例の悪夢を見ないままに目覚めた。
 ここ何年となかったことだ。
 靄がかかったようにはっきりしない頭で、ぼんやりと思考する。

 しかし、代わりに妙な夢を見た。

 ゆるゆると頭を振りながら、苦く笑った。妙に現実感のある、しかし非現実的な夢だ。
 自嘲しながら、ふらふらと覚束ない足取りで寝室を出る。
 在り得ない、まったく在り得ない。
 死んだはずの女が戻ってくるなどと、なんと都合のいいことを夢想したのだろうか。苦く繰り返し、自分を戒めるのに、頭の片隅で何かを期待している自分に気付く。何を期待するというのだろう。
 そのうえ壁伝いによろよろと歩く足は、階下ではなく客用寝室へと向かっている。
 そう、確か夢の中で、泣き疲れて立ったまま眠ってしまった相変わらずの彼女を、悩んだ末連れて帰って寝かせた部屋。
 思考が少しずつ鮮明さを増すほどに、小さな期待が膨らんでいく。
 理由は知らないが人の姿をしていたに梟を飛ばした覚えもある。手紙に走り書きした内容も覚えている。肩を濡らした霧雨の感触も、抱き締めた彼女の細さも、抱き上げたときの軽さも、驚くほど鮮明に。
 もしかしたら、夢ではないかもしれない。
 もしかしたら、本当にあったことなのかもしれない。
 もしかしたら。
 もしかしたら。

 目的の部屋の前で立ち止まる。
 鼓動が、膨らむ期待に比例して高まる。
 ゆっくりと、ドアノブを回した。

 かちゃり


 ……嗚呼。

 無人の部屋。
 誰もいないベッドの白いシーツが、目に痛かった。
 予想以上に落胆している自分を哂う。
 期待や落胆など、とうの昔に捨ててしまったと思っていた。罪深い身でなお人間らしさにしがみつこうとする自分には、ほとほと嫌気がさす。

 けれど、いい夢だった。

 これほど穏やかに朝を迎えたことは、ここ何年となかったかもしれない。
 たとえあれが夢でも、そこには確かな価値があった。悪夢に登場する少女が過去の象徴に過ぎなくとも、という一人の人間が、自分にとって確かに大切な存在だったという当たり前のことを思い出せたからだ。
 目覚めきれていない頭を振りながら、ドアノブを握りなおす。そろそろ現実に戻らなければ。
 眠気覚ましにコーヒーでも飲もうと決めて、ドアを閉めかけたときだった。
 朝の風が、頬を撫でた。
 見れば思い切り開け放たれた窓。白いシーツが目に痛かったのは、そこから降り注ぐ朝陽のせい。
 この部屋は何年と使っていない。元死喰い人として時に命をも狙われる自分が、そんな無用心な状態を放っておくはずもなく。
 考えてみれば、部屋が妙に小奇麗なのも不自然だ。
 屋敷しもべ妖精もいない家の使われていない部屋が勝手に掃除されているなんて、主婦にとってはありがたく、その他にとっては気味が悪いだけの事例は、ここ数十年の予言者新聞を隅から隅まで調べても見つかるまい。
 しかし。しかし、だ。夢の中の自分は、彼女のために杖一振りで部屋の埃を払いはしなかったか。
 無人のベッドを見る。
 ピンと張っていたはずのシーツは、よく見れば、いやよく見なくとも、不自然にしわがよっている。まるで、まるで、今の今までそこに人が寝ていたかのように。つい先ほど、そこから小柄な人間が一人そっと抜け出したかのように。
 ドアを閉めることも忘れて、踵を返した。
 早足で廊下を進む。途中少しよろめく。壁で頭をぶつける。低く呻く。それでも急く足は止まらない。気を抜けばもつれてしまいそうな頼りない足に悪態をつきながら、急いで階下へ下りる。
 そして、その階段を下りきらないうちに、彼の足は凍りついた。


 パンの焼ける、香ばしい匂い。
 フライパンとコンロがぶつかる、僅かな物音。
 古い食器棚が開け閉めされる気配。
 スリッパを履いた軽い足音。
 淹れたてのコーヒーの香り。
 小さな鼻歌。

 階段の手すりをぎゅっと握り締めた。
 落胆の底へと消えてしまったはずの期待が、浮上し、飛翔し、はちきれんばかりに膨れ上がる。
 小さく、名前を呟いた。
 震えて、掠れた、情けない声で。

