それはさながら、仮面舞踏会。 あまりに仮装が懲りすぎて、誰が誰やら分からないせいだ。 ミネルバ・マクゴナガルは呆れたように、しかしこっそり少しの安堵を込めて、長い溜息をついた。 ダンブルドアが提案した仮装パーティーは、昨今闇の報せに沈みがちなホグワーツの空気を意外なほど明るくさせていた。いや、沈みがちだったからこそ、だろうか。子どもたちとて好きで憂鬱を背負っているわけではない。いつの時代も、子どもというのは賑やかにしていたいものなのだから。 仮装パーティーのようなお祭り騒ぎの醍醐味は、その日のために準備を整える日々であるのは言うまでもない。教師としては頭の痛いことに、授業中でさえ彼らの頭はそれらのことで占められてしまっている。裕福な家は競い合うように煌びやかな衣装を仕立て、そうでない者も知恵を出し合い勝るとも劣らない立派なものをそろえた。髪形にも工夫が必要になるし、牙を生やしたいものもいれば動く翼を欲しがる者もいる。いつもは全く熱心でない顔ぶれが、わざわざ彼女のもとに質問に来るくらいである。もちろん質問は授業内容についてではなく、もっぱら“変身術”についてだったが。 彼らの瞳は浮き立つ心に輝いている。人の悪口にしか使われなかった憐れな口も、ここ最近は内緒話と噂話に忙しかった。 髪の色は? 目の色は? 肌は? 服は? 靴は? 化粧は? パートナーは? そう。ただの仮装パーティーではない。ダンスパーティーもかねているのである。 あちこちで起こる、告白まがいのダンスの申し込み。立ち込めていた闇の気配はどこへやら、ホグワーツはうんざりするほど薔薇色に染まっていた。 愛は偉大だ、とダンブルドアは彼女に言う。闇に打ち勝つのは愛にほかならないと。 全くもってそのとおりだ。 それが今目の前で、こうして証明されている。 いつだってあの校長には敵わない。 マクゴナガルはもう一度溜息をついた。もちろん、感動と喜びによって。 当の校長は晴れやかに笑いながら、特大サイズのクラッカーの音をを景気良く轟かせていた。 組み分け帽子は廊下を歩いていた。 駆け回る吸血鬼やフランケンシュタインとすれ違い、笑いさざめく天使や悪魔を追い越していく。 いつもと変わらない位置にある廊下の灯りにも、小さなカボチャが被せてある。そのせいで足元を照らすそれは普段より淡い。かすかに赤味を帯びているのも決して気のせいではない。 小さな靴が床を蹴るたび、大きな帽子はぐらぐら揺れる。 鍔が広くすっぽりと首まで被っていることもあり、落ちる心配はまずなさそうだが、その様子はどこか頼りない。くしゃっと皺のついたつぎはぎのとんがり帽子の先端は、くたりと元気なく垂れている。 それでも帽子の足取りは軽やかで、黒いワンピースの袖からときどきのぞく細い手首は、歩くたびにぷらぷらと揺れて今にも歌いだしそうだ。 階段を踊るように下りていく。頭上を、箒に乗った小悪魔が通り過ぎた。 長い廊下を早足で歩く。角をふたつ曲がりまっすぐに大広間へ。 辿り着いた先の大きな扉は、きっちりと閉じられているのに中の喧騒がここまで聞こえてくる。 帽子はそれを両手で押し開けて、わずかに出来た隙間に素早く身体をすべりこませた。 まず目に飛び込んできたのは、ゆらゆらと空中を泳ぐ無数のジャック・オ・ランタン。大小様々なかぼちゃが、不気味な顔で笑っている。 広い大広間を埋め尽くすのは勿論、奇怪な格好をした生徒たち。上級生も下級生も様々に思い思いに姿を変えていて、パートナーが誰かも分からなくなった今はただ興奮に身を任せ誰もが自由に舞い踊る。今だけは、敵も味方も関係ない。 同じステップを踏む悪魔や魔物。 音高く床を踏み鳴らす蜘魅魍魎。 広間を低く震わすビート。 軽やかに響くメロディ。 雄叫び。 笑い声。 歌声。 ささやき。 きょろきょろと辺りを見回すうちに、組み分け帽子はくらりと眩暈を覚えて立ち止まった。 これは、夢ではないのだろうか。 不可思議で美しい、幻ではないのか。 この中に、本当に彼がいるのだろうか。 本当にわたしを待ってくれているのか。 「…見つけた」 トンと肩を叩かれたと思ったら近くで大好きな声がして、パッと振り返る。 立っていたのは、オレンジ色のジャック・オ・ランタン。 