「あたしはね、ずうっと人探しをしているの。……人じゃ、ないけど」 帰り道、バスの中でぽつりとが言った。 それまでぼんやりしていたわたしは、ハッとなって彼女の顔を見る。彼女が過去を話すのは、とても珍しい。いつも悲しそうな顔をするから、なるだけ避けてきた話題だ。そして今、やはり彼女の横顔はどこか悲しげで、それでいて懐かしむように穏やかだった。 「1000年も前に別れたきりで、生きてるのか死んでるのかも分かりゃしないんだけど」 1000年。 それ以上の年月を生きてきた。それだけの間ずっとひとつの目的のために動いている。その両方の事実に驚かされた。 よく考えれば、彼女については知らないことの方が多い。改めて彼女の横顔を見ると、普段より謎めいて見えた。よく知る黄金色が、窓の外の流れる景色を見ている。 「あたしは生まれたときのことは覚えてない。親もいなかった。でも自分が“最後”だったんだってことは、なぜだか不思議と分かってた。あたしのような人語を話す生き物は、あたしが生まれた頃にはもうほとんど姿を消していたんだね。だから、あたしが“仲間”に会ったのは齢200を過ぎた頃だった」 わあ長生きなんだね、などと今更でつまらない相槌は口にしない。 わたしはただ、黙って話を聞いていた。 「深い深い森の奥で、ボイドと名乗る熊に出会った。彼も人語が話せる“こちら側”の生き物でね、普通の熊より一回りも二回りも大きくて長生きだった。あたしよりずっと年老いていて、知識は豊富だし何より強かった。あたしのように姿を変化させることもできた。あんな図体で強そうなのに、小さい方の姿は穴熊なんだから笑っちゃったわ。…彼は“こちら側”の生き物が他にもいることと、自分はひとりの人間に仕えているんだと教えてくれた。彼ほどのひとが仕えるなんてどんな強い人間なのかと、あたしは誘われるまま彼についていった。そしてあたしはそこで、ヘルガに出会ったんだ」 懐かしそうに目を細める。 今彼女の目には、そのひとの姿が映っているに違いない。 「彼女は強くもなんともない、優しいのが取り得のかよわい魔女の女の子だった。最初はボイドが信じられなかった。なんでこんな弱い生き物に仕えるのか分からなくてね。…でもヘルガの琥珀色の目を見たとき、あたしはボイドと同じものを抱いたことに気付いた。言葉では説明できないけれど、“このひとが自分の主だ”って本能が全力で叫んでたんだ。抗えるはずもないし、抗う必要もなかった。…あたしは、そのとき大きい方の姿でね、牙も爪も剥き出しで、小さい彼女を怖がらせやしないかとヒヤヒヤしてたんだけれど、彼女何て言ったと思う?」 悪戯っぽく尋ねられる。わたしはただ首を捻るばかりだった。なんだろう。 そんなわたしを見て、はにやりと笑った。 「『こんにちは』」 その日は雪の降っていた。 彼女は寒そうに手を擦り合わせて、肩を竦めて手招きをした。 「『あなた、寒いでしょう? とりあえず中に入らない?』」 怖くはないのかと問うた。この姿を見て、逃げない人間は初めてだった。 茶色がかったふわふわのブロンドを揺らして、彼女は笑った。 「『怖くないよ。だって、ボイドのお友だちでしょう?』」 彼女の部屋は暖かかった。赤々と燃えるが暖炉のそばに穴熊の姿をとったボイドが丸くなって、あたしを楽しそうに見ていて。あたしはどうやって切り出そうか迷った。ずっと彼女の傍にいたい。傍で守りたい。そのために命を燃やしたい。その衝動はやむことなく体中を駆け巡っていて、どうすればそれを彼女に伝えられるのか分からなくて、迷っていた。すると彼女はあたためたミルクを勧めながら、恥ずかしそうに言ったのだ。 「『わたし、ヘルガ・ハッフルパフ。ねえあなたも、うちのこになってくれるの?』」 