卒業は、別れとイコールだ。
 そして同時に、己の手で己を護らねば、生きていけなくなることを示している。
 経済的にも、社会的にも、物理的にも。
 しかし、スネイプは今日という日に、なんの感慨も浮かばなかった。
 ただもう二度と、あの忌々しいグリフィンドールの能無しども――ポッター一味――と毎日顔をつきあわせなくて良いという事実が、気をつけなければ顔をにやりと歪めてしまうだけだった。運が良ければこの7年間の恨みも清算することは可能だ。何せ彼は卒業後、正式に闇の陣営に入ることが約束されている。それを思えば、戦慄にも似た熱い興奮が首筋の辺りを駆け抜けた。
 別れを惜しむべき友人はいない。
 懐かく愛すべき思い出もない。
 空虚な日々だったと思う。
 確かに、護られてはいたのだろう。大人たちに、そしてダンブルドアのその老いた優しい手によって。
 しかしそれは、決して幸福とは言えなかった。
 実際、スネイプはここで幸せの何たるかを学ぶことは、ついにできなかった。友情というものの価値さえも見出せなかった。
 人間は弱く醜い。
 スネイプはそれを再確認させられ、あとは知識とわずかばかりの経験を手に入れただけだった。

 卒業パーティーを抜け出して(引き止める者はいない)、噴水の近く、人気のない静かな場所で、ベンチに腰を下ろした。
 ここでの生活に、どれだけの価値があっただろうか、何の意味があっただろうかと、考える。
 穏やかなときもあった。そうでないときの方が多かった。
 優しくありたいと……父とは違う、分別ある穏やかな人間でありたいと、思うことがなかったわけではない。それでも、それは許されなかった。彼は何もせずとも、結局は悪でしかなかったのだ。悪でいる道以外の選択肢など、はじめからなかった。誰のせいでもない。誰も悪くない。ただ運がなかっただけなのだ。不条理だと憤る心は、とうの昔に捨ててしまった。からっぽの胸に、冷たい風が吹き抜ける。
 虚しい、と、初めて感じた。
 哀しくはない、苦しくもない、ただ少し疲れてしまった。
 スネイプは曇りとも晴れとも言えない曖昧な空を仰ぐと、一つ大きくため息をつき、立ち上がった。

 足音と、人の気配がした。

 今の今まで走っていたのだろう。激しい息遣いも聞こえる。早足だった足音が、ゆっくりと速度をおとし、そして止まった。
 スネイプはちらりと、そちらを見て、動きを止めた。彼女が真っ直ぐにスネイプを見ていたからだ。
 彼女は、ほんの少女だった。
 何度か見たことのある顔に、記憶の片隅から彼が持ちえる彼女の情報をひっぱりだす。それほど量はない。
 1年生……いや、2年生だったと思う。
 黒髪、黒目の東洋人。
 名前は確か、
 上気した顔で、彼を睨みつけている。肩が苦しそうに上下した。
 胸元のグリフィンドールカラーの眩しさに、嗚呼あの憎たらしいコントラストを見るのも今日までか、などとぼんやりと思った。
 彼女はじっと黙って立っていた。
 何も言わない。
 ただ挑むように、スネイプを見ていた。
 面倒臭い。最後の最後まで、今日という終わりの日まで、グリフィンドールに水を差されるのかと思うと、怒りを通り越して呆れた。

「何か用か」

 しかし、引っ張り出してきた僅かな情報によれば、彼女と自分に接点は、限りなく0に近い。
 ただ彼女も相当な読書家で、よく図書室ですれ違ったぐらいだ。ポッターやエヴァンズの周りをちょろちょろしていたチビというぐらいの認識しかなく、話をしたことも、下手をすれば目を合わせたことさえない。
 だからこそ、何故彼女がそこにいるのか、たまらなく不思議だった。
 しばらくの沈黙のあと、彼女は唐突に、歩を進めた。
 お、と思ったが片眉を上げただけで黙って観察していると、彼女はずかずかと彼の前までやってきて、至近距離で彼を見上げた。小柄なせいで、ほとんど真上を見上げる形になる。その身長差は、50センチか、それ以上か。彼女の視界からは、世界はどれだけ大きく見えるのだろうかと、スネイプは何となくまとまらない思考の中でふと思った。自分にもそれくらいの時期があったはずだが、よく覚えていない。

「何だ」

 彼は彼女に問うた。
 彼女は答えず、挑むような真っ直ぐな目をしたまま、ずい、とそれを差し出した。

「あ?」

 眉をしかめて、彼はそれを睨みつける。
 訳が分からない。新手の嫌がらせだろうか。

「何だこれは」

 再び問う彼の目を見て、彼女はやっと口を開いた。

「菜の花だ」

 そんなことは知っている。
 黄色い花を無理矢理握らされた彼は、苛立たしげにますます険悪な顔をするのでいかにも恐ろしげだったが、幼い彼女は怯まなかった。

「あんたには、色が足りない」
「は?」

 狂人かと思った。
 それとも、東洋人だから英語が通じていないのだろうか。意志の疎通がまったくとれていない。思わず、言葉のキャッチボールという言葉を知っているか、と問いたくなった。彼とてそれが得意とは言えないが、ものには限度というものがある。

