「婚約おめでとう」
 カチン、と音をたてて紅茶のカップをソーサーに戻しながら、リーマス・ルーピンは言った。
「ありがとう」
 紅茶のカップを両手で包むように持ち上げて、リリー・エヴァンスが言った。
 彼女は綺麗だった。
 彼女は昔から僕らのマドンナだった、とリーマスはぼんやりと思う。ジェームズは勿論だが、シリウスだって、ピーターだって、リーマスだって本当は彼女のことが好きだった。それは、恋ではなかったかもしれない。例えばポスターの中のアイドルを思うような、文字の連なるページの向こうのヒロインを思うような、そんな気持ちだったかもしれない。それでも、ジェームズにだけは言えない、という背徳感は抱くには十分なほどの思いだった。
 けれど。
「どうしたの、リーマス」
 彼女が一心に見つめていたのは、彼らの中の誰でもなかった。
 ジェームズでさえも。
「ねえ、リリー」
 小首を傾げた可愛らしい彼女に、リーマスは少し微笑む。

「君は本当に、ジェームズが好きなの?」

 未来のポッター夫人は、ほんの少し目を瞬かせた。
 それから心持ち目を伏せて、カップをソーサーに戻した。その口元は微笑んでいた。

「ええ、好きよ」

 何の迷いもなかった。
 それはリーマスの、小さな嫉妬と加虐心をくすぐった。
「じゃあ、彼のことはもう忘れたってこと?」
 リリーの宝石のような目が、ここで、初めて揺れた。
「あなた、気付いて……?」

 気付いたのはいつだっただろう。
 深い知性の光を宿した宝石の目が、ふとしたとき、無意識に人を探していることに。
 焦がれるような顔をして、見つめた先にいる男に。

「…そう。うん、気付くならリーマスだろうなあ、とは思ってたわ。……ごめんなさいね」
 謝罪の言葉に、リーマスはひょいと片眉を上げた。
「悪いとは思ってるんだ?」
「ええ」
「ふうん?」
 リーマスは意地悪く笑った。
「後悔してるんだ?」
 リリーはまた少し笑った。

「いいえ、ちっとも」

 今度はリーマスが驚いてみせる番だった。
「ほんの少しも?」
「ええ、全然よ」
「どうして? だってジェームズが好きなんだろう? ジェームズはスネイプを憎んでたのに」
「知ってるわ」
「じゃあ……」
 つづきの言葉を呑み込んだのは、リリーは母親のような顔で笑っていたからだ。
 まるで、「なんにも分かってないのね」とでも言われているような気がして、悔しかった。
 やがて、彼女はリーマスから視線をはずして、窓の外を眺めた。

「いい恋だったと思ってるの」

 愛しむような細めた遠い目をした横顔は、一段と綺麗だった。

「最初で最後の、素敵な恋だったのよ」
 豊かな紅い髪をそっとかき上げながら、独り言のように呟く。
「辛いことや苦しいことばっかりで、何度も泣いたけど、それでも素敵な恋だったわ。彼を思うだけで胸が苦しくなって、彼の姿を見るだけでどんな不機嫌も吹き飛んだ。そして彼も」
 穏やかには違いないのに、少し泣きそうに見える綺麗な横顔。
 ああ、胸が苦しいのは何故だろう、とリーマスは少し眉を寄せた。
「彼もそれに、少なからず答えてくれた」
 それは、知らなかった。
 心底驚いているリーマスにちらりと笑いかけて、リリーは指先で自分の髪をくるくると弄んだ。
「あなたたちに隠れて、デートもしたわ。すべてがきらきらして見えて、そのとき初めて世界が美しいと知ったの」
 遠い――いや、ほんの数年しか経っていない、まだその息遣いを感じられるほど近しい――思い出の数々に思いを馳せる。
 その綺麗な横顔から、リーマスは目を逸らした。
「まだ、好きなんじゃないのかい?」
 苦し紛れに、そんなことを言ってみる。
「いいえ、好きなんかじゃないわ」
 きっぱりと首を振った彼女を、勢いに任せてからかってみた。
「へえ? こっぴどい振られ方でもしたのかい?」
「彼は最後まで優しかったわ。それに振ったのはわたしの方」
 一度ゆっくり瞬きをして。
「好きなんかじゃないの」
 視界の隅で彼女は、やっぱり綺麗に笑った。

「愛してるのよ」

 囁くように優しく響く、愛の言葉。
 それは、裏切りの告白に等しかった。

「だって、君は」
 呆然としたリーマス口走った言葉を拾い、リリーは頷く。
「そうよ。ジェームズと結婚するの」
 今度こそ絶句した。
 リリーはおかしそうにころころと笑った。
「ねえ、リーマス。幸せになるには、愛だけじゃだめなのよ。愛だけじゃ、幸せにはなれないことだってあるの。そしてそれが、わたしと彼のケースだったというだけ。そのことに、彼もわたしも気付いてしまって、そしてその時が来たから、辛かったけどお別れしたの」
 諭すような声音で、諦めたような笑顔で。
「愛だけじゃ幸せになれないように、幸せになるには愛はいらないことだってあるわ。わたしは今もセブルスを愛してるけど、ジェームズのこと好きよ。セブルスと生きても悲しくて切なくて苦しいだけだけど、ジェームズとなら幸せになれるって思う」
 女って不思議な生き物ね、と未来のリリー・ポッターは笑った。
 リーマスは初めて気付いた。彼女のその美しい笑顔が、涙に等しいのだということに。
「最初で最後の恋だけを思って独り生きてくことはできないから、ささやかだけど穏やかな幸せを選んだのよ」
 リーマスは、何も言えなかった。
 知らなかった。
 彼女がこんなにも弱い、どこにでもいる、当たり前の女の子だったなんて、知らなかった。
 リリー・エヴァンスは強い女性だと、勝手に思い込んで。
 彼は、セブルス・スネイプは、そんな彼女にとってどんな存在だったのだろう。彼は彼女の弱さに気付いたのだろうか。
「ねえ、リーマス。こんなわたしってやっぱり、酷い女、なのよね?」

 女性は実に、実に朗らかに笑った。















2005/11/12