 ―――

 距離からすれば聞こえたはずはないのに、彼女はタイミング良くキッチンからひょっこり顔を出す。パッと弾かれたように浮かんだ、昔と変わらない気の抜ける笑み。

「グッモーニン、sir。ちょいとキッチンお借りしてますよー」

 優しい夢のつづき。

「って、まだ寝ぼけてっしょセブセブ。ちゃっちゃと顔洗っといでセブセブ。さん特製の朝飯はそれからっス。つーか最近マトモなもん食べてないんじゃないの? いくら凄腕のわたしでも、ハムとパンしかないキッチンじゃご馳走はつくれないよセブセブ。魔法省大臣に膝カックン仕掛けるぐらい無理」

 紅い瞳が柔らかに輝く。
 珍妙な呼び方。軽口を叩くリズム。いい加減な発音。下らない冗句。

「……朝っぱらから喧しいわ、馬鹿者」

 これが夢なら、どうか、もう二度と覚めないでくれ。









 はよく笑い、よく喋った。
 話題はといえば、“隠れ穴”での赤毛たちとの日々の細々した出来事や、買い物をしていたときに見つけた珍しい光景や商品と、他愛のないものばかりだ。しかしそんな下らない些事も、の口から聞けば最高の笑い話になるのだから不思議だ。静かに話に耳を傾けながら、ときどき馬鹿にするのはスネイプなりの相槌で、それを分かっているは楽しそうにそれに応酬する。昔と変わらない会話のテンポは、2人独特で、それがにはたまらなく嬉しかった。
 満ち足りた朝の時間。
 は、おそらくこの朝食を吐くことはなく、これからもないだろうという予感と、暫くぶりにぐっすりと眠れた昨夜に安堵し、微笑む。
 スネイプは、言葉の裏表を考える必要もなく打ち解けて話せる相手の存在に安らぎ、永遠に失くしたと思っていたものがふいに戻ってきた幸せを噛み締めた。

「だからさー」

 食後の紅茶の一口を飲み下して、は吐息と言葉とを同時に漏らす。

「わたしもそろそろ仕事しなきゃ、流石に洒落になんないっしょ」

 ふむ、とスネイプが口を覆うように顎に手を当てる。
 真剣に思考を巡らすときの変わらない彼の癖を横目で確認しながら、はもう一口紅茶を口に含んだ。やはり彼の淹れた紅茶は絶品だ。

「魔力を奪われ魔法は使えない、かといって手に入れた力もそうそう人に見せるわけにはいかん。ダンブルドアの援助がなければ暮らしていけない一文無し。住む家もなくど田舎もど田舎の家に居候中。学生時代の成績は最悪。魔法の知識と容姿は平均。料理の腕はそこそこだがすぐに怪我して大騒ぎ。体力は皆無、常識も皆無。病弱なうえにワケあり。しかもドジで間抜けでお調子者、自虐癖に躁病持ち、世間知らずで能無しで、怠け者のうえ、救いようのない阿呆ときた。さて、どうしたものか………」
「…真剣に悩むフリして馬鹿にしてるでしょ」
「いかにも」

 真面目腐った顔で肯定されて、一発殴ってやろうかと本気で考えた。
 しかしあながち間違っても居ないので、不貞腐れた顔で黙ることにした。スネイプはにやっと笑って、紅茶を啜る。

「まあ、そう深刻に考えるな。近く、ダンブルドアと会う予定がある。彼に話しておいてやろう」

 彼なら顔が広いから、という言葉に一応頷いてみせる。
 彼女の気乗りしない気持ちを読み取って、問いかけるようにスネイプの片眉が動く。

「だって、なんか、親子ともども校長先生に頼ってばっかで、迷惑かけすぎかなあって…」

 困ったようにへにゃりと笑う。

「何を今更」

 心底呆れた顔で、溜息をつく。
 確かに、焼き討ちにあったマダム・クレアという女性の家も手配したのはダンブルドアだったという話だし、ウィーズリー家が特に詮索もせず居候させているのも彼の力と信頼のお陰だろう。それにその血筋を知っていながらリチャードとの入学・卒業を許したのだろうから、成る程、今日まで親子が何事もなく生きてこれたのも彼のおかげと言える。
 しかし、そのことに彼女が恩を感じる必要はあるまい、とスネイプは思う。
 彼がここまでこの親子を救おうとするのは、おそらく罪滅ぼしなのだ。リドルに情をかけすぎたがゆえに、結果多くの命が犠牲になったことへの。
 だが、スネイプはその言葉を飲み込む。それをわざわざ彼女に知らせる必要はない。

