知り合い と 友人 の境目を 知らない















 すすり泣きが聞こえた気がして、は身を起こした。
 耳をすますと、やはり人の気配を感じる。
 ベッドを降りると同室のリリーの安らかな寝顔を確認して、起こさないようにそっと、部屋を出た。

 窓から見える半月がやけに眩しい、そんな真夜中だった。

 談話室で1人膝を抱えていたのは、ピーター・ペティグリューという少年だった。
 ブラウンの髪が、肩の振るえに合わせて小刻みに揺れていた。
 人の気配を感じたのか、ピーターは顔を上げた。

「……

 まずいところを見られた、というような、気まずげな表情が浮かんだ。
 隠すように背けた顔の伝う涙の軌跡が、月光に反射してくっきりと浮かび上がっていた。
 は黙ったまま、窓の近くのソファーに座った。
 それから、ピクリとも動かなくなった。

 長い沈黙の後、先に口を開いたのはピーターだった。

「今日ッ…」

 切羽詰って、弾かれるように声をあげた感じだった。
 一瞬自分の言葉の勢いにびくりと肩を強張らせたが、何度か深呼吸をして、今度はことさらゆっくりと話し始めた。
 いっそ、もう吐き出してしまおうと言うような、一種の決意さえうかがえる声音だった。

「今日の放課後、偶然通りかかった6年生のスリザリン生とジェームズたちが、言い争いを始めたんだ」

 うん、とは頷いた。
 いつものことだから、驚くほどのことではない。

「僕はいつものように、びくびくしながら見てるだけだった」

 隣にいたリーマスが、「やめときなよ」と言った。
 しかし、本気で止める気はないようで、言い争いが始まると少し離れたところに立ち、冷めた目でそれを見ていた。
 ジェームズとシリウスが、挑発的に何事か言っている。

「でも僕、勇気を出して止めようとしたんだ。6年生は5人もいて、喧嘩になったらいくらあの2人でも、勝てっこないと思ったから」

 うん、とが頷いた。
 たぶんもし自分がその場にいたら、ピーターと同じことをしただろうと思う。

「そしたら、あいつら…」

 ピーターがくしゃりと顔を歪めた。
 堪えるようにへの字に曲げた下唇がぶるぶると震えた。

「『ポッターの腰巾着』って」

 大きく震える小さな声を聞き取るのは、ひどく難しいことだったけれど、はその意味をきちんと理解することができた。
 顔が強張るのが分かった。
 ピーターは普段、ジェームズやシリウスたちの後ろをついて回っていた。
 そしてジェームズやシリウスは、それを当たり前に受け止め、むしろピーターがいないときは探すほどだった。
 周囲はそれが何故か分からなかった。明るくて人気もある2人が、リーマスならまだしも、ピーターまで『仲間』に入れているのである。
 彼らは『4人組』と言ってはばからなかった。
 しかしの見ている限り、彼らはピーターに何かの意見を求めたことはない。
 お前はついてきていればいいんだ、というような空気だった。お前は何も考えなくていい、と。
 それは決して不快なものではなく、例えば可愛い弟を守ろうとする兄のような、そんな優しさを感じていたから、は今まで何も言わなかったのだ。

「僕は、ジェームズやシリウスが、羨ましいよ」

 小さな目を瞬かせて、ピーターは小さく笑った。
 自嘲であった。

「僕は、3人と、同じ場所に立ちたかったんだ」

 ぽつり、ぽつりとピーターは言った。
 は黙って聞いていた。

「同じ場所に立って、同じ景色を見てみたかったんだ。ジェームズたちは…『すごい』から、そんな場所から見る景色は、どんなものなんだろうって」

 地べたに這いつくばって見るこの景色よりも、ずっと素晴らしいに違いない。
 世界は自分のものだと思えるような、そんな一種の優越感を味わいながら、空高く羽ばたく鳥のように。

