絵の中の貴婦人たちの囁きやゴーストたちの笑い声しか聞こえないはずの夏のホグワーツの静寂を、ふたりの生きた人間の声が密やかに震わせていた。 強面のガーゴイルが守護する扉の向こう。 部屋の所有者たる老人はぐるぐると歩き回りながら延々と自分の考えを口に出し、もう一人の男は書類や本を片っ端から読み漁り前例の有無や許容範囲を黙々と調べている。白い髭をしごきながら校長は呻くが、男は紙面から顔を上げない。あれはすべて彼の独り言で、返答を求めていないことが分かっているのだ。 あれからすぐさまホグズミートまで飛んで行き、学校へ着くと必要な資料を持ち得る限りかき集めて、2人の作業は始まった。あれからもう何時間になるだろう。始めたころには僅かに朝日が差すだけで薄暗かった部屋も、すっかり日の光に包まれて明るくなっていた。そろそろ昼食の時間だが朝食もとっていない。 こんなにも頭を悩ませ時間に追われ、疲れていたうえの徹夜だったというのに老人の顔はあくまでも穏やかだ。その目は輝いてさえいる。 男は相変わらずの仏頂面でそんな上司を盗み見、呆れたように溜息をついたが、すっかり凝った肩や首を回す彼の顔にもいつもの険しさはない。 「つまるところ、やはり選択肢は3つということになるの。管理人見習いか、図書司書補佐か、臨時講師か」 彼の言葉は疲れにもめげず明快かつ軽やかに響き、規則正しい足音の上で弾む。 それにつられていつの間にかリズムを打っていた己の指に気付いたスネイプは、ピタリと手を止めて軽く眉をひそめた。 「スクイブ扱いとなれば管理人の仕事は至極妥当じゃろう。現にアーガスは立派に努めてくれておる。最近は双子の悪戯がますます活発化しておるからのう、そろそろ人手を増やした方が良いかもしらんと思っていたところじゃ」 しかし彼女にやらせたら、悪戯に参加するか逃亡の手助けでもしだしそうだと思ったが、口にはしなかった。 そんなこと彼は100も承知だろう。 「図書司書も本好きだった彼女なら上手くこなしてくれよう。補佐という立場なら何かと自由もきこうし、蔵書についても悩んでおったところじゃ、新しい風を入れてみるのも良いかもしれん」 おそらく彼女は何度も失敗を犯すだろうし、転ぶだろうし、本を散乱させ、開いてはいけない本を偶然にも開くだろう。 それに確かに彼女は本好きだから本を大切に扱うだろうが、司書としての役割をこなせるかといったら話は別だ。しかしそれもまあ努力でなんとかするだろう。 「うーむ…、しかし、臨時講師も捨てがたいのー。実演してみせることはできんじゃろうが、学生時代、彼女の成績は常に平均以上を保っておった。知識だけでも子どもたちに授けてくれればありがたい。何せ今年のDADAの新任教師は……なんというあ…正直……うぅむ、…やはり欲しいのー、DADA講師。スクイブじゃから風当たりは強いじゃろうが、スリザリンさえなんとかなれば後は…、そこんとこ、どうにかならんもんかのーセブルス?」 もうすぐ同僚となろうとしている男の存在を思い出し、げんなりしていたスネイプは突然の呼びかけに反応が遅れた。 しかも、そんな質問答えようがない。 「…私に言わんでください」 「きみの寮じゃろうて」 「個人の思想にまで責任は持てません」 「なんじゃ、冷たいのー。可愛い恋人のために人肌脱いでやろうという甲斐性もないんかの?」 誰が、誰の、なんだって? 「……………恋人ではありませんが」 「オオウ、なんじゃ! まだゲットしとらんかったのか、セブルス! わしゃてっきり………そう睨むでないよセブルス、ますます人相が悪くなるじゃろう。…しかしまったく、最近の若いのは情熱に欠けておる。わしがあと50歳若かったら三角関係でもっと面白かったんじゃかのう」 何言ってやがるこのジジイ。 「確かに未成年の頃は清く正しくが基本じゃが、もうきみも三十路過ぎじゃろ。ときには理屈を捨てて己の感情に正直にならねば始まるものも始まらんよ。わしがきみくらいのときは、ご婦人方との駆け引きを日々楽しんだもんじゃ。いい歳した大人が一晩女性を家に泊めておいて、事に及ばないにはしても布石のひとつも置かないままお行儀よくしとったなんて、もうそりゃ男性失格じゃよセブルス。爪が甘いのー。桃缶のシロップのごとく甘いのー。」 余計どころか巨大なお世話だ。 力を入れすぎて震えている拳の中では貴重な資料が悲鳴を上げているが、そんなことは両者ともどうだって良いようだ。先ほどまでの穏やかさはどこへやら、怒りを懸命に堪えてか頬の筋肉をひくひくと痙攣させ米神に青筋を浮かべた男は黒い怒りのオーラを着々と量産し部屋中に振りまいている。が、とうの偉大な大魔法使いはにやにやと意地の悪い笑みを浮かべどこふく風といった様子だ。 