研究に没頭していた。 何も考えずにすむように、ただひたすら薬品と向き合っていた。 大鍋の中の薄い青。反応前だ。あとは此れに…。 『セッブル〜ス!』 ハイイロオオカミの心臓の琴線の粉末を、 『なーに陰気くさい顔してんのさー。ハゲるよー? ザビエルになっちゃうよー?』 ひとつまみ、 『ザビエルなセブ………うわちょっと見たいかもしれないどうしよう』 刻んだ雛菊の根を、 『怖っ。顔怖っ。すげえよ、アンタ。そんな凶悪な顔できる10代なんて、そこらにゃいないよ?』 1:3の比率で入れて、 『ねぇー、ごめんってばー。そんな怒んないでよぅ〜。ちょっとしたジョークだよジョーク。拗ねんなよー』 絶え間なく混ぜながら、 『大丈夫大丈夫。今からきちんとケアしてりゃそんなにハゲないって。希望持ってこうぜ?』 3分煮立たせ、 『セブルスってばー』 調合の成功の証に、その色は赤く。それはまるで、紅玉のような、 『ねえ、セブルスー』 「っ―――煩い!!」 ああ、そんな。 そんな会話もあっただろうか、遠いあの日々には。 それとも、曖昧にしか過去を思い出せない自分が、都合よく捏造した記憶だろうか。自分の記憶力に自信を持てたことは、一度もない。 調合の手順をどれほど覚えても、薬草の効能をどれほど覚えても、過去の出来事をすべて覚えているなんてできない。 そんな自分を責めても、何にもならないけれど。 「私は――」 握り締めた手。爪が食い込む。 鈍い痛み。 「私はもう、あの頃の私ではないんだ」 12年は、思うよりずっと長い。 最後に会った15年前は、更に遠い。 あれから3年の時間しか経ていない彼女の前に、変わり果てた自分が立つことなど、できるはずもなく。 人殺しの自分が彼女の目に触れて、彼女の中のまだ薄れていないだろうあのころの記憶を穢すなど、許されるはずもなかった。 臆病者と、笑うなら笑えばいい。 卑怯者と、責めるなら責めればいい。 差し伸べられた手を探しに行く勇気など、もうスネイプの中にはなかった。 人を殺めてきた汚らわしい手で、彼女の小さな手を取るなどできなかった。 なぜ、と。 問いながら、拒絶して、消えてしまう彼女の幻影が、彼を際限なく苦しめていた。 嗚呼。 今頃あいつは、どうしているのだろう。 「次は、此処なの?」 「…うん」 肩の力は奇妙なほど抜けているのに、指先を小刻みに震わせている自分に気付いた。 気を落ち着けようと少しの間目を閉じると、じっとりと汗ばんだ手の平を意識してしまう。ぎゅっと握り締めると、不快感は更に募った。 「今日はやめておく?」 眉を寄せたに、人型のは気遣わしげに声を掛ける。 しかし、は首を横に振る。 「ううん。ちゃんと、会わなきゃ」 セント・マンゴ魔法病院。 その、ある病室の扉を前に、かき集めた唾を呑みこんだ。渇いた喉にひりひりと小さく痛みが走って、何か飲んで来るんだったと少し後悔した。アリスとフランクに会うよりもずっと緊張するのは、家族と思えるほど親しかったからか。 なけなしの勇気を振り絞って、中指を少し突き出した拳でノックする。それを確認したがゆっくりと後退りして、少し離れた場所にある廊下の、一列に並べられた椅子のひとつに腰掛けた。 「――どうぞ」 扉の取っ手を掴む。ひんやりと冷たい。汗をかいた手のひらに、ひたりと落ち着く。 ちらりとを横目で見遣ったあと、ほんの少し力を込めて扉を開けた。拍子抜けするほど、扉はスルスルと滑るように開いた。 ベッドがひとつ。 椅子がひとつ。 ベッドで眠る男がひとり。 椅子に座った女がひとり。 を待っていた。 「来てくれたのですね」 彼女は優しい顔をして、立ち上がった。 「来ないかもしれないと思っていました。来ない方がいいんじゃないかとも…。でも、やっぱり、あなたは来たのね」 白髪が増えた。皺が増えた。彼女は老いた。 それでも、その目は、あのころと変わらない。大切な、生徒を見る目。 泣き出したくなった。縋りついて、許しを請いたくなった。 「お久しぶりです、マクゴナガル教授」 けれど、それは出来ない。 「遅くなって、申し訳ありませんでした」 それだけは、出来ない。 「ベイルダム教授、も」 この2人の前で、弱音を吐くなど、決して。 出来ない。 そして、ベイルダムは、答えない。 「――痩せましたね」 気遣わしげな言葉に、苦笑で返した。ちゃんと笑えていただろうか。分からない。 「そんな顔色じゃ、ディックが心配します」 「あーするでしょうね、あの人なら。ぎゃーぎゃー煩く喚くでしょうね」 たぶん、今度はちゃんと笑えたはずだ。 「この人も心配するわ。“ディックの娘なら、俺の子どものようなものだ”って言っていたもの。