「だけど、ジェームズたちは優しくて、本当に優しくて、だから僕は甘えてしまったんだ」

 彼らの背に乗れば、羽のない自分でも空を飛べる。
 彼らの後ろにいれば、彼らの肩越しに、見たこともなような素晴らしい宝を目にすることができる。

「そんなんだから、本当は同じ場所に立ったことなんて、一度もなかった」

 素晴らしい世界を知るたび、その宝を知るたび、感じてきた優越感。
 だけど本当は、何も変わってなんかいなかったんだ。
 彼らがいなければ、また地べたを這いつくばるだけ。羽ばたく力なんて、どこにもない。

「僕はこの5年で、まったく何も成長していないんだって、改めて気付いて」

 腰巾着。
 そうさ僕は、彼らの優しさに甘えてた。
 彼らの背中に隠れてた。

「僕は彼らのなんなんだろう」

 ピーターの小さな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
 それは頬を伝い滴って、膝に、服に、落ちた。

「友だちだって名乗る資格なんてないよ」

 日増しに膨らんでいく劣等感。
 もう、彼らの後ろを走って追いかけるのに、疲れてしまった。
 今日彼らの後姿を見ながら、胸に広がったのは、確かに強い憎悪だった。
 1人になった後、愕然とした。
 僕はたった一瞬でも身勝手なことに、優しい彼らを憎んでしまった。
 こんなに、大好きなのに。

「僕は…僕は……っ」

 彼らにこんな醜い心を知られたら、もう友だちでいられはしないだろう。
 本当は、ずっとずっと、友だちでいたのに。
 嫌われるのは嫌だった。
 嗚咽するピーターのそばで、はずっと半月を見ていた。
 半分しかない月は、誰かにぽんと投げ捨てられてそのまま転がってきたような、不安定な格好で浮かんでいる。
 精一杯輝いている月の周りに星はなく、月も1人は寂しいだろうと思った。



「友だちであるための資格ってなんだろうね、ピーター」

 静かに口を開いたは、答えを待たずに続けた。

「わたしね、最近ひとり友だちが増えたんだ。絶対友だちになることなんてないだろう、って思ってた人たちの中の1人なんだけどね」

 涙でくしゃくしゃになった顔で、ピーターはを見ていた。
 は目を閉じて、瞼の裏の濃い青の月を見ていた。

「そのとき気付いたんだけど、どこからを友だちと言って、どこまでも知り合いと呼ぶのか、わたしは知らなかったんだ」

 今まで、何を基準に友だちと呼んだのか。
 何を基準に友だちの名乗ってきたのか。

「それってさ、本当はものすごく曖昧なものだったんだ、ってびっくりしたよ」

 今まで、一度も感じたことのないものだった。

「だから、友だちって呼んでもいいのかなあ、って思った。その人はわたしのことを、友だちとは思ってくれていなかったし」

 会うたび、迷惑そうに眉を寄せていた。
 深い溜息を吐いて。
 ファミリーネームの、で呼んだ。

「でもね。なんだかその人とは、『知り合い』のままは嫌だったんだ。『友だち』でありたいと思った」

 それはきっと、彼と話すことが楽しかったからだろうし、もっと頻繁に彼に会いたいと思ったからでもある。
 なんの躊躇いもなく、彼の隣で笑っていたかった。彼ともっと話をしたかった。
 友だちであるなら、彼と過ごす時間を不自然に感じることはないと思ったから。

