日も傾きかけ薄暗くなった廊下に、規則正しい音が響いていた。それ以外の音はほとんど聞こえず、静かなものである。
 規則正しい音、と言うのはある男の足音である。
 闇色のローブに身を包んだ彼は、セブルス・スネイプ。悪名高い魔法薬学の教師である。
 脇目も振らずに廊下を進んでいく彼の足取りは速い。だが特に急いでいる様子はない。時間は有効に使いたい、という性分なのだ。
 いくつもの扉を通り過ぎ、いくつもの角を曲がり、階段を上り、目指すのは図書室である。
 彼は学生の頃から図書室によく足を運んだ。通っていた、と言っても過言ではないほど、ほとんど毎日である。勿論理由は勉学であった。宿題のレポート作成の資料を求めるときもよくあったが、ただ多くの知識を得ようと読書を欲したことも多々ある。元来、読書好きであるため、時に小説なるものを借りることもあった。
 卒業し、時を経てこの学校に就職してからは、学生の頃が嘘のようにほとんど図書室へは行かない。欲する本は買うようになったせいもあるし、図書室にある程度の資料を、もう彼は必要としない。彼の頭の中に当たり前のように常備されているのだ。また、教師としてあるまじきことであるが、生徒と遭遇する、などということは非常に面倒臭いので避けたい。
 彼はやっと図書室へ辿り着いた。とてつもなく広い校であるため、自室のある地下からは少し離れている。
 図書室へ入ると、彼は初めて足を止めた。
 全く息が上がっていないのは流石と言えるだろう。
 ぐるりと見回すが、生徒の影は一つも見られない。運悪く居残っていた生徒を見つけたなら、彼は何のかんのと理由をつけて、減点をそえて図書室から追い出していただろう。

「あら、スネイプ先生」

 マダム・ピンスが声をかけた。自室へ帰るところだったのだろう。
 面倒臭い、と思うが彼は意外に律儀な性格であるため軽く会釈をする。

「少し気になることがあったので調べるのですが、お帰りになるところのようですな」

 マダムは頷いた。困りましたわね、と苦笑を浮かべる。

「鍵をかけるだけなら、我輩がしておきますが」

 丁寧に訊ねると、マダムがホッと顔をほころばせる。

「そうしていただけると嬉しいわ。ああ、そうそう。まだ奥にあの子が残っているので、声をかけて行ってくださるかしら?」
「・・・・・・あの子?」

 なんだ、まだ生徒がいたのか。面倒臭い。と苦々しく思う。スリザリン以外だったら、減点してやろうと考える。本当に教師なのか、否、大人なのか疑いたくなる思考である。

「グリフィンドールのミス・ですよ。よろしくお願いしますね」

 そう言うとマダムは図書室を出て行った。
 グリフィンドール。彼の永遠の敵である。しかし。

、か」

 彼はその名を呟くと、小さく溜息を吐く。どうもあの娘には、調子を狂わせられる。何をしても自分に敵意を持たないし、グリフィンドールの癖にスリザリンの一部に友人をつくるし、魔法薬学の成績はトップだ。少々ドジな所はあるが優秀な生徒である。
 何故か、嫌いになれない。
 彼は自分の思考を振り切るように、歩き出した。考えすぎるのは良くない。
 そして、目指した場所に辿り着いた時、彼は再び溜息を吐いた。今まさに自分が欲している本を手に、立ったまま読書に夢中になっている少女の後姿を見止めたためである。
 流石の彼も持ち合わせていないほど、とてつもなく古い本である。
 さて、と思う。
 彼女が今にも借りようとしている本を減点と共に取り上げて、調べものをするのは簡単である。しかしそれは何故か気が進まない。
 不意に彼女が動いた。
 邪魔になった髪を、掻き分けただけの仕草だったが、妙に大人っぽい。今まで見えていなかった、白い耳の先がチラリと覗いた。
 ・・・。
 ・・・・・・。
 彼の不気味な沈黙プラスあきらかに何か企んでいる微笑は、イコール乙女のピンチである。
 ほとんど足音を立てずに背後に歩み寄る。ただでさえ読書に熱中している彼女が、気がつくはずもない。
 彼の唇が黒髪から覗く白い耳へ近づいていく。
 そして。