“だから俺とあんたで面倒をみなきゃな”って息巻いてたんだから」 なんて答えれば良いのか分からなくて、迷っているうちに、彼女は話し始めた。 ベイルダムは、相変わらず静かに眠っている。 「あなたがいなくなっても、この人だけはあなたの死を否定しつづけていたんですよ。あくまでも行方不明だって、周りの言葉を聞き入れようとしなくてね。認めたくないからかとか、信じられないからかとか最初は思ったけど、この人、本当に自信満々の顔で笑うのよ。“あり得ない”って、ね。“なぜ?”って聞いたら、何て答えたと思いますか?」 彼女は笑った。 可笑しそうな、楽しそうな、本当に自然の笑みだった。 「“愛娘が死ぬのを、あのディックが黙って見ているはずがないだろう。娘のためならなんだってする男だぞ?”」 マクゴナガルは優しい。ベイルダムも優しい。 ああ、なんて世界は優しいんだろう。 「“崖から海に落ちたぐらいでなんだ。風になったあいつならどうとでもできるさ。実は早速寂しくなって、攫って行ったのかもな”」 窓から、日差しが入る。風が入る。花瓶に花が活けてある。いい部屋だ。 は、白いベッドカバーをぼんやりと見ていた。 ベイルダムはその日、ポッター家にいた。 忙しい闇払いたちから預かってきたハロウィンのお菓子を、愛用のバイクに山ほど乗せて、ハリーに届けに行ったのだ。 それほど時間が経たないうちに彼は、恋人と約束があるんだと嬉しそうに惚気て、笑って、ずっと楽しみにしていたからと、少し急ぎ足で立ち去ろうとした。 “例のあの人”は、唐突に現れた。 亡くした親友のそれに似た、赤い瞳が、笑っていた。 ベイルダムは咄嗟に時間稼ぎを試みた。足止めするために、たった一人で闇の帝王の行く手に立ちふさがった。逃げろと、大声で叫んだ。子どもを連れて走れと、叫んで。そして。 倒れた。 ポッター夫妻は赤ん坊を抱いて、逃げようとした。 けれど結局逃げ切れず、立ち向かったジェームズは死の呪文によって倒れ、リリーもまた息子を守ろうとしながらも息絶えた。 “正常な状態”で生き残ったのは、ハリーただ一人だけだった。 「眠り続けて、もう11年にもなりますか」 知らせを聞いたときは頭が真っ白になったわ、と彼女は言った。 それからどうやって病院に駆けつけたのかはまったく思い出せない。ただ今も鮮明に覚えているのは、様々な機器に繋がれて眠る、顔色の悪い恋人の姿だ。 そして、ダメージが回復し、峠を越えて呼吸や脈拍が落ち着いても、目覚めないことに気付いた絶望感。理由は分からない。彼女に分かるのは、何度名前を呼んでも、叩いてもつねっても、キスをしても、彼が瞼を開くことはないという事実だけだ。 「誰のせいでもない。わたしのせいでも、この人のせいでも、ましてあなたのせいであるはずがない。責めるべきはただ一人、闇の帝王その人です」 ベイルダムは長い黒髪を真っ白なシーツに広げて、静かに、静かに、生きている。 は閉じられた瞼を見る。 その奥に隠された、限りなく黒に近いダークブルーの瞳を思い出した。自分の中の感覚ではほんの数週間前にみた目だ。鮮明と言っていいほど容易に思い出せる。 けれど今、11年という長い間もう一度その目が開くのを待っている女性の前では、それさえも罪悪のように感じた。 「わたしはもう、誰かを責めるのはやめました。自分を責めるのも、無意味だと気付いてからはもうやっていません。だから、あなたが自分を責める必要なんて、どこにもありません」 マクゴナガルは優しい。 そして、たぶん、優しすぎる。 責めてほしかった。 なじってほしかった。 軽蔑して、突き放して、二度と顔を見せるなと大声で泣き喚いてくれたら、どんなにか。 どんなにか救われただろう。 「ありがとう、ございます」 許されたくなんて、なかった。 立ち上がったマクゴナガルは、俯いて顔を上げないの肩に手を置いた。 ぴくりと肩が震えたのに、マクゴナガルはほんの一瞬だけ顔を曇らせたが、が顔を上げたときにはそれは既にかき消されていた。 「さあ、わたしの話は終わりました。今度はあなたの話を聞かせてください。……そうね、女だけの話をしに、」 ちらとベイルダムを見遣って、悪戯に微笑む。 「ちょっと外に出ましょうか」 「……はい」 も少し笑った。 笑顔をつくるのは、昔から得意だった。弱音を吐くなんてしたくなかったし、自分のために泣くのは卑怯だと思ったから、何があっても笑っていられるようにどんなときも気を抜いたりしなかった。 それは何も変わらないのに、どうしてだろう。 笑顔をつくるのがこんなにも辛い。 2005/06/19 難しい…。 |