「会いには、行かないんですか?」 向かいに座った少女が、責めるでもなくただ疑問を抱いただけのように首を傾げた。 せいぜい16か17あたりであろう、セブルス・スネイプという人物の家にはやや不釣合いな客だ。しかし、彼は追い返すことなく不快げな素振りさえ見せず、素直に招き入れた。紅茶さえ出して。 スネイプは静かに紅茶を口に運ぶ手を、ぴたりと止めて顔を上げた。 「なぜ彼女のことをあなたが?」 素直な驚きと怪訝な気持ちとが混ざり合った顔に、彼女は微笑んだ。 そのモスグリーンの瞳は、年頃のわりに落ち着いている。 「…少しばかり、面識がありましてね。まあ、あの頃はまだ彼女も学生でしたけど」 が学生だったのは15年以上も前のことである。やはり、やや話に違和がある。 しかしスネイプはそれに頓着せず、ただ「そうですか」というように一つ頷いた。 机の上に置いたままの、使い古した銀色の懐中時計が、ッ、ッ、ッ、ッ、と規則正しく囁いている。 ここ数日その滑らかな表面にできた無数の小さな傷を指の腹で何度もなぞったが、その度に15年という年月を実感する。 ・、という少女を思い出そうと目を閉じる。しばらくして瞼の裏に映ったのは、記憶としては不確かすぎる柔らかい赤褐色の瞳だけ。悪夢で見る彼女が本当にあの頃の姿なのか、それにさえ自信を持てない。写真はどこにしまったろう。あの夏に彼女の父――リチャード――が撮ってくれた、浴衣姿のあの写真は。 ああ、もう自分にとっての彼女とは、とうに過去のものに成り果てているのだ。 そのことに行き当たり、何かどうしようもない罪悪感に囚われて、息苦しくなった。ごほ、ごほ、と空咳を吐き出す。 時の流れに負けて忘却を感受した自分。あの頃の真摯な想いも幼かったが故のものと、笑うことができるようになった自分。彼女の存在を露とも思い出すことなく、幾人もの女とそれなりに恋愛をして、数えるのを無為に感じるくらいには肌を合わせてきた自分。それらすべてを嫌悪した。 「私にとって、・という存在はもう“女”ではなく、まだ何も知らなかったあの頃の“幸せの象徴”になってしまった」 夢に出てくる少女は、ではない。の姿をした、過去への己の罪悪感だ。 もう彼女とは一対一の人間として向き合うことはできないだろう。まして、同じ想いを以って彼女を見つめることなどできない。 そのことを知られて、彼女を傷つけることが恐ろしい。人の心に敏感だった彼女ならば、きっと気付くに違いない。 約束を要求したのは、此方の方なのに。 いつか返事を、と。 それなのに今は、その答えを聞くことができない。3年しか経ていない彼女はまだ、あの約束を覚えているに違いないのに。 どれくらいの時間を経てもこの気持ちは変わらないと、理屈もないのに愚かなほど真っ直ぐに信じて、返事はすべてが終わったあとでいいと、彼女の気持ちをを求めた、身を焦がすほどに熱を持っていた、あの気持ちは今やもう無いのだ。 「だから、会う必要などないでしょう」 大切であることは、今も変わらない。 だから、無闇に傷つけたくはない。 「薄情なものですね」 少女はカチャとカップをソーサーに置いた。 その優しげなモスグリーンが、時に凍えるほど冷たい光を帯びることを、スネイプは知っている。その度に、ああこの少女は本当に“彼”なのだと、思い知らされる。 「薄情、ですか」 問い返す。 彼女は、薄く笑った。 「つまり君は、“傷つけたくない”なんていうもっともらしい理由をつけて、本当は自分が傷つきたくないんでしょう?」 ぎくりとした。 「彼女の気持ちなど、本当は露ほども考えちゃいない」 目を逸らした。 その通りだ。 しかし、他に何ができたと言うのだろう、仕方のないことだ、と言い訳を重ねようとする醜い自分の内面に愕然とさせられる。 こんな男だったか? 彼女を心から求めたのは、こんな男だったか? 彼女が友と呼び、涙と弱さを見せてくれたのは、こんな…。 「スネイプ君。あの子はね、」 ふと和らいだ声に、ゆるゆると顔を上げた。 少女は微笑んでいた。 「僕がそうだったように、きっと今、悲しくて辛くて寂しくて、ぼろぼろに傷ついて、それでも無理に前に進もうとして、今にも壊れそうな状態だと思いますよ」 思わぬ言葉に、目を見開いた。 “きっと”と言っているのに「憶測などではない」と、その目は声は確信を以って告げた。 「目が覚めたら全てが変わっていて、大切なひとたちは知らぬうちに死んでしまい、消えてしまい、裏切りという形でバラバラになって、混乱して何もかも自分のせいだと思い込んで傷ついて、罪悪感に囚われて。