草原に転がり、白み始めた空を見上げた。
 背中に石が当たって居心地が悪かったけれど、今は身動きひとつも億劫で仕方なかった。
 たなびく雲も、薄れゆく星も、今は心に響かない。
 虚しい。
 悔しさを滲ませた虚ろな穴を、ちょうど鎖骨のあたりに感じた。
 重い責任とその重大性への恐怖が、鳩尾のあたりに蹲っている。

「こんな…」

 指先が震え、腕が痛み、足腰は役に立たない。
 肩が重く、膝が笑う、背骨が軋み、動く気力を尽く削いだ。
 どこもかしこも痛くて仕方ない。
 痛みは意識すれば限がないのに、痛くない場所が見当たらない。
 紡がなければならない言葉に恐怖しながら、慣れない力を酷使したせいだ。
 それとはまた別の理由で、喉の奥がひりひりと痛み、鼻の奥がつんとして、眼球の奥が熱い。
 泣かない。泣かない。泣かないけれど、こんな。

「こんなもののために…」

 草原に広がった、いくつものクレーター。
 大地に刻まれた、巨大な刃で斬りつけたような幾筋もの傷跡。
 黒々と伸びた焼け焦げた道。
 巨大な棘の形に隆起した土。
 破壊。破壊。破壊の跡。

「こんな力のために…!」

 多くを、尊いものをあんなにも多く失って。
 嗚呼、それでも。
 もう、立ち止まってはいられない。
 引き返すこともできないのなら、歩むべき道はひとつだ。










 ロンの家の素晴しさといったら、ダーズリー家と比べるべくもない。まったく本当にメチャクチャ素晴しい!
 魔法使いの家らしいたたずまいに、期待を裏切らない奇怪な日常品。優しくて怒ると怖い母親に、愉快な兄弟たくさんいるのだから賑やかだ。
 そして、朝。
 僕はロンに言われるまま階下に下りると、そこで死体のようにテーブルにうつ伏せた女の人を見つけた。
 眠っているのかと思ったが、「死ぬぅ……死んじまうぅ……」と呻いているのが聞こえるので、どうやらそうではないようだ。魔法使いの家というのは、こんなのが日常茶飯事なのだろうか。黒髪の東洋人が朝テーブルで死にかけているのが?

「まったく、どうして朝からそんなに疲れてるの!」

 キッチンからモリーおばさんの声がする。どうやらこの人は不審な侵入者ではないらしい。
 …いや、侵入者ではないにしても、不審には違いないか。

「だからぁー、夜中に目が冴えちゃってぇー、庭に出たらぁー、めちゃめちゃ気持ちよかったからぁー」
、語尾がのばすのは止めなさい」
「はーい。…えっと、それでー…なんだっけ……あーそーそー、散歩してて、んで、なんか調子にのって走ってみたら、わたしもまだまだ若いな〜って思ってますます調子に乗って、それから朝までずっとマラソンしてました〜。ほんとマジ疲れた〜。ってかよく考えたら、わたしってもしかしてすごくバカ? よく考えなくてもバカ?」

 たぶんその通りだ。

「……くそー、今ここにアイツがいたら、“ただの馬鹿じゃない。お前は救いようのない馬鹿だ。史上類を見ないほどの大馬鹿だ。”とかって鋭いツッコミを入れてくれるのに…!」

 机に伏したまま「ギブ・ミー・相方!」と叫ぶ女性。……どうしようこの人、真性の馬鹿だ。
 困って立ち尽くしていると、背後のロンが声を上げて笑った。

「夜にマラソンって何それ! ってやっぱ馬鹿だろー!」

 本当のことを直球で言っちゃダメだって何度言ったら分かるんだろうこの赤毛馬鹿。そんなことだから、ハーマイオニーに馬鹿にされるんだよ。言っちゃなんだけど脳味噌足りてないんじゃないのかなほんと。人のことをどうこう言うまえに自分のことを振り返ってみてくれると友人としては嬉しいんだけどこういう本音はなかなか口に出せないよね困ったな。

「あー…おはよう、ロニー。朝から元気だねー子どもはー。いーねー若いって」
「朝から疲れてるなんてってマジありえねえー!」

 「なにおう!」とよくやく顔を上げたその人は、思ったより幼い顔をしていた。おそらく10代だろう。
 まず目がいったのは、今まで見たことのない赤い色の目だった。なんとなく、どこかで見た赤ワインを思い出した。驚いたが、魔法界ではそんなに珍しいことでもないのかもしれない。
 疲れたような顔をして、眠そうな目をしぱしぱさせた。

「あーおはよージェームズ。今日も髪の毛大爆発ねー」

 え?