この人について歩くうち弱い部分も多く知ったが、こういう年寄りじみた意地の悪さも時折ちらちらと見せる。 そして困ったことに――これを知ったときの衝撃は誰にも想像できまい――彼は意外に下ネタが好きだ。 「…話を元に戻しますが」 「いやわしは別に戻さんでも」 「管理人か司書ならばフィルチやピンスを交えて今後について話し合う必要がありますな」 「ていうか実際とはどこまでいったんじゃ?」 「彼らにも今まで一人でやってきたプライドもあるでしょうがそこは説得するとして、問題になるのは仕事の分担と給与の差異ですか」 「無視かね」 「勿論彼らには今までどおりの額を払うおつもりでしょう。それでは新参者はその6割程度、――おそらく本人は5割で十分だと申し出るはずですが。しかしそれでも、なかなか承諾してはくれんでしょうな。丸め込むのは容易いでしょうが、彼らの仕事への誇りと今までの労は顧みて然るべきだ」 「…おーい」 「とすれば、講師が順当かとも思われますがそれもいささか不安ですな。彼女も卒業して体感的には数年過ぎているはず。子どもに教えられるほど知識が残っているかどうか。その上、実質は13年過ぎているのですからその知識さえ既に古い」 「…」 「しかしそれらの不安を別にすれば、形式上はおそらく問題ないでしょう。管理人が2人というのも異例ではない。約180年前、夫婦で管理人を務めたという記録があります。図書司書の方は双子の姉妹が一度、あと高齢の司書の下で短期間ですが女性が働いていたこともあるようですな。スクイブの講師は……300年前に一度。2年で辞職していますが」 「…徹底無視は流石に堪えるんじゃが」 「では、いかがしますか」 「………そうじゃのう」 ほう、と溜息をついて、どさりと椅子に腰を下ろす。 高級で頑丈な彼の椅子は、キシ、と少し呻いただけでその衝撃を受け止めた。 「結局どうするかは、自身に決めてもらう方がよかろ。我々は彼女がどれを望んでもスムーズに事が運べるよう、すべての準備を整えておくとしよう。無論“どれも選ばない”という4つ目の選択肢もあるがのう」 「承知しました」 必要な書類だけを山から抜き取るとトントンと端を合わせる。この膨大な資料から得たにしては呆気ないほどその束は薄く、思わず苦笑いが漏れる。 彼女が就職するのに必要となるだろう書類も取り寄せておかなければならない。魔法省に提出する分と、学校で管理する分と、その他諸機関にも提出しなければならない。面倒だが仕方がない。必要と思われるそれらを今思いつくだけ書き出してみたが、ふと、手が止まる。 「名は…」 「うん?」 聞き返すダンブルドアは手ずから紅茶を淹れなおしている。 その広い背に向かい、一瞬だけ躊躇ってスネイプは問いかけた。 「彼女の名は、どうしますか」 手を止めた。 しかし、振り返らなかった。 「偽名を、考えてもらうしかあるまい」 「…」 頷いた。 彼には見えていないはずだがそれは確かに伝わっていたはずだ。 何とも表記し難い沈黙が落ち、スネイプは息を吐いた。溜息とも言えない小さな吐息は、胸の中のわだかまりをほどいてはくれなかった。ダンブルドアはスネイプの前に静かに一つカップを置き、自分の机にもそれを置いた。座ったままのスネイプが見上げると、彼は目を細めて穏やかに微笑んでみせた。それは不思議とスネイプを安堵させた。そう、大丈夫だ。問題ない。 スネイプは初めて彼の微笑みに許された日のことを、鮮明に思い出せた。 深い闇の中に本能と欲求のまま進もうとした少年の肩を掴んで、彼は笑ってくれたのだ。それは彼女と会うよりもいくらか前のことだった。それによってかろうじて泥沼につかることなく、それなりにうつくしい学生生活を送ることができた。しかしその後の己を救うことはいかなダンブルドアと言えどもできなかった。何故ならその救いを断固として拒否したのはスネイプ自身だったからだ。愚かな自分を憎らしく思うが、何度同じ人生を繰り返しても己は同じ道を選ぶだろう。家族にも等しかった彼らを敵に回して生きることは、当時の自分には不可能だった。 そんな今更考えても仕方のないことを無駄に思っていたときだった。 「邪魔するよ」 女の声が飛び込んできて、不覚にも軽く飛び上がった。 がばりと振り返ると、音もなくするりと入室する黒衣の女。その双眸にひたりと見据えられて、一瞬杖に伸ばしかけた手をほっと下ろした。その姿はまだ一度見たきりだが、その黄金は見間違えようがない。 「これはこれは、珍しいお客様じゃ」 楽しそうに笑って、紅茶はいかがかな猫舌なら冷ました方が、などと校長は大好きな無駄口を叩く。 