確かに 何かを 感じていたはずで















 悪役はいつだって、ヒーローに倒される。
 ヒーローは王子さまだったり、騎士だったり、どこにでもいるようなけれど勇敢な少年だったり。
 それはまるで、法則や公式のようにはっきりとしたもので、物語はその公式を巧みな文章で隠しながら、話を進めているだけなのかもしれない。
 それでも、その本に魅力を感じるのは何故だろう。
 読んでいれば、確かにその世界に引き込まれ、その一挙一動に心を動かす自分は何だろう。
 それがよく分からなくて、いっそ大きな声で笑ってしまいたくなる。

 そんな、埒もないことを考えながら、ページを捲る手を止めたは、ふと顔を上げた。
 ある意味で見慣れた、1つの影が視界の隅を横切ったからだ。ここは図書館。誰が通ったとて、おかしくはない。
 影の正体は、セブルス・スネイプ。
 どんな勇者とも、程遠い男の子である。
 彼がヒーローに選ばれることは、まず、天地がひっくり返ろうと、有り得ないと思う。
 彼自身、「世界を救うために旅に出てくれ」と言われたら、心の底から迷惑そうな顔をして「世界の危機より、明後日のレポートだ」と答えそうだ。否、答えるに違いない。
 そんな確信に1人頷きながら、また本に目を戻す。

 ゴツ

「……本の角で殴るのに何か意味があるの、スネイプ?」
「中身が詰まっていない頭を殴ったら、どのような音がするのかという知的好奇心に突き動かされましてね」
「わあ、それは大層な理由だねえ。ところで、わたしの頭の中には、一般的に脳と呼ばれているものが詰まってるはずなんだけど」
「君の思い違いではないですかな」
「いえいえ、これは何より確かなオハナシですよ。この間の成績も、平均よりは上だったから」
「一度その頭をかち割って、中身を調べて差し上げようか」
「それでホルマリン漬けにするの?相変わらず趣味が悪いね」
「余計なお世話だ。そういう君も本の趣味が意味不明だぞ」

 やっと意味のない会話を切り上げて、2人は普段の話し方に戻った。
 スネイプの毒舌には、もすっかり慣れて、最近では言い返すことに楽しみを見出すという、奇妙な癖をつけてしまった。それに気付くたび、密かに苦悩していることなど、スネイプは知るよしもない。知ったとしても、鼻で笑うだけであるが。

「なんだ、その本は」
「スネイプには、これが広辞苑に見えるの?」

 一冊の薄っぺらい絵本。
 挿絵は幼児用のせいかカラフルで、文字は読みやすいように大きい。

「……やはり君は」
「精神年齢とか関係ないから」

 先回りして口を開いたに、スネイプは不機嫌な顔をする。

「ところでサクラ。お前、最近、私への口調がぞんざいになって来てないか?」
「友だちっていうのはそういうもんだよ、きっと」
「……違うと思うが」

 その前に私たちは友人だったのか、という問いさえは無視して、ぱらりとページを捲った。

「この本はね、どこにでもいるような少年が、攫われたお姫様を助けに行く旅で、立派な勇者へ成長していく話」

 お姫様を攫ったのは、不気味な城に住む魔法使い。
 魔法使いは、お姫様に強引に結婚を迫る。

「お決まりのパターンだな」
「でしょ。でも、何となく読み出したら、止まらなくなっちゃって」

 少年は、魔法使いの用意した試練を、次々と打ち破る。
 少しずつ強くなりながら、とうとう彼は魔法使いの城にやってきた。。
 右手に剣を、左手に盾を持ち、勇敢に正面の扉から正々堂々と勝負を持ちかける。
 魔法使いはそれに受けてたち、そして、案の定。

「魔法使いは少年の勇気ある一撃に倒れ伏す。そうして少年はお姫様を助け出すことに見事成功し、それに感謝した王様は、お姫様と少年を結婚させました。そして2人は、末永く幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」

 醒めた目で、しかし思い悩むように、彼女は椅子の上で膝を抱えた。
 小さな椅子の上で器用にバランスを取るを、スネイプは呆れた目で見ている。
 毎回思うのだが、この女は行儀や作法という言葉を知らないのか。