「ッゎあァ!!?」

 突然、耳元で囁かれた自分の名前に、彼女は非常に驚いた。
 奇妙な悲鳴を上げながら、大事そうに抱えていた本と、ついでに脇に挟んでいた2冊の本を取り落とした。落ちた本は、当然のように彼女の足に直撃する。

「んぉッ!!」

 思わずしゃがみ込んだ瞬間、
  ガン

「ぅがっ!」

目の前の本棚に額を強打する。
 痛みに蹲ると、衝撃で落ちてきた薄めの本が、その後頭部に直撃した。とどめの一撃である。
 全ての痛みに耐え抜いた後、やっと少女は振り向いた。

「す、スネイプ先生ぃ!?」

 声が裏返っているのは、仕様の無いことである。
 しかし、彼はと言えばそれどころではない。今や、笑いを堪えるのに必死なのである。俯き、片手で顔を隠すようにしながら、肩をぶるぶると震わせている。くっくっと笑い声が漏れる。
 彼女はその彼に更に驚いた。中々笑うことのない彼が、今必死で笑うのを堪えているのである。その上、先程自分の名前が、ものすごく至近距離で囁かれた気がする。しかも憧れの彼のバリトンボイスで。いつも彼の授業でその声に聞き惚れているのだから、間違えようが無い。いやしかし、問題は今の自分の失態を、全て見られていたらしいという事実である。
 座り込んだまま、顔を真っ赤に染めている少女に、やっとのことで彼は目をやる。素晴らしい努力で笑うのを止めると、一番近くに落ちた本を拾った。

「すまんな。そこまで驚かれるとは思わなかった」
「い、いや、今のは、その、ですね、そんな、あの・・・」

 ぼそぼそと言い訳らしきことを呟いた。

「マダム・ピンスに頼まれてな。もう閉館の時間だ」

 途端、ハッとした彼女は腕時計を見る。閉館時間を2分ほど超えたところだ。

「す、すいません!じゃ、その・・・これでッ!!!」
「待ちたまえ」

 本をかき集め、急いで立ち去ろうとする少女を呼び止めた。

「我輩はその本にも用がある」
「ぇ」

 彼の長い指が指しているのは、自分の持っている本であることに気付く。

「読んだら明日の放課後、我輩の部屋に持ってきたまえ」
「えぇ!?」

 悲鳴に近い声をあげた少女に、彼は器用に片眉を上げた。

「いやなのかね?」
「あ、いえ!あ、明日ですね。分かりました」

 そこで、彼は心底愉快そうに笑った。

「先程の・・・あれは、君を驚かせた我輩にも責任がある。ついでに明日、茶でも馳走しよう」

 唖然としたまま動こうとしない少女に、咳払いをする。

「閉館時間は過ぎているのではないかね?」
「あ、あ、はい。し、失礼します!」

 バタバタと彼女は走り去った。


「ふむ」
 面白いものを見つけた少年のように彼は上機嫌だった。

 まだ、駆け引きは始まったばかりである。
 決して逃さぬ、と目に光を宿らせるのは、猟人。
 それとも、と苦笑する。
 今、この数分間で見事に捕らわれたのは自分だろうか、と思う。

 まあどちらでも構わない、と思った。



「ゆ、夢じゃないよね・・・。きゃー、どうしよー!」

 一人枕を抱いて悶絶している少女の頬はまだ熱い。
 机の上にある本の山は、すべて魔法薬学の資料である。
 実はそれほど頭が良いわけでもない彼女だが、薬学だけは優秀でありたいとするのは、少女の気持ちの表れであった。

 そう遠くない未来、二人はこの日を笑いながら語り合うことになる……かもしれない。




















2003/12/10