「だからね、その人の方ではわたしのことを友だちとは思わなくていいから、勝手にわたしの方で友だちだッって思ってしまうことにしたんだ」

 ピーターに笑いかけたは、少し照れくさそうだった。
 思わずピーターも表情を緩めてしまうほど、屈託がない。

「友だちだと名乗って、友だちだと思って、そうして過ごせるだけでいいんだ。わたしは結局利己主義だから、わたしがその時間を楽しいと思えればそれでいいと思った」

 彼が自分を、友人と認めてくれる日は来ないかもしれない。
 それはそれでいいと思う。

「人のものさしはさ、たぶんみんな違うと思うんだ。彼を通して、そう思ったんだけど。だから、どこからどこまでが『友だち』なのか、っていうのも違ってくるんだよ。…わたしはで、ピーターはピーターだから、わたしのものさしはピーターと大きく違うし、わたしはピーターの悩みとかを自分のものさしで解決できるとは思わないよ。だけどね。ジェームズのものさしも、シリウスのものさしも、リーマスのものさしも、わたしのものさしやピーターのものさしと違うものでしょ?だから、どこかでどこまでを『友だち』と呼ぶのかも、みんな違っているんだよ」

 なんだか話がややこしくなったね、とが頭を掻いた。
 ピーターは、ふるふるっと小さく首を振った。

「なんとなくだけど、分かるよ」
「そう?じゃあ続けるけど…」

 は話を簡単にまとめようと、頭をひねる。
 どれだけ言葉を捜しても、この気持ちや考えを正確に伝えることはできないだろう。
 それでも、少しでも感じて欲しいものがある。

「ピーターは、彼らと友だちでいたいと思っているんでしょ?それはね、わたしのものさしで判断すると、立派に『友だち』の範囲に入っているんだ。友だち、っていうのはさ、そうありたいと思っていれば、それだけで十分なんじゃないのかな。たとえば恋だったら、その人を好きだと思っていれば、それは『想い人』の範囲に入っているでしょ?きっとそれと同じなんだと思う」

 なんだか自分で言っといて、わけわかんなくなってきた。
 が苦笑するのに、ピーターも小さく笑った。
 今度は決して、自嘲ではなかった。

「そーだなぁ。ピーターのものさしでは、どうなのか分からないけどさ。君は君なりに、これから自分のものさしの中の『友だち』の範囲に入るために、努力していけばいいんじゃないのかな。その範囲を知っているのは、自分だけだから、どれだけ努力しなければいけないのかは、自分が一番分かるはずだよ。満足できるようになるまで、頑張ってみたらいい」

 それにね、と続ける。

「わたしが見た限り、ジェームズたちのものさしの中で、ピーターはちゃんと『友だち』に入ってるよ。彼らはたぶんピーターをとても大切な存在だと思っているから、『守ってあげたい人』の範囲とも重なってて、それが君を…少し過保護すぎる気もするけど、守っていく方向に持って行っているんだと思う。スリザリンの6年生たちのものさしでは、『腰巾着』に入ってるかもしれないけど、それは何も知らないでただそう見えただけの範囲だから、気にしなくていいと思うよ。ジェームズたちはそんな風には思ってないんだから」
「……

 涙の跡をパジャマの袖で拭いながら、ピーターは歪みそうになる顔で必死で笑顔をつくっていた。
 泣きたいのを堪えて、笑おうとしているのを感じて、は困ったように笑った。

「力になれたかな?」
「うん。うんっ。ありがとう、。僕、僕」

 顔をくしゃくしゃにして、ピーターが表情をつくった。
 それは笑顔なのか、泣き顔なのか分からなかったけれど、ピーターの胸には溢れるほどの感謝があった。

「僕ね、頑張ってみるよ。たくさん、頑張ってみるよ。駄目かもしれないけど、頑張るよ。どんな人のものさしでも、僕が『彼らの友だち』の範囲に入るように、頑張るよ」

 は、うん、と大きく頷いた。
 崩れそうなほどの笑顔をたたえて。
 じゃあ僕もう戻るね、とピーターが立ち上がった。

、今日は本当にありがとう。僕、が話を聞いてくれなかったら、すごく卑屈になってたと思うよ」

 ピーターの背中に、がもう一度呼びかけた。
 怪訝そうな顔をした彼に、は照れくさそうに言った。

「ちなみに、ピーター。わたしはいつだってピーターは友だちだからね」
「…うん!」





 ピーターの姿がなくなっても、はそこに座っていた。
 誰かを待っているようだった。
  キィ
 ドアが開いて、それから閉まる小さな音がして、誰かがの近くのソファーに座った。