「何を言って…」
「あんたは、黒ばかりだ。日陰ばかり求めて、闇にばかり安らぎを見つけて、それで満足しちまった。闇は何もかもを無条件で受け入れてくれるから、そりゃあ楽だっただろうね。あんたは結局、楽な道を選んだんだろ」

 馬鹿みたいだ、と真顔で悪態をついた彼女の前で、スネイプはただ凍りついていた。
 大人しい少女だと認識していたが、どうもそうではないらしい。

「たまには他を見ればよかったんだ。少し抵抗はあるけど、それでもきっと、最後には、みんな受け入れてくれたのに。あんたが闇ばかり見てるからいけないんだ。本当は優しいのを、いつまでも隠してるのが悪いんだ」

 彼女は、悔しそうな顔をしていた。何かに打ち負かされたあとのような顔だった。

「あたし、いつもあんたを見てたんだ」

 下唇が震えそうになるのをじっと我慢して、彼女は少しだけ沈黙した。
 もう息遣いの激しさや苦しげな肩の上下は治まっているのに、頬は上気して林檎のように赤いままだ。

「あんたがいつか、自分でそのことに気づくんじゃないかと思って、ずっと見てた」

 だけどあんたは、結局気付かなかった。
 歪む彼女の表情が、やはりスネイプには敗者のそれにしか見えなかった。
 スネイプは、口の中が渇くのを感じた。
 皮肉や厭味ならいくらでも浮かんでくるのに、それはとても此処にはそぐわない気がして、結局今度は彼が黙り込んだ。

「あんたが好きだったんだ」

 小さな少女は言った。

「……好きだったんだ」

 呟く声は、真っ直ぐな目とは反対に、弱く震えて頼りない。
 降り注ぐ日光は潤んだ目を際立たせた。この瞬間の彼女の目玉を取り出して、その輝きを失わぬまま魔法で永遠に保存しておけたなら、それは貴重な宝石のように扱われ、さぞや高く売れるだろうなと、場違いで悪趣味なことを考えた。

「だからこれは、あたしからの呪いだ」

 あたしの期待を、裏切った報いだ。

「その黄色を持ったあんたは、きっともう本当の黒には染まれない。黒にも染まりきれず、けど他にもまじれないまま、苦しめばいいんだ」

 それは紛れもない、呪いの言葉。
 魔力など一片も含まれていないのに、強い拘束力を持つまじない。
 それに反応するように、ぽろりと大粒の輝きが、強い目から零れ落ちた。

「苦しんで苦しんで、いつか、あんたが今まで勝手に諦めてきたものを後悔すればいいんだ」

 だから。
 だから。
 だから。

 ぽろぽろと瞳から零れ落ちる大粒の涙を無視して、彼女は彼を睨みつけた。
 目を逸らすことができない。
 涙を流す幼い少女を目の前にして、不思議と狼狽することなく、彼は冷静にその視線を受け止めていた。ここ何年となかった、真摯な思いだった。
 彼女は人差し指をスネイプの鼻先に突きつけて、

「だから、死んだりしたら、許さないからな!」

 と、声を荒げて言い放つと、身を翻して駆けて行った。
 彼女の黒髪が踊るように靡くさまをしばらく眺め、そしてその後姿が見えなくなると、初めてスネイプは笑った。ゆっくりと浮かべたそれは、勝者の顔だ。
 微笑みと言うには少し凶暴な笑み。



 歌うように呟く。
 あれほどに真っ直ぐな目は、一度も向けられたことがないものだし、己では持ち得ないものだった。
 多くのものを見逃してきたのかもしれない。不必要だと投げ捨ててきたものたちの中に、あったものかもしれない。
 彼女が、そう、“好意”というものを、もしくは“期待”というものを己に抱いたのだとしたら、ここでの日々もそう無価値ではなかったのかもしれないと思えた。そして彼女と接点がなくなるというだけのことで、ここを去るのがひどく残念に思えた。

「その名前、覚えておこう」

 喉をくっくっと震わしながらひとりごちた。
 きっと己は、この闇の時代を生き抜くだろうと、何の根拠もなく予感しながら。
 そしてそれ以上に、何年後かに、成長した彼女との再会を確信しながら。


 しかし、とスネイプは困惑する。

 この菜の花、捨てる気にはなれないが、いつまでも握っているわけにもいかぬ。

 …どうしてくれよう。

 ため息をついて、苦笑いと共に空を見上げた。

 驚いたことに、空はもう、晴れ渡っていた。















2006/01/14

 ちっこいヒロインでした。
 ところで、身長差って萌えません?(滅)
 だってだって、ちっこい女の子に、真っ赤な顔で、涙目で、
 しかもなぜか知らないけどすごい睨まれながら告白なんかされたら、
 鼻血モンですよね。(真顔)
 いくらセブだって、「わー抱き締めてぇ」ぐらい考えますって。男の子なんだから。
 頭わしゃわしゃってしてあげたくなりますって。
 ……ねえ?