たく言い捨てたはずなのに、仕度して出掛ければ、彼はいつの間にか傍らを歩いていた。 真っ直ぐ前を見て、ちらりとも此方に目を向けなかった。意地っ張りなのは知っていた。 それでも可笑しくて、さり気なく口元を隠したのはご愛嬌。 益々彼の横顔が不機嫌になったから、その笑みも慌てて引っ込めた。 「どこまで歩くんだよ」 「すぐそこですよ」 彼のせっかちに、薄く笑った。 彼は舌打ちして、袖に腕を突っ込んだ。 桜は綺麗だった。 彼の顔から、不機嫌が吹き飛んだ瞬間を見た。 子供のようだと思った。女のようだとも思った。 感想を聞くのは野暮だと思ったから、黙って根元に腰を下ろした。 彼はいつまでも上を見上げて、茂る淡紅色の隙間から見える、空の青に見ほれていた。 白い喉仏。風に揺られた乱れ髪。髪をかき上げたときに見えた。腕の白さ。 妙に色気があって、思わず見惚れた。見惚れた自分に、胸の中で舌打ち。 衆道じゃなくて良かったと思った。 「春ぁ、好きだ」 「そうかい」 知っていた。 知らなかったら、誘わなかった。 でもそれを言う必要性はなく、何となく相槌を打った。 「桜あ、良いよなあ」 「そうですかね」 こんなところで、孤独に一本。何十年も立ち続け、さぞや辛いだろうと思った。 けれどそれを聞いたら、女々しいと言われそうだからやめた。 それから、何を話しただろう。 彼がぽつぽつと、意外と詩的に春の魅力を語り、それに相槌を打つだけだったと思う。 気の利いたとはお世辞にも言えない、冗談交じりで気の抜けた相槌だっただろうが、彼はそれも気にならないらしかった。 それからどういう経緯で帰路についたかは、覚えていない。 ただ花弁が舞い落ちるのを、いつまでもいつまでも2人で見ていたことだけが、鮮やかに思い出される。 それから、色んなことがあった。 たった数年で、目まぐるしく生活は変わり、俺とあの人は軍を率いていた。 たくさんの仲間が死んだ。たくさんのものを失った。色々なものを残して来た。置いて来た。 後戻りはできず、またしようとも思わず。 辛くないと言えば嘘になるし、後悔していないとも言えない。 毎日、味方の力と、敵の力を計って過ごした。 味方の減った数と、敵の減らした数を数えた。 生きることと、殺すことだけを考えていた。 「おい斎藤」 「はいよ」 彼は昔の名で呼んだ。 山口だと何度も言ったのに、彼はどうしても間違えてしまうようだった。 「悪ぃ、悪ぃ」と謝られるのも面倒になって、ついに訂正するのも諦めてしまった。 「あの桜ぁ、どうしてるかねえ」 「は…」 一瞬、何の話をしているのか、まったく分からなかった。 ぼんやりと遠くを眺めている彼の横顔を見て、ぼんやりとあの日の情景を思い出した。 あまりにも遠すぎる日の、些細な出来事で、そのときはあまり鮮明に思い出せなかった。 ただ空を見上げるようにしている、一重の涼しげな目元が、その日と重なって見えた。 「あの…桜ですかい?」 「それ以外にお前に話す桜なんてあるかよ」 「確かに」 ふと彼の横顔に滲んだ笑みが、酷く自嘲的なものに見えて目を瞠った。 いつからこんな顔をするようになったのだと、胸が痛かった。 「いつか、また見に行きますかい?」 彼は少し沈黙して、ゆっくりと頷いた。 「そうだな。見に行こうぜ」 明日の命も保証されていなかったのに。 もうその頃には、勝つ見込みなどとうになくなっていたのに。 「男なら約束は破るもんじゃないよ、土方さん」 「守るさ」 この身朽ち果てても、と。 あの人が小さな声で呟いたのを聞いた。 存外耳の良い自分を恨んだ。 どうしてあんな約束をしてしまったんだろう。 桜が舞っている。 花弁が舞っている。 舞い落ちるその様は綺麗だけれど、足元に積もった薄紅は死だ。美しすぎる花の屍骸。 なんであんたは此処にいないんだ。 あの日の彼と同じように、空を見上げる。 薄紅色。揺れる陰影。青い空。白い雲。陽光。 美しくて美しくて。 空を見上げていなければ、泣いてしまいそうだ。 違う。 あんたが此処にいないんじゃない。 知ってる。間違いは俺。 どうして俺は、此処に生きているんだろう。 それが正しい問いかけだ。答えなんてないし、そんなもの欲しいとも思わないけど。 「おっさん」 突然の声に、驚いて振り返る。 十かそこらの可愛い子供が、こちらを見上げている。 華奢で可愛い顔をしているので、少女と見るのが大半だろうが、声を聞いていたのでそれが少年だと分かる。 「1人で何してんだ?」 問われて、咄嗟に口を開く。 「人を待っているんだよ」 誰を? 口元にのぼった笑みは、自嘲。 馬鹿みたいだ。 「すっぽかされてんの?」 「うーん、そうだねえ。何年も待ってるんだけどねえ。やっこさん、案外律儀な性格だから、きっと約束は守ってくれると思っていたんだが」 毎年毎年、こんなところに来て、果たされない約束を追いかけてる愚かな自分。 “この身朽ち果てても”? 朽ち果ててしまったら、俺にはわからないじゃないか。 馬鹿な人だ。 俺はそれより馬鹿だけど。 「何年も待ってんのか?」 切れ長の目を丸くさせて、少年は感心したように「へえ」と唸る。 子供のくせに、一重の涼しげな目をしている。 「なんでそんなに待ってんのさ」 なんで? なぜ? どうして? 「会いたいからさ」 会いたいんだ。もう一度。 「帰って来ないと分かっちゃいるんだが、会いたくて会いたくてたまらないから」 こんな約束に縋ってるのさ。 そのたびに傷ついているのは、自分だと知っていながら。 「おじさん、馬鹿だからなあ」 「…変なやつ」 呆れたような呟きに、思わず苦笑して「そうだねえ」と頷いた。 少年は上を見上げて、目を細める。 「おっさん、春好きか?」 「さあ、どうだろうね。あの人は、好きだったようだけど」 「そっか。俺も、春ぁ好きだ」 「そうかい」 泣きそうなのは何故か? この少年が、彼に似ているからか。同じ言葉を口にするからか。 「桜は良いよなあ」 「そうかね」 「うん。だって、風に吹かれて散っちまっても、来年になればまた咲くもんよ」 春は廻る。 廻り廻って、またやって来る。 「俺、来年もまた此処来ようかな。おっさんもまた来る?」 「ああ、おじさん馬鹿だから。たぶんまた来るよ」 「じゃあ、また会えるかもな」 「ああ」 「じゃあ、会おうぜ! 約束だ」 笑った顔までそっくりだ。 こちらも笑んでしまう、無邪気な笑み。 「坊や、名前は?」 「トシ!」 春がやって来る。 約束の季節。 「死んじまった、親父の名前なんだってさ。お袋が言ってた」 「…そう、かい」 もう一度。 もう一度、会いたい。 願望に縁取られた、守られない約束。 「いっけね。早く帰んなきゃ、お袋に叱られらあ!またな、おっさん」 「ああ。また」 また、また会おう。 きっと此処で。 「坊や。男なら、約束は破るもんじゃないよ」 「守るさ、絶対に!」 小さな後姿を見送る。 来年は、妻と子供を連れて、来てみようかと思った。 桜が舞っている。 舞っている。 まっている。 2004/10/10 |