「ありがとう、

 そう言ったのは、夏の海のような青い目をした少年だった。

「彼、元気が出たみたいだ」
「どういたしまして。ま、ジェームズのためじゃないから、お礼を言われる筋合いはないけどね」
「いいや。本当は、僕らが彼の悩みを聞いてあげなきゃいけない立場だったから、やっぱり礼を言うべきさ。でも、それはきっと彼を更に傷つけることになると思ったから、どうしてもできなかった」

 ジェームズは寂しそうで、悔しそうだった。
 レンズごしに見るは、相変わらず月を見ている。
 眩しそうに目を細める様は、とてもきれいだった。

「彼の気持ちには薄々気付いていたけど、僕はどうすることもできなかった。いや、しようとしなかったのかもしれない。それこそ僕のものさしじゃ友人失格だよ」

 ジェームズは苦く笑い、自分の手の平に目を落とした。

「まったく、情けないな」

 ジェームズの呟きに、は可笑しそうに小さく笑った。

「ジェームズからそんな言葉が聞けるとは思わなかったよ」
「からかわないでくれよ」
「あはは。……うーん、いいんじゃない?友達失格で。丁度ピーターも頑張るんだし、ジェームズも頑張っちゃえばいいんだよ。わたしも頑張らなきゃいけないことがあるんだ」

 微笑みが楽しそうだった。

「不思議だね。みんなものさしが違うのに、どんな人でも頑張ろうと思うことが1つはある。やらなきゃいけないこと、やればできることがたくさんあるんだ。だから、1人で何かに立ち向かっていくのは辛いし苦しいことだけど、誰かと支え合って行くことができるんだね」
「…うん、そうだね」

 ジェームズは柔らかく笑った。

の頑張らなきゃいけないこと、っていうのは何なんだい?」
「んー……悪いけど秘密。あ、ジェームズそんな剥れないで。…ごめんねぇ。これはわたし1人の判断で、軽々しく口にしていいことじゃないんだ」
「…ま、しょうがないか。今回はピーターと僕の感謝に免じて、見逃してあげるよ」

 軽く片目をつぶって見せて、ジェームズは朗らかに笑んだ。
 も笑って、立ち上がった。

「さんきゅ。じゃ、眠いからわたしももう寝るよ。おやすみ、ジェームズ」


 呼び止められて、は振り返った。
 ジェームズは眼鏡を外して、眠そうに目を瞬かせた。

「ひとつ、聞いてもいいかな?」
「何?」
「……のものさしの中で、あいつ…シリウスはどこにいるんだい?」

 顔が一瞬強張るのが分かったけれど、ふっとは柔らかく笑って目を伏せた。
 月明かりが眩しい。

「わたしにも分からないよ。ただね、ものすごく、ものすごく特別っていうわけじゃないんだ。どちらかというと、リリーに近いところにいるのかもしれない。親友、っていうのかな。そういう、『とても親しい人』の範囲に入って欲しいと思っているような気はするよ」
「そう。…答えてくれてありがとう。また明日」
「うん。おやすみ」

 ベッドにもぐりこみ目を閉じる。
 その一瞬、頭をよぎった人に、は再び目を開けた。
 今自分が思い浮かべた男が、シリウスだったのか、それとも違う人だったのか、には分からなかった。


 布団の温もりが心地よい。
 冬が近づいていた。















 友人 と 想い人 の境目が 分からない




















2004.6.16.

 ピーターという男を、わたしは憎むことができません。誰よりも人間らしい人だと思うのです。
 たとえば彼と同じ立場に立ったとき、わたしは彼と同じ行動を取ったでしょう。そういう卑怯な自分を彼に重ねてしまいます。
 だから彼は、少なくとも精一杯の努力をした後だったのだと、そしてどうしても駄目だったからなのだと、そう思いたいのかもしれません。
 これはそんな気持ちで書いた一話です。