外に出ると、廊下にいたが顔を上げた。
 見知らぬ女性にマクゴナガルは一瞬首を傾げたが、「ああ」と小さく納得したような声を出して、彼女に軽く会釈した。も会釈を返す。彼女の正体について、ダンブルドアから聞いていたに違いない。

「ちょっと待ってて。すぐ戻るから」
「ゆっくりしてらっしゃいな。あたしは大丈夫だから」

 ね?と言うように細められた目に、苦笑しながら頷いた。
 ほんと、姉と妹の気分。

 向かった先で待っていたのは、木のベンチがいくつか並ぶ中庭だった。
 マクゴナガルに促されて、それのひとつに腰掛ける。隣に、彼女も座った。
 緑が溢れ花が咲く、心地よいそこを見回す。

「いいところですね」

 マクゴナガルは頷いた。

「今は昼寝の時間帯だから誰もいないだけで、普段はたくさんの患者が此処に集まるんですよ」
「へえ…」

 優しい空気を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。

 2人はしばらくの間黙っていた。
 同じことを考えていると、分かっている。ただ、どちらからどう切り出せばいいのか分からなかった。
 黙って身動きもせず、ただぼんやりと天井を見上げた。大きな天窓からさんさんと陽射しが降り注いでいた。空を見上げて思い出すのは、あの日の曇り空だ。いかにも雨が降りそうな、あの特別な日の。

「会いには、行かないのですか」

 マクゴナガルが言った。誰に、とは言わなかった。
 は答えない。代わりに、尋ねた。

「あいつは、知ってるんですか」

 わたしがこうして、生きのびてしまったことを?

「…校長先生が話されました」
「そう、ですか」

 それからきっと随分経っただろうに、彼は一度も会いに来てはくれなかった。手紙さえ来なかった。
 それは暗に、会いたくないのだと言っているのではないのか。

「彼は独りです」

 独り、という言葉がやけに響いて聞こえた。

「救いたかった人は果てまで闇に堕ち、昨年は唯一無二の親友を永遠に喪いました」

 ハッとして彼女を見る。
 彼女の横顔は動かない。ただ悲しげに目を伏せていた。

「かつてリディウスも、辛いときを過ごしました。けれど、彼ほどに…彼ほどに、孤独ではなかった――っ」

 堪えるように、語尾を震わせる。

「余計なことかもしれません。きっとわたしはお節介なのでしょう。それでもわたしは、あの子に幸せになってほしいのです」

 もう孤独ではいさせたくない。
 あんな生き方が、彼にふさわしいとは思えない。
 どうして彼ばかりが、こんなにも苦しまなければならないのか。
 職員室で廊下ですれ違い、疲れた姿を目にするたび、いつも思っていた。

 拳を握り締めた。自分のその関節が白くなるのを、黙って見ていた。いろいろな思いが胸の中で渦巻いているのが分かる。けれどそれを言葉にするのは難しくて、やはりは黙っていた。
 やっと口を開いたとき、するりと出てきた言葉に自分でも驚く。

「怖いのだと、思います」

 ああ、そうだ。怖かったのだ。妙に納得して、笑えた。
 今度はマクゴナガルがこちらを見ているのが分かった。は其方が見れなかった。見なかったのではない、目を合わせることができなかったのだ。

「何度か、他の人と恋愛しようとしたことあったんだけど、どうしてだかいつもあいつのこと考えて、うまくいかなくて。たぶん、まだやっぱり好きだったからだと思うんです。それに気付いたとき、馬鹿だなって呆れたけど少し嬉しかった。それが、12年経って30を過ぎたあいつを前にして、同じものを感じられるか自信なくて、踏み出せないんです。本当に自分勝手で醜い理由だけど、今のわたしに唯一残った確かなものだから」

 なんて弱くて醜い生き物。
 己への嫌悪が胸を覆う。荒んでささくれ立った心は、ざらりとして気持ち悪い。

「あいつが変わってしまったのを見るのが怖くて。何より確かだと思ってた存在さえ、失くしてしまったんだと思いたくなくて。12年苦しみつづけたあいつに会いに行く資格なんて自分にはない、とかかんとかもっともらしい理由つけて、本当はずっと先延ばしにしてきただけなんです」

 笑えちゃうでしょ、と呟く。
 彼女の顔が見れなかった。怖かった。いつからこんなに臆病になったんだろう。強く生きると決めたのは誰だっただろう。

「それで、いいのですか?」

 彼女の声は静かで、やっぱり優しかった。

「逃げたままで、構わないんですか?」

 分かってる。すべてを、裏切る行為だということぐらい。
 強く生きようとまっすぐに前だけを見て、いつか絶対に“みんな”が笑い合える未来を信じてた、あのころの自分を。生きろと言って幸せを託してくれた、母や父や、友人たちの思いを。20になった日、彼に似た男に誓ったことを。16のとき、彼の目を見て誓ったことを。夢の中で会った彼の友人と確かに約束したことを。すべてを、裏切っている。
 なんて、罪深い命だろう。
 でももう、まっすぐに前だけを見ているなんて、わたしにはできないんだ。もう純粋で幼いままではいられないんだ。

「会いたくはないんですか?」

 どうしてだろう。
 涙が、出ない。

「……………会いたくないはず、ないじゃないですか」

 零れた本音。
 もしも、拒絶されなかったなら、彼が受け入れてくれたなら、きっと自分はそこに確かなものを見つけられる。新しい一歩を踏み出せる。
 けれどどうして、それが期待できよう?

「会いたいのなら、会いに行けばいいんです」

 マクゴナガルの声は確信に満ちていた。

「そこにあるのが拒絶でも、それで何かが変わるというのなら、会いに行けば良いんです。すべてを失い0になるか、そこで何かを得て1になるか、それだけのことです。どちらでもなく彷徨うだけの今よりは、ずっと良いのではないですか」

 握った拳を、老いた手が包んでくれた。
 やっと見れた彼女の目は、生徒を見る目にいつも宿っていたあの母のような慈愛が満ちていた。

「失うことは、決して恐ろしいことではありません。身を裂くほどに辛いのは事実だけれど、その先にもやっぱり未来があります。どうしようもなくなってしまったら、わたしを訪ねていらっしゃい」
「でも、先生、わたし」

 泣きそうになる。

「“今更なぜ”と聞かれたら、答えることができません」

 マクゴナガルはそっと抱き締めてくれた。
 遠い記憶の母とたぶる温もり。

「会いに行くのに、会いたいからというほど立派な理由はありませんよ」



 もう一度。
 もう一度踏み出せるだろうか。
 この罪深い身をひきずって、彼に会いに行けるだろうか。

 あいつはどんな顔をするんだろう。

 色褪せたミサンガを、手首ごとぐっと握り締めた。















2005/08/20

 なんか暗いしくどいし気持ち悪いなあ。(げっそり)