「だってさあ」
「だってもクソもあるか。今は自分のことだけ考えてろ。恩返しなんぞ今のお前じゃ高が知れてるんだ。余裕ができてからで構うまい」
「…そうなんだけどさあ」
「五月蝿い、黙れ、喧しい。今頼らずにいつ頼る。それに、一言も相談せずに就職そんぞしたら、逆に笑顔で厭味を言われるのがオチだぞ。利用できるものは利用できるうちに利用しておけばいいんだ。後のことは後から考えろ」
「わー。流石スリザリンの寮監って感じの発言ですね教授?」
「間違ったことは言ってない」
「…そうかなあ」
「そうだろうが」
「…そっか」
「そうだ」
「じゃあ、そうする」
「そうしろ」

 へへっ、と気の抜ける笑い方をして、最後の一口を流し込む。
 それをなんとはなしに眺めながら、スネイプは既にこの相談を彼にどうやって切り出すかについて考えていた。からかうようにキラキラと輝く青い瞳が待ち受けているのを想像するのは容易く、げっそりと肩を落とした。





 晴れ渡った昼どき。
 名残惜しく思いながらも、そろそろ帰らなければなるまいと、は重い腰を上げた。

「手紙書いていい?」
「返事は期待するなよ」
「え、なに、シカトする気満々?」
「ああ」
「否定しろよ」
「誰がするか」

 簡単に髪をまとめ上げて、身だしなみを整える。
 昨夜着替えることもなくそのままの服で寝たせいで皺のついてしまったシャツを気にしながら、スネイプを見上げた。

「今朝ので食糧スッカラカンなんだから、ランチはちゃんと買い物に行くとか外で食べるとかしなよ?」
「分かってる。お前こそ次会ったとき今以上に痩せてたら承知せんぞ」
「りょーかい」

 おどけて敬礼すると、呆れたような顔をして、頭をぽんぽんと叩かれた。
 すっかり子ども扱いされた気分で複雑な顔をすると、意地悪くにやりと笑われる。むっとしてゆるくパンチを繰り出すと、軽く避けられた。
 そしてようやく、は暖炉の前に立つ。

「灰を吸い込むなよ。発音に気をつけろ。移動中はできるだけ体を縮めて、目は閉じておけ」
「分かったってば、この過保護男め。っていうか、それがハタチの女の子に言うこと?」
「五月蝿い。ダイアゴンに行きたくてノクターンに着くような阿呆を信用できるか」
「15のときの話でしょ!」
「それからどこか成長したか?」
「しぃーまぁーしぃーたぁー」
「ほう。次の機会には、是非それをお聞かせ願いたいものですなあ。……そら、とっとと行け」

 フルーパウダーを握らせて、犬を追い払うようにしっしっと手を振る。
 それに舌を出して答えたあと、暖炉の飛び込んだ。

「隠れ穴!」

 最後にちらりと見えたスネイプは、腕を組みいつもの顰め面で睨むようにして見送ってくれていた。心配そうに見えたのは、きっと気のせいではない。友人の読み取りにくい優しさは、時を経てさらに読み取りにくくなったけれど、それでも分かることがある。
 触れた手は、相変わらず大きくて優しかった。
 浮かべてみせた微笑みは、ちゃんと見えていただろうか。









 景色が変わる。









 ズシャアッ

「うへぇ!」

 衝撃に奇声を上げると、同時に灰を吸い込んでしまって咳き込む。
 目的地、涙目になりながらようやく顔を上げ、最初に目に入ったのは、

「おかえりなさい」

 晴れ晴れとした優しい笑顔を浮かべた、満月色の瞳の美女。

「…ただいま!」

 げほ。
 苦笑した唇からこぼれた咳といっしょに、溜まっていた涙が目尻から零れ落ちた。

「大丈夫?」

 尋ねる声は柔らかい。
 ああ、そうだ。思い出した。幸せはすぐそばにある。当たり前のことじゃないか。

「うん…」

 もう大丈夫。
 いっぱい心配かけてごめんね。
 こんなにも心配してくれるひとがいる。だけじゃない。校長先生だってそうだ。マクゴナガル先生だって、ベイルダム先生だって、ウィーズリー家のみんなだって、きっと。それならば、自分という人間は世界一の幸せ者以外のなんだというのだろう。

「ありがと」

 そのことを思い出した。
 そう。こうして何度も、自分を正気に戻してくれる、当たり前に支えてくれる、彼という存在だって。

「あーー! が帰って来てるー!!」
「え? うそ! どこ!? …ほんとだぁー!」
「ママーーー! が帰って来たよーー!!!」
、おかえりー!」
「おかえりー!!」

 おかえりと言ってくれる人がいる。
 ただいまと言って、帰って来られる温かい場所がある。

 泣きそうになって笑いかけると、も嬉しそうに笑い返してくれた。



 みんな大好き。




















2005/03/08

 第2幕の開幕。
 ようやっと書き始めました。
 これから先はあんまし考えてないんですよねー。(HAHAHAHAHA)