「ちゃちな話だ」
「そうだね。でも、そんなちゃちな話と分かっていながら、それを好きだと思うわたしはきっともっとちゃちだ」

 ぼんやりと、何を喋っているのか特に気にしないまま、は背中を小さく揺らす。

「この絵本はさ、人の感情に全く触れていないんだ。ただ、主人公の使命感とか、魔法使いへの憤りだけは、ほんの数行書かれてる」

 お姫様は無力だ。
 きっと暗い部屋に閉じ込められて、辛い思いをしているに違いない。
 魔法使いに虐げられているに違いない。
 なんて酷い魔法使いなんだ。

「当然の意見だろう。強引に連れ去り、強引に結婚を迫る。なにか邪な理由があったのだろうさ」

 国を乗っ取ってしまおう。
 お姫様と結婚さえすれば、己が王だ。

「今までずっと、1人で生きてきた魔法使いが、本当に王になりたいと思うかな。ちやほやされたい、とは思うことはあるかもしれない。でもそれなら、お姫様を攫わなくても、王様を殺して国を制圧しちゃう方が早いよ」

 殺す、という言葉を躊躇いなく使うには、悪行に対する嫌悪は見られない。
 だからこそ、スリザリンとグリフィンドールの不仲を嘆いたりもするのだろう。
 何を知り、何を知らないのか、何を理解し、何を理解していないのか、こちらにはまるきり予想ができない。
 しかし、少なくとも今彼女は、何かを憂いているように見えた。
 空っぽの頭で、必死になって考えていることの正体は…?
 スネイプはその問いが喉までせり上がってくるのを感じながらも、決して口に出そうとはしなかった。
 別に聞きづらかったわけではない。これは、ただの意地だ。
 自分は決して彼女の考えに、興味があるわけではない。仕方がないから、聞いてやっているのだ。そう思っているからこそ、そんな問いは無意味なのだ。
 苛立ちを滲ませて、ただ一言。

「何が言いたい?」

 はスネイプをちらりと見て、絵本の表紙に目を落とした。
 顔の見えない魔法使いの背中。立ち向かう少年が勇敢に斬りかかる様。燃え盛る炎。不気味な深緑の煙。
 そのすべてから、何かが欠けている気がしてならない。

「魔法使いはお姫様を本当に好きだった、っていう可能性も捨てきれないと思わない?」

 小鳥と唄う美しい姫を見て、恋をしてしまったっておかしくはない。
 庭の一角で踊る姫を、愛しく思ったのかもしれない。
 誰にでも向けられる優しさや笑顔を、自分にも注いで欲しいと願ってしまったのかもしれない。

「そんなもの、お前の妄想だろう」
「そうだよ。ただ、そういう可能性を誰も考えないことが嫌で、それ以上にそんな妄想を抱く自分が嫌いなんだ」

 珍しく不機嫌に顔をしかめたに、スネイプは複雑な顔をする。
 いつも顔をしかめるのは自分だ。
 自分もあんな顔をしているのだろうか。
 そんなスネイプに気付く様子もなく、溜息を吐いて、は先を続けた。

「主人公も、その可能性を考えないんだ。だから、迷うことなく、魔法使いをやっつけた」

 誰も、魔法使いの過去のことなど考えない。
 どうしてこんな城に、1人きりで生きているのか。
 彼だって昔は親もいたはずだし、城には使用人たちだっていたかもしれない。
 どんな人生を送ってきたのか、彼が何を考え何を感じていたのか、誰も知らないまま彼は『悪役』として死んだのだ。
 それは、

「そんなの、哀しいよ」

 恋したお姫様の笑顔が、優しさが、自分に向けられなかったら。
 愛を受けたことのない男は、どうしてなのかが分からない。

 笑ってくれ、笑ってくれ、私を、好きになってくれとは言わない、ただ。

 哀れみでもいいから。

 どうか。

「彼には彼の人生が、そこに確かにあったはずなのに」

 魔法使いは最後、何を思ったのだろう。
 何かを憂いたか。それとも、喜んだか。誰も、知らない。誰も知ろうとしなかった。

「全て、否定されたみたいだ」


 スネイプは改めて溜息を吐いた。
 妄想癖と言えば、それで終わりではあるが、ただ下らない絵本一冊を、真剣に考えすぎているだけの気もする。
 それとも何かに重ねているのか。
 眉を顰めて、ぼんやりとした横顔を見つめる。
 そのまま、眠ってしまいそうな表情に苛立ちを感じて、気が付いたときには手が動いていた。