思わずきょとん、と呆けると、彼の肩が小さく揺れて笑われたことを知る。実際、目と口を笑顔の形に切り抜いた穴から、笑っている彼の黒い目が見えた。 そう。それは彼の仮装なのだ。 「組み分け帽子か」 考えたな、とお得意のにやり笑い。 もっとその様子がよく見えるよう帽子の位置を調節しながら、彼女もそれに笑い返した。 首まで被った大きな帽子を、カボチャをそうしたように顔の形に切り抜いているのだ。何の変哲もないとんがり帽子が、あっという間にホグワーツのマスコットになる。どことなくマグルの銀行強盗っぽくて、彼女は結構気に入っていた。 どちらもすっぽりと顔を覆っているから、相手の顔はよく分からない。彼らが誰だか気付く者は間違ってもいないだろう。彼の方は長い黒マントで纏っているおかげで、特徴的な体格も上手く隠れている。 それでも組み分け帽子には、彼が彼だとすぐに分かった。 彼女がセヴルスを間違えるはずはなく、彼もまたを間違えるはずがないからだ。 「ハッピー・ハロウィーン!」 「ハッピー・ハロウィーン」 お決まりの挨拶にも答えてくれた優しい声に、彼女は帽子の下で嬉しそうに笑った。よく見えなかったが、彼にはその表情が頭の中に明確に浮かんだから、構わない。 それから帽子はもう一度その位置を調節し、小さく深呼吸をする。どきどきと鼓動がうるさい。 さあ、本番はこれからだ。 背筋を伸ばし、胸を張り、顎をひいて、片手を彼に差し出す。 一度わざとらしく咳払いをして、何度も何度も練習したセリフをできるだけ優雅に口にした。 「踊ってくださる? ミスタ・ジャック」 驚くほど完璧な発音。 似合わない高飛車な言い方。 楽しそうな声。 最後に跳ねて裏返った声に垣間見えた彼女らしさ。 彼は一瞬間を置いたあと、驚く彼女を尻目に大きな声を上げて笑った。 その声はこの喧騒に溶け込んで誰も気にもしなかったが、彼女の耳にはいつまでもそれが残った。 さほど時間もたたないうちに笑い終えた彼は、差し出された手を恭しく取った。そして、空いた手を胸に置き優雅に腰を折ると、彼らしからぬ軽やかな声で応じた。 「光栄だ、レディー。喜んでお受けしよう」 その声もまた、楽しげに弾んでいる。 それを聞くとなぜか突然顔が熱くなって、帽子を被っていて良かったと心の底から安堵した。 そして、ダンスの輪の中にエスコートされながら、彼女は繋いだ右手の温もりに今にも爆発してしまいそうな心臓を左手でぎゅっとおさえた。 この束の間の幸せが夢でないことに感謝した。 不可思議で美しい幻でないことに、心の底から感謝した。 「ごめんなさい」 「…どうした?」 「なんだ?」ではなく「どうした?」と聞いてくれる彼の優しさ。 身体がびりびりと痺れてしまいそうな強烈な幸福の中で、カボチャの笑顔に笑いかけてみせた。 「わたし、きっと、あなたの足をふみます、ミスタ・ジャック」 「…平気だ」 ふふ、と笑った彼の吐息。 「僕もお前の足を踏むから」 一拍おいて、彼女は頬をふくらませた。忍び笑いが頭上で起こる。 「…ジャックは、酷いやつです」 「カボチャだからな。仕方ない」 彼は彼女の手を強く引いて、不器用に踊り始めた。は声を上げて笑いながら、軽やかとは言いがたいステップでそれに応じた。 カボチャ頭がぐらぐら揺れる。大きな帽子がゆらゆら揺れる。頭上でカボチャがふらふら踊る。 そうして手を取り合う男女たちの中に、どれだけの友情が、恋が、愛が、あるのだろう。明日になれば、また隠さなければならないものが、一体いくつ。 同じステップを踏む悪魔や魔物。 音高く床を踏み鳴らす蜘魅魍魎。 広間を低く震わすビート。 軽やかに響くメロディ。 秘めた思いを叫ぶ声。 下らない冗談を笑う声。 浮き立つ心を歌う声。 密やかに紡がれる愛のささやき。 それでも、今は。 今だけは。 この学校に寮はない。 はくるくると回りながら、少しだけ泣いた。目尻からこぼれた、涙が驚くほど熱かった。 賑やかな夜は更けていく。 それを眺める月が哂った。 よく似た形の眼鏡の老人が、それを見上げて笑ってみせた。 それでも勝つのは愛だけだ、と。 2006.10.21 ハロウィーン、おめでとう。 今日という日に良い夜を。優しい夜に良い夢を。そんなあなたに感謝と愛を。 |