目を丸くするあたしに、彼女は笑いながら言うのだ。ボイドも初めて会ったとき、同じ目をしていたのだと。彼はもぞもぞと動いて、居心地悪そうに寝たふりをした。 「それから色々あって、彼女の仲間だっていうロウェナとゴドリックとサラザールという3人の人間に会ったわ。彼らにも1匹ずつ“こちら側”の生き物がついてた。あたしは初めて、仲間を持った。…家族、のようだったかもしれない」 幸せだったとその横顔は語っている。 柔らかく跳ねた艶のある黒髪が、彼女の顔に影をつくる。その陰影が、わたしの目には寂しげに映った。 「辛い形であの幸せが壊れてしまって、あたしたちはみんなバラバラになった。あたしは色々あって、誰とも連絡とれない状態になってしまって、やっと戻ってきたときにはみんないなくなってしまってたの。もう一度みんなに会いたいけど、ボイドはたぶん…生きてないと思う。もう1匹は駄目ね、彼…それとも彼女かしら、とにかくあれが見つかるはずないわ。消去法で、見つかる期待が持てそうなのは、あたしと同じくらい若かったもう1匹ね。口を開けば愚痴ばっかりで、ノリは軽いし、やることなすこといい加減だし、いけ好かない莫迦だったけど嫌いじゃあなかったわ。だから、探してるの。ずっと」 他にもっと言うことがあるだろうに、わたしの口から出た問いは、 「そのひとが好きだったの?」 だった。 それは、の横顔に今まで見たこともないような表情が過ぎったのを見たからだったのだと思う。 優しくて、切なくて、穏やかで、悲しくて、恋しくて、怖くて、恐ろしくて――様々な感情がない交ぜになったたた一つの表情。 「分からない」 首を振った。 「惚れてるとか惚れてないとか、そういうのは昔も今も分からない。種族が違ったから、確かめるすべもなかった。当然だけど子どもだってつくれないから、人間のように“結婚”という概念は無意味だったもの。だから、感情に恋情とか愛情とか名前をつけて、あれこれ悩むのは100歳とかそこらでとっくにやめてたわ。だからね、探してる理由はそんなんじゃないのよ。好きとか、嫌いとか、そんなのは関係ないの」 いつものように、初めて会ったときのように、は真っ直ぐにわたしを見た。 優しくて、厳しくて、強い目だ。 「ただ、もう一度会いたいの」 何度も悩んだ。 再会した途端、必死で隠してきた自分の醜さに気付かれて、拒絶される夢に飛び起きたこともあった。 何でもないふとした瞬間、突然彼の名を口にしたい衝動にかられて困惑したこともあった。 会いに行くなんてもう考えてはいけないと、頑なに自分に言い聞かせた日もあった。 会いに行かなければ何も変わらない、また逃げるのかと、ひとり自分を罵る日もあった。 傷つくかもしれない。 自分の醜さを突きつけられて。 傷つくのが怖くなかったあの頃とは違う。痛みを知った今は、臆病になった。自分の願望だけを追いかけて、がむしゃらに突き進めるだけのあの確かな勇気は、もうわたしの手にない。もうわたしは、自分を信じて彼を信じて、無邪気にあの腕に縋ることのできたあの頃のわたしではない。わたしは、変わってしまった。 傷つけるかもしれない。 この醜さに気付かれて。 たくさん誰かを傷つけてそのたび自分も傷ついて、たくさんの痛みを知ったはずのあいつに、まだ傷つけと言うのだろうか。この程度のことで情緒が不安定になった弱いわたしを見れば、彼はきっと嫌悪するだろう。そしてあの日々の思い出を穢されたことに傷つくだろう。 それでも。 嗚呼、何てことだろう。それでもわたしは。 どこかで、会いたいと思ってる。 傷ついてもいい、傷つけてもいい、それでも会いたいと叫ぶ自分がいる。 会いたい。 会って確かめたい。 あの日の約束を覚えてますか。 2005/08/26 |