「つーか、まじありえないってその髪型。あんたの周囲はいつも強風警報発令中かってんだよコノヤロウ、でもなんでだろよく似合ってんぜ畜生。不思議だよ吃驚だよもうそれ吃驚ヘアーでいいよ、そこには魔力がこもってるんだよ不思議ヘアー。つーかもしかしてそれでリリーをゲットしたのかテメエ殴るぞコラ」

 えぇ!

「………あれ……ごめん、ジェームズ死んだんだったっけ。えっと…んん…あれ? じゃ、君だれ。何、もしかしてジェムさん、向こうでとうとうリリーに捨てられて化けて出てきた? いや、流石にそれはないか、そんなことできるほどの技量なんてないもんね。ノリとハッタリで世間を渡ってったオトコだもんね。えっと、ごめん人違いでしたごめん、っていうかごめんなさいほんとにごめんなさい。どなたですか」
「……ハリー・ポッターです」
「…………………………………………ハリー?」
「はい」

 ジェームズって。
 ジェームズって、それにリリーって言ったよね、今この人。
 いや、ちょっと待て。この人、この人、僕知ってる。誰だっけ。ほら、あの人だよ、ええと。
 ひどく長い時間に思えた一瞬の間に様々な記憶を検索にかけて、ハッとようやく思い出したとき、彼女はガタンと大きな音を立てて立ち上がった。
 どうしてか僕はぎくりとして口を閉じた。
 殊更ゆっくりと、どこか恐る恐るとした足取りで僕に歩み寄ったその人に、何も問いかけることができなくなった。その人の表情がどこか夢をみているような、ぼんやりとしたものだったからかもしれない。僕の向こうに他の誰かを見ているような、遠い遠い何かに焦がれているような、そんな目で僕を見ていたからかもしれない。
 心臓の音さえ響きそうな静けさの中で、僕は気がつけば息を止めていた。
 その人の目は僕の目の少しだけ向こうに焦点を合わせたまま、ちらりとも逸らされない。
 女の人にそんなふうに真剣に見つめられたのは初めてで、僕はカチコチになっていた。一歩後退さりたがる足にぐっと力を入れて踏ん張った。
 ぼんやりと僕を見つめる赤い瞳が、ゆらゆらと揺れている。先ほどまでやかましく動いていた口とは対照的に、その目は恐ろしく静かで、正体の分からない動揺以外は何も読み取らせはしなかった。
 並んで見ると、それほど背は高くない。とても頼りなくて、幼い子どもみたいに見えた。
 恐る恐る、慎重に、ゆっくりと、まるで触れたら消えてしまうんじゃないかと恐れているみたいに躊躇いながら、その人は僕の頬に触れた。
 触れた瞬間、ぴくりとその手が震えたのを感じた。
 その人の指は少しだけカサカサして、そのすぐ後に感じた手の平は少しだけ汗ばんでいた。
 そしてそのとき、彼女はようやく表情を緩めた。ぴんと張り詰めていた糸が、ふっとゆるむように。

「大きくなったね」

 あっと思う間もなく、ぎゅうっと抱き締められて胸が苦しくなった。
 何故だろう。
 ごめんなさい、と謝ってしまいたくなった。
 そんな顔をさせてごめんなさい。
 けれど僕よりも先に、ごめんね、と耳元で震える声が囁いた。僕は何も言ってあげることができなかった。その言葉の重さに見合った言葉を、僕は一つとして知らなかったのだ。
 ごめんね、ごめんねハリー。
 泣きそうな顔をして笑うその人は、とだけ名乗った。








