電気の通っていないこの学校で、ウォークマンを愛用するには大量の電池が必要で。ラジカセは無理で、テレビなんて論外。そのせいか、ときたまふと、音楽が恋しくなる。日本語の詞の歌を、たまらなく聴きたくなるのだ。
 故郷・・・日本から遠く離れているせいもあるかもしれない。郷愁、というのか。

 そのせいだったのだろう。
 たぶん。

 今年、柄にもなく、こんなものを持ち込んできたのは。

 そして、この天気のせいなんだろう。
 きっと。

 柄にもなく、こんなものを手に立っているのは。





 そこを歩いていたのは、本当に偶然だった。理由があったわけではないのだ。ただ少し、冷たい廊下にうんざりして、静かな場所を歩きたいと思っただけ。柄にもなく非論理的な衝動。
 ふと耳慣れぬ音に、少年は足を止めた。
 誰もいないはずの、湖のほとり。大きな木の影。見慣れた後姿がちらりと見えた。
 その音の正体を探るためだったのかもしれない。だが、ほとんど無意識に少年はそちらに歩を進めていた。柄にもなく非論理的な衝動。
 可笑しな日だった。
 それもこれも、この天気がきっと悪いのだ。
 厚さのまばらな灰色の雲が空を覆い、ところどころからほんのりと輝く陽光が漏れる。降るのか晴れるのか、予想が難しい。陽光に染まった部分の雲は黄金色で、奇妙に美しく、見ているこちらを夢の中を歩いているようなのような気分にさせた。そうだ。それもこれもこの天気が悪いのだ。きっと。
 その音が何か、少年は歩を進めながら緩慢に頭を働かせて、記憶と照らし合わせていた。そうして音と名前が一致し、ひとつの小さな楽器が浮かび上がった。
 何故、彼女が。
 こんなところで。
 元々彼女の行動はいつも不可解だから彼も慣れっこであるが、それでも首を捻らずにはいられなかった。
 近づけば草を踏む音に気付いたのか、澄んだ音がピタリと止んだ。振り返った彼女は少し驚いたような顔をして、それから照れくさげに笑った。

「なぁんだ、セブルスか」

 彼女は彼の視線の先に気付き、それを手の平の上で転がしてみせた。

「これね、家から持って来たの」

 ハーモニカ。
 古びた、それほど高価でもないだろうと思われる小さなその楽器を、彼女はぽーんと放り投げ落ちてくるとまた掴んだ。その様子はどこか危なっかしげで、彼は不機嫌にそれを見ていた。

「随分乱暴に使うんだな」

 楽器というのは繊細なものだと、彼の知識は言っている。けれども、あまり大切に使われていないと思われるそれが奏でた音は、とても澄んでいた。それが不可解で、同時に少し呆れてしまう。
 彼女は朗らかに笑った。

「乱暴とは失礼な。これでも、愛情を持って接してるんだよ」
「嘘吐け」
「セブルスは楽器に愛情を持ったことがないから、そう思うんだって」
「物に愛情を持って何の得がある」
「それって冷血漢の法則だね」
「何が言いたい」
「セブルスは熱血漢だってできることなら言ってみたい」
「ほう・・・」
「そんな顔してると、眉間の皺消えなくなっちゃうよー」

 会話はどこか噛み合っておらず、一人激昂するのも馬鹿らしいので、彼は溜息を吐いて木の幹にもたれた。彼女はそれを見て笑い、すとんと座った。彼もつられるように座る。

「何の曲だったんだ?」

 よく聴き取れなかったけれど、ゆっくりとした静かな曲だった。

「日本の歌。歌手も曲もあんまり有名ってわけじゃないんだけど、好きな曲だから」

 思い出しながら、ゆっくりゆっくり、楽譜もないので手探りで吹いていたのだと、少し誇らしげに目を細めた。
 どんな曲なんだ、と訊こうとして、やめた。
 何故かその一言を口に出すのが億劫だった。

「ね、吹いていい?」

 彼女の問いに彼は答えなかったが、ちらりと笑顔を一瞥するとくつろいだ様子で目を閉じた。
 彼女はまた笑い、その小さな長方形の楽器にそっと唇を当てた。


 お世辞にも上手いとは言えず。


 ただ、その音はどこまでも澄んでいた。


 ゆっくりと少し不恰好に曲が終わって、彼女は感想を聞こうかと彼を見た。
 目を閉じたままの彼は、いつのまにか眉を寄せるのをやめ、年相応の表情で眠っていた。すぅ、すぅ、と小さく寝息が聞こえる。
 彼女は初めてみた彼の寝顔を驚きながら観察して、困惑したように空を仰いだ。
 空は、いつの間にか青く晴れていた。
 日は傾きかけている。
 このまま放って置くわけにはいかず、しかし起こすのには忍びない。
 彼女はまた彼の横顔を見て、手の中のハーモニカを見て、気分屋の空を見て。諦めたように小さく溜息を吐いた。
 今はまだ、寝かせておこう。徹夜続きで疲れているようだったし。この天気なのだし。

 ――あのね、セブルス

 起こさないように、音にせず彼女は口の中で呟いた。

 ――この歌はね、結ばれない恋人の歌なんだ

 穏やかな気分で、そっとハーモニカを撫でた。

 ――聴きようによっては、片思いの女の子の歌にも聴こえるけどね

 独り言なんて柄でもない。
 それもこれも、この天気のせいだ。

 彼女は微笑みながら、睨むようにまた空を仰いだ。




















2004.4.13.

 このヒロイン、よく笑う子だなぁ。