義務感で幸せを探してはいるけど、いつだって当たり前のように幸せを与えてくれた人たちはもういないんです」 幸せを探す義務。 幸せになることが贖いだと、そう言った自分の言葉を信じているからだろう。なんて馬鹿な奴だろう。ああしかし確かにそういう奴だった、奴はどうしようもない馬鹿だったと、思い出す。途端、どっと胸に押し寄せてきた不思議な懐かしさに、驚き、困惑する。 「彼女が今本当に必要としているのは、壊れてしまわないように支えてくれる手なんですよ、スネイプ君」 少女の目が、寂しげに揺れる。 似ても似つかない色をしているそれに、の面影を見る。錯覚だと分かっているのに、胸が苦しくなる。 「君と彼女は、僕とルシウスとは違います。僕が彼を求めたら彼はすべてを捨ててしまうだろうけど、君が彼女を求めたからと言って何が失われるわけでもありません。それなのに、彼女が傷ついて怯えて立ち竦んでいるのを、君は突っ立って傍観し続けるつもりなんですか」 そうだ。私が誰よりも知っていたじゃないか。 いつだってへらへら馬鹿のように笑っているくせに、強がっているだけで本当は弱いこと。堅い殻を何重にも着こんでいるだけで、本当は誰よりも脆いこと。 「恋愛対象として見れなきゃ、会ってあげられないんですか。支えてあげないんですか。守ってあげないんですか」 あの小さな手の温もりを、守ろうと誓ったのは、本当で。 最後の日、抱き締めた彼女は細くて。 次々と蘇る記憶の数々に、その存在がかけがえの無いものであるのは、今も変わらないと、思い知る。 「その程度の仲だったんですか」 違う。 彼女に抱く気持ちは、変わってしまっても、消えて無くなってしまったのではない。 それでも、躊躇ってしまうのは。 「エリアス。あなたは…この血塗れた手でも、できることがあると思いますか」 この手が赤く穢れているから。 目の前の少女は笑う。 あの頃と変わらない、底なしの優しさがにじみ出るような微笑み。 「傷つくことも覚悟できない程度なら、何もできないかもしれませんね。その辺りは、君たち次第ですよ」 でも、と続ける。 「あの子はずっと、いつだってあなたに手を差し伸べつづけてきたから、あなたの手を拒むことだけはきっとしないはずです」 少女――エリアス・ブランディバックの生前の記憶を持ち合わせて生まれてきた子ども――は、実にあでやかに笑った。 頭が、目が覚めたように冴え渡っていた。 紅茶は冷え切っていた。 胸は熱かった。 「ねえ、本当に魔法を使わないつもり?」 「もう、何回も答えましたよモリー。あ、ただ火をつけるのは無理だから、お願いしますね」 鶏の腿肉の筋を取り、一口大に切り揃え、下味をつけておく。その作業は朝のうちにやっておいた。今頃は肉に味がしみているはずだ。 あとは簡単、それらを片栗粉にまぶして、揚げるだけ。 ぱちぱちぱちぱち、と盛大な拍手のような油の弾ける音をBGMに、の作業は進んでいく。唐揚げだけでは物足りないので、野菜スープもつくる。たんたんたんたん、とリズムよく野菜が切り揃えられていく。作業を興味深げに眺めていたジニーは、の包丁裁きに目を見開いている。昼食作りに立候補してから、のことだから鍋を焦がして慌てるくらいの惨事はあるだろうと思っていたのだ。実際そう思っていたのはジニーだけではなかったようで、背後では賭けに負けたフレッドとジョージが乏しいお小遣いの中からロンにいくらかを渡している。大穴狙いの末弟は大喜びだ。 料理をやりたがったのは、調理中は不思議と心が落ち着くからだ。昔から悲しかったときや苦しかったときにはそうしていた。そのお陰で、料理だけは一人前にできるようになった。 落ち込んだとき特に腕をふるったのは、美味しいと言って食べてくれる父の笑顔を見れば、憂鬱がふっとぶからだった。けれど今は、その父も風になってしまった。 ときどき味見をしながらスープに調味料を加えていく。 頭の中では、マクゴナガルにも励まされて、にも背中を押されて、それでも決心が着かないのはきっかけがないからだと言い訳している真っ最中だ。彼女たちの言葉には、納得しているし、励まされた。もう彼に会う準備なら、すべて出来ているはずなのだ。それでも。 肝心の勇気が出ない。 「うわあ、美味しい!」 ぼうっとしているの後ろで、こっそりつまみ食いをしたフレッドが歓声を上げた。ジョージはその隣で口をもごもご動かしながらしきりに頷いている。 「こらこらこらこら。