それを完全に無視して、ただはスネイプにちらりと笑いかけた。彼もそれに頷いてふたりの挨拶は完了した。彼女にまでも無視された校長はちょっと不貞腐れている。 「どうやって入った」 「…ガーゴイルとは顔馴染みでね」 石像に顔馴染みも何もないが、長命の彼女ならば何でもありえそうな気もしてとりあえず口を噤んだ。 「何かあったのかね?」 「まどろっこしいのは好かない。単刀直入に言うがね、伝言を頼まれて来た。あの子は……は、件の力は封印すべきじゃと言うておる」 口を開きかけたスネイプを片手で制して、校長は無言で先を促す。 女の表情は硬い。口調は古風で、外見とは逆にひどく動揺しているらしいとスネイプは見抜いた。 「2人でいろいろ話してね、いつか必ず必要になるからと、昨夜思いつく限りの業を試してみたんだよ。すぐに分かったのは、彼女の能力は決して万能じゃあなかったこと。彼女のクニでは言霊と呼ぶらしい。調べてみらねば分からぬが、クニの言葉の言うままに力は働くようだ。しかしあれは癒しの方向にはまったくと言っていいほど役に立たぬ。代わり、ものの性質や形の変化、攻撃や破壊は恐ろしく簡単にやってのけたよ」 瞳孔が突然きゅうっと細くなって、ぎょっとした。動揺でほんの少し本性を覗かせたらしい。 それは、動物的本能からくる恐怖なのか、彼女を思うゆえの不安なのか。どちらにしろ強い彼女の見せる脆さは直視しがたかった。だがその凛とした声は揺らがないまま静寂を震わす。 「燃えろと言ったら燃え、斬ると言ったら斬れ、凍れと言ったら凍った。しかし元に戻れと言っても、戻らなかった」 が望んだのは、“戦う力”だった。 願いを叶えたアレは戦う要素に癒しや修復を認めなかったらしい。敵を排除するためのアクションにのみ、それは絶大な力を持っていた。 どうしてあんなに平凡で馬鹿で阿呆でどうしようもない女が、こんなにも危険な存在にならねばならなかったのだろう。 両の手を関節が白くなるほどぎゅっと握り合わせ、前かがみになって額にあてる。祈る体勢に似ていたが心情は逆だ。もしも本当に神というのがいるのなら、この拳で殴り倒してやりたい。 「あの子は来るべき時が来るまで、もう二度と母国語を口にしないと己に誓うた。あれはあまりにも…危ういから。妾はこのことを伝えてくれと言われて来たんだ。文をしたためる暇もなく、信頼できる梟もおらなんだから」 「…そうか。…ここまで走ってこられたのじゃろう。まあ、お座りなされ」 青い目は痛みを宿して揺れていたが、目立った動揺は見せなかった。 ただ巧みにそれを隠しているのか、それともこの事態をいくらか予想していたのか。おそらくは後者だと見当をつけてスネイプはますます手を強く握った。彼女の重荷は減るどころか増えるばかりだ。それなのに我々にできることといえばほんの僅か、徹夜とか書類整理とかその程度のものでしかないのだなんて。 「…セブルス」 静かに呼ばれて、ゆっくりと顔を上げる。 無力感に沈んだ黒を、細い細い瞳が真っ直ぐに貫いた。その目は言葉よりも表情よりも雄弁に、響いた。 「あの子はひどく怯えておる」 その言葉のつづきは、言わなくても分かっていた。そしてみな同じことを危惧している。 彼女はただ弱いだけの女ではないけれど、特別強いわけでもない。その力は細い肩に重く重く圧し掛かり、身動きしただけで崩れてしまいそうで、スネイプは恐いと思った。今まで何度も立ち上がってきた彼女が脆く崩れてしまう光景を見るのは、どんな過去よりも恐いと思った。 そう、彼女は怯えている。 「怒りにかられて、“死ね”と口走ってしまういつかに」 誰かの命をこんなにも容易く、消し去ってしまえる自分に。 そしてそのとき、窓から飛び込んできた年老いた梟がもたらした手紙によって、重い沈黙に包まれていた校長室は再び慌しくなる。 が倒れた。 その一文で、校長とスネイプは椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がると全速力で走り出し、は猫の姿になるとその後を追いかけた。 ひとまずホグズミートまで出なければ、姿現しは使えない。 スネイプは走りながら「馬鹿野郎」と罵った。 どうせまた、くだらない無理をしたに決まっている。 2007/02/09 ダンブー書くの楽しい。 セブと互角の速さで走っているお爺ちゃんを想像してください。(真剣な顔で全速力) 見事な平泳ぎを披露できるくらいだから、たぶんローブの下は実はムッキムキなんだきっと。 某戦う灰色の魔法使いみたいに。(むふ) ちなみに学生時代はけっこう体育会系。 姐さんは走ってホグワーツまでやってきました。流石に少し時間がかかった模様。 |