 バコ

「…っ………なにすんだよ」

 殴られた頭を両手で押さえて、机に突っ伏したは呻いた。
 手加減のなかった遠慮ない仕打ちに、の目尻には涙が浮かんでいる。

「お前があんまり馬鹿だから悪い」

 当然とばかりに、スネイプは見下ろした。
 先程の気分はどこへやら、は強く憤慨する。

「馬鹿とか言うな!根拠もないくせに」
「馬鹿め。根拠など数えられないほどある。しかし、それが必要ないほど、一目で分かる馬鹿ではないか」
「違うもん!」

 どうやら意識は浮上したらしいと、スネイプは思う。
 あんな下らないことに一々意気消沈して、この時代をどうやって生きていくつもりなのだこの女は。
 呆れてものも言えない、とスネイプは面倒臭げに髪をかき上げながら、未だ剥れている女を見た。
 しかし放っておけば、この女のことだ、いつまでも悩んでいるに違いない。
 仕方ない、と思う自分が不思議だ。

「これは私の意見だが」

 向けられた視線をまともに受けるのは何故か嫌で、すっとそっぽを向いたまま続けた。
 仕方がないから、この下らない話に付き合ってやる。そういう面持ちで。

「お前の話を聞いている限りでは、その男、別に自分の人生を、他人に知ってほしかったわけではなかろう」

 誰かに同情してほしいから、生きたわけではない。

「それに、その女が好いてくれるとは、端から思っていなかっただろうさ」

 愛してほしくて、愛したわけではない。
 ただその人に、自分の存在を知っていてほしかった。
 恐怖の対象としてでもいい。恐ろしかった思い出としてでいい。
 一生、忘れないでいてほしかった。
 愛されたことがないから、愛されるとは思っていない。
 愛されないと知っているから、少しだけでいい、そばにいてほしかった。

「その上、その男を知っているわけでもないお前のような餓鬼に、同情されて気持ちがいいと思うか?お前の悩みなど、ただの時間の無駄だ」
「……そだね」

 下らない。
 吐き捨てられた言葉に、は素直に頷いた。
 そう、下らないね。
 こんな小さなことで、わたしは何をしているんだろうか。

「絵本ってさ、語られないところが多いから、想像の余地がたくさんあるんだ。だから、そのときの気分に応じて、その物語の捉え方が違うこともあるんだね」

 表紙を眺め回しながら、は言った。
 スネイプを見上げれば、すいと顔を背けられて、は小さく微笑む。

「だからこそ、こういうのは、前向きに捉えた方が勝ちだね」
「…勝ち負けの問題なのか」
「そだよ。自分との戦いなのさ!」
「わけが分からん」
「分かんなくていいよ。わたしも半分しか分からないんだから」
「………」



 いずれ、好きでもない隣国の王子に、嫁がなければいけないと決まっていたお姫様は、たった一度でいいから本気で恋をしてみたかったと、そう思っていました。
 そうして泣いていた月もない夜に、窓から現れたのは、きらびやかな王子様でも、屈強な騎士でもなく、漆黒のマントに身を包んだ闇の魔法使い。
 彼は躊躇うように名を名乗り、そっと、その手を差し出します。

 ―――この世界から逃げたいのなら…


 ねえ。
 お姫様はなんて答えて、彼をどう思ったのかな。
 語られない空白の時間を、誰もいない城で、どう過ごしたのかな。
 ねえ、きっと。
 そこには、誰も知らない、物語があったはずだよね。

 そして彼は、自分で選んだ道だから。
 きっと最後の瞬間も、後悔はしていなかったんじゃないのかな。



 だからね。
 彼を愛した人がいないなら、第三者がひとりくらい憂いてあげてもいいよね?
 ほんのひとときくらい、『悪役』を過去を想ってもいいよね?

 世界中でわたし1人ぐらい、『あの人』の存在を憎まなくてもいいよね。















 確かに その足で 生きてきたはずなんだ 誰もが




















2004.6.14.
 これだから、たぶんわたしは悪役を好きになるのです。
 だって死ぬのが決まってる悪役が、ほんとのところは優しかったりすると、切ないと思いませんか。
 そんなお話の方が、ずっと素敵だと思いませんか。
 すべての人に過去があって、家族があったことを、忘れてはいけない気がするんです。

 ちなみに、最後あたりの独白は、これからの彼女の葛藤を描くための伏線です。