つまみ食いする暇があったら、さっさと食器の準備をしなさーい」 「「イエッサー、ボス」」 「え、わたしボス!? いつから!?」 ジニーが吹き出した。 「でも、本当に料理上手ね。羨ましいなあ」 「慣れだよ慣れ。うち父子家庭だったから料理すること多くって。あーでも慣れてても油断はしちゃいかんのよね〜。学生の頃の夏休み、家でこの唐揚げつくったときなんかね、作り慣れてたはずなのに弾けた油が飛んできて、火傷しちゃって、親ばかのうちの馬鹿親父が大騒ぎしたことがあってね」 は楽しそうに笑った。 「あまりの騒ぎっぷりに、そのときウチに居候してた陰険男が血相変えて駆けつけてきたときは笑っちゃったね。あとでこってり絞られたけど」 一瞬ひどく寂しそうな表情が過ぎったのを見て、ジニーは上手く相槌を打てなかった。 「あ〜食べた食べた!」 「すごく美味しかったよ、!」 「ねえねえ、また作ってね! この唐揚げ最高!」 「ほんと、どうしてシェフにならないのか不思議なくらいだよ」 フレッド、ジョージ、ジニー、ロンに口々に褒められて、は赤くなって照れくさげに笑う。 の隣席に座ったが、誇らしげに微笑んだ。 「でしょう?」 もっと褒めて、と言わんばかりの口調に、は更に赤くなって慌てた。 「に、日本じゃこんなの普通なんだよ。簡単な家庭料理だもん。珍しくもなんともないもん」 「じゃあ、ニホン人はみんなこんなのを毎日食べてるっていうのかい?」 「うわあ、俺絶対いつか行こっと!」 「俺も!」 「僕も」 「わたしもー!」 モリーはにこにこしてその様子を見ていたが、ふとの耳元に囁いた。 「あとでレシピを教えてちょうだいね」 「……勿論っス」 くっと小さく笑ったは囁き返した。 「さあっ…てと!」 立ち上がってううん、と伸びをする。 「今日も張り切って庭小人放り投げ大会やるぞ〜!」 「「「「えーーー」」」」 一斉に反対の声が上がる。双子などはブーイングを始めた。 「ほらほら、行くよっ!」 「そんなの後でいいからさ、今日は遊ぼうよ」 「そうだよー。またマグルの話をしてよ」 ごちゃごちゃ言いながらも、みんながどやどやと庭へと移動し始める。 ロンも急いで後に続こうとして、立ち止まった。 「! 何か落としたよ!」 「え?」 ロンが拾い上げたのは、いつもが腕にしていた丁寧に編まれた糸のブレスレッドだ。こうしてじっくり見ると、随分古いものだと分かる。当初はもっと鮮やかな黒と赤と白のストライプだったに違いない。古さに負けて、糸が切れてしまったようだ。 顔を上げると、が呆然と立ちすくんでいた。 「どうしたの?」 不自然な様子に気付いて、駆け寄る。 もしや大事なものだったのだろうか。何も知らないジニーが横から顔を出す。 「あ、わたしそれ知ってる! ミサンガ、ってマグルのお守りでしょう?」 流石は女の子、とロンはジニーを感心した目で見た。そうか、ただの飾りじゃなかったのか。それならこの古さにも頷ける。この色褪せは数ヶ月かそこらのものじゃない。何年も身につけていたんだろう。 「え、でもそれじゃあ、やっぱりこれ大切なものなんだね? どうする? 切れちゃったよ」 慌てている兄の様子に苦笑した幼い妹は、宥めるようにミサンガを兄の手から取った。 「大丈夫よ。ミサンガは“自然に切れたら願いごとか叶う”ってお守りなんだから。そういうジンクスがある、って前雑誌で読んだもの」 「へえ。マグルも色々考えるんだね」 ああ、じゃあこれは喜ぶべきことなのだと気付いて、2人は顔を上げた。 ジニーの手からミサンガを受け取ったは、黙ってその切れた部分を見つめている。ジニーが怪訝な顔をする。 やっとそれに気付いたが、ぼんやりしていた顔に表情を浮かべた。 途方に暮れた子どものような、今にも泣いてしまいそうな、それでいて嬉しそうな、奇妙な表情だった。 「どうしよう」 が呟く。 ロンはどこかで見たことがある表情だな、と頭の片隅で思った。 「どうしよう、わたし…」 ああ、そうだ。 「…わたし、行かなきゃ」 道に迷った迷子が、見慣れた帰り道を見つけて安堵したときの顔に似てる。 マクゴナガルが励まし。の後押し。そして、きっかけ。 3つが揃った。 もう逃げつづける理由はない。 2005/09/05 長いなぁ。 ええと、エリアスの話はまたいつか説明がてら書きます。 「エリアスって誰だっけ」と首を傾げてしまった方は、《キャラクター紹介》か、 22話〜24話をご覧ください。 ルシウス・マルフォイの親友で、あるきっかけで亡くなってしまった人です。 |