 朝食のあと、は疲れているからと理由をつけて逃げるように部屋に上がった。
 ベッドに潜り込んで考えることは、ハリーに自分と両親の関係をどうやって説明するかだ。
 トモダチだ、と言うのは簡単だが同級生だと教えることは難しい。だからと言って安易に嘘をついても、すぐにバレてしまうだろう。とりあえずあとで話をしようと言って納得させてきたが、あの出会いでは怪しまれていないほうが不思議だ。
 あんな風にあからさまに動揺してしまったせいで、その場に居合わせた全員から訝しげな視線が向けられていた。

(でも、わたしに有るのは話せないことばかりだ。)

 だから、ファミリーネームも名乗ることが出来なかった。
 それはハリーだけではない。ウィーズリー家の人々でさえ彼女のフルネームを知らない。十数年前の彼女を知る者以外は誰も。
 大臣その人以外は、魔法省でさえ。
 以前、ダンブルドアがここを訪ねてきたときに言っていた。
 は帝王自身によって殺されたはずの人間なのだ。
 生き延びていたことが公にされれば大騒ぎになるだろうし、一時的にかもしれないが世間でも話題になるだろう。家族構成や彼女の過去、加えて父や母の過去までも、しつこい記者たちは興味本位で調べられるに違いない。もしかしたら、彼女の血縁関係の真実に行き着くものもいるかもしれない。ダンブルドアは、そうしての出自がばれることで、が命を狙われることになりはしまいかと案じていた。確かに、帝王に家族や大切な人たちを奪われた被害者たちや闇をひどく憎む者たちにとっては、彼女は忌むべき対象にしかならない。逆に、かつて闇に身を置いたものたちや今も闇に身をおく者たち、そしてこれから闇に足を踏み入れる者たちにとって、彼女の命には大きな利用価値がある。
 帝王が倒れたあと、法の手から逃げ延びた者、“服従の呪文”をかけられていたと主張して無罪になったり、司法取引の結果監獄行きを免れたりした闇側の人間たちの中には、暗い過去を隠したまま魔法省などの公共機関で堂々と働いている者も多いらしい。今でこそ彼らは人畜無害を装っているものの、彼女の正体を知ればどう出るか分からない。
 だから、自分の命を守ることだけを考えるならば、出来るだけ目立たぬようにひっそりとしているしかない。
 今、彼らにそれを話すわけにはいかない。
 アーサーは魔法省の役人だ。子どもたちには口を滑らせてしまいがちな長い学校生活がある。どこから漏れないとも限らない。

(…いや…それも言い訳、か。)

 端的に言えば、死ぬのが怖いだけ。
 誰かに利用されたくないだけ。
 平凡に生きたいだけ。
 そしてたぶん、大好きな人たちに嫌われたくないだけ。
 どれだけ真っ当な理屈を並べたとしても、本当のところはきっとそれだけに過ぎないのだろう。

(わたしは、相変わらず弱くて愚かでどうしようもない。)

 そんな自分は大嫌いだ。
 けれど、そんな自分から目を背けるのはもっと嫌だ。(もうやめよう。)と目を固く瞑った。

(自分を追い詰めて、自分を嫌って、自ら動けない状態を作り出すような、どうしようもないことはやめよう。そんなのは、わたしを愛してくれたひとたちへの侮辱だ。お父さんもクレアさんも、怒ったらけっこう怖いし。)

 もう逃げたくない。
 それでも、今は生きるために逃げなければならない。

(わたしの命はそんな下らない理由でなくしていいものじゃないんだ。)

 わたしを生かしてくれた人たちのためにも、今こんなところでみすみす死んでやるわけにはいかないから。

(本当に必要になる日まで、この恐ろしい力もまた封印して。)

 そう、今は。

(眠ろう、今は。)

 そして、目覚めたらハリーに言おう。
 ジェームズとリリーの間に生まれ、シリウスとふたりで決めた名を抱く、あの日みなに愛され祝福された愛しい子どもに。
 今のわたしにできる、精一杯の誠意を込めて。
 わたしに話せることだけを正直に。



 今は何も言えない、と。




















2006/11/22

 …つづきを考えてない。