ラジオから、流行りの歌手の歌が流れてくる。
 清らかな女性の声が、悲しい恋の歌を紡いでいる。
 それは空気に溶けるようにゆったりと響き、積まれ散らばった書類が生む雑然のとした執務室の雰囲気を包み込んだ。
 開け放った窓から、穏やかな風が吹き込んでくる。
 飛ばされるほどはないが、何枚かの書類がぺらりと音をたてた。
 ラジオ独特の少し掠れた音の生む歌と、風にめくられる紙が生む音の中、男はうとうとと机に頬杖をついていた。
 あと一歩で夢の中、という時、こつこつとノックが男の寝ぼけた耳に届いた。
 ずるりと手が滑って、危うく机とディープなキスをしそうになったところで急停止。慌てて男は身を起こす。

「大佐、先程の書類についてですが…」

 入ってきたのは、黄金色の髪を高いところで纏め上げた、きりりとした印象の女だ。
 ぴしりと青い軍服を着こなした彼女は美人だったが、感情の動きが見られない表情が、それに影を落としていた。
 女は先程渡した書類の山が、ちっとも片付いていないのに気付いて、厳しい顔で上司を睨んだ。
 男は冷や汗をかきながら、引き攣った微笑みを浮かべている。

「丁度良い。今からやるところだったんだよ、中尉。決して忘れていたわけじゃないから、安心したまえ」
「そうですか」
「そうだとも」
「では、わたしがここにいるうちに仕上げてくださいますね?」
「…はい」

 肩を落としてペンを握った男を女は一瞥して、持って来たポットから、男が既に飲み干したあとらしいカップに、熱いコーヒーを注いだ。
 その気遣いさえも、男は急かされているような感じがして、困ったように眉尻が下がる。

「目を通した分の書類はどこですか?」
「ああ、その…それだ」

 男は机の端の、一際小さな書類の山を指差す。
 ぴくり、と女の綺麗な柳眉がはねたような気もするが、男はできるなら気付かなかったことにしておきたい。

「随分とペースが遅いようですが」
「そうかね。いや、少し考え事をしていてね」
「そうですか」
「そうだとも!」
「……大佐、よだれがついていますよ」
「え?」

 口元に手をあててしまった後、男は自分の失態にハッとする。
 これでは寝ていましたと自白したようなものだ。
 執務室の温度が、少し下がったような気がした。今度温度計でも設置してみるべきだろうか。いいや、彼女の殺気で物理的に室内の温度が下がるなんて、それもそれで恐ろしい結果だからやめておこう。世の中には知らない方が良いこともある。
 女が何も言わないので、男は逆鱗に触れることのないよう大人しく作業にかかった。

 機械的に文面を追いサラサラと適所にサインを書き込みながら、空いた手で己の頭をがしがしと掻いた。
 女はコーヒーをカタリと置いて事務的に男に勧めた後、既に処理の終わった少量の書類の確認に入った。
 ぱらぱらと、紙のめくられる音がする。
 窓から相変わらず、穏やかな風が規則的に吹き込む。
 ラジオから聞こえてくる声が、次の曲を紡ぎ出した。歌詞は違えど、先程の曲と曲調は変わらず、やはりどこか悲しい。

「この歌手がお好きなんですか?」

 何の感情も含まれないが、それはそれで澄んだ綺麗な声で女は尋ねた。
 男は軽く肩を竦める。

「別に。まあ良い声をしているとは思うが、特にというわけでもない。ただ偶々ラジオをつけたら偶々流れていただけさ」
「そうですか」

 2人の間に、ふわふわと悲恋の歌詞が漂う。
 歌手は一度も“悲しい”とか、“辛い”とか、そういう言葉を口にしていない。
 だがどこか、そういう気持ちを感じさせた。

「君は音楽を聞く趣味が?」
「いえ、特には」
「これは結構、有名な曲だそうだが」
「よく流れているのは耳にしますが、特に興味を持って聞いていたことはありません」
「そうか」

 一際大きく、バックのピアノの音がポロンと鳴った。
 心なしかボリュームが上がったのは、サビの部分に入ったかららしい。


 カリカリ、カリカリ。
 ぺらぺら、ぺらり。
 微かな音がする。
 ラジオが音楽を奏でている。


 ふと男の耳に届いていた澄んだ声が、二重になったような気がした。
 男は手を止めずに、ラジオの調子が悪くなったかなと考える。
 丁度、2度目か3度目のサビの部分だ。
 そこまでくれば、次の歌詞が頭に浮かぶ程度には、男もその歌を覚えていた。それでなくても、最近はどこでだって耳にする曲だ。
 男も結構、良い曲だと思う。
 今や気のせいではなく、歌声は二重に重なっていた。
 最初は気にしていなかった男も、それぞれの音の音源が、別なところにあることに気付く。
 もしや。
 男は相手に悟られないよう、ゆっくりと手を止める。
 顔を上げると、ぺらりと書類をめくっている女性の横顔が見えた。

 小さな無意識のハミング。

 男はまた作業に戻った。
 口元に小さく笑みをたたえ、文面に目を通しながらそのハミングに耳をすまし続けていた。
 ラジオの音さえも、今は彼女を飾るものに思えてならなかった。

 きまぐれにラジオをつけてみて、本当に良かったと思った。















2004/10/20

 遅くなって申し訳ないです。瑠璃さんへ。