祖母は、癒者と話があると言って、廊下の角を曲がって行ってしまった。
 二度と治ることはないと分かっているのに、今更何を話すと言うのだろう。
 ゆっくりと父の母のいる病室へと戻る。最近移ったばかりの新しい病室はたまたま空いていた小さな個室で、静かで良い環境だった。そのことが救いだ。

 病室の近くの廊下に置かれた長椅子に、珍しく病人以外の人が座っているのを見つけた。
 黒と瑠璃色の服を着こなした女性が、しなやかな足を組んで座っている。目を閉じた静かな横顔は、凛として美しい。こんなに綺麗な人は初めて見た。ただ横を通り過ぎるだけなのに、緊張して進める足がどきまぎと不規則になった。
 すると、彼女が目を開ける。びっくりして足を止める。ばっちりと目が合って気まずくなったのに、目をそらせなかった。彼女の目が見たことのないような黄金色をしていたせいだ。
 女性は何か思案するように2・3度瞬きすると、なんと僕に向かって、にっこりと微笑んだ。
 途端に頬がカアッと熱くなり、背筋がぴぃんと伸びた。全身が針金になったような錯覚。
 これ以上ここにいるのは耐えられなくて、あたふたと病室に逃げ込んだ。我ながら、情けない。ハリーだったらきっとこんなことはないだろう。気の利いた挨拶を2・3言交わして、恥をかかずに通り過ぎることができたに違いない。少しへこんだ。

 そうして病室に飛び込んだとき、再び珍しい事態に出くわした。
 父と母の病室に、見舞い客が来ていたのだ。否、今まで誰も来なかったわけではない。昔の同僚や学生の頃の友人たちは、昔は度々来てくれていた。しかし時が経つにつれ、その足も遠のいていった。たくさんいる親戚のうちの誰かは、「フランクとアリスを昔のままの姿で記憶にとどめておきたいのだね、きっと」と言っていた。そうかもしれない。“普通”だった頃の2人は、それはもう立派でみんなに好かれていたそうだから。
 それが、今頃になって。
 2台のベッドの前に立っている女性は、眠っている父と母をぼんやりと見ていた。痩せた小柄な立ち姿のせいか、今にもポキリと折れてしまいそうな脆い印象を受けた。ドアが閉まる音でこちらに気付き、こちらに焦点を合わせる。
 17・18歳ぐらいだろう。その若さが何よりも驚きだった。

「ネビル、だね?」

 光の角度のせいか、彼女の瞳は深い色をした赤に見えた。昔祖母が見せてくれた指輪の大きなルビーも、こんな色をしていた記憶がある。その目を見返しながら、何故だかこの人が泣いてしまうような気がして、僕は慌てて頷いた。

「こんにちは。…です」
「は、はじめまして」

 どもったのが可笑しかったのか、彼女は笑った。
 その笑顔もどこか泣きそうだったけれど、雰囲気がぐんと柔らかくなった。

「おっきくなったね」
「え? あの、僕のこと知ってるんですか?」

 感慨深げな科白に首を傾げた。どこかで会っただろうか。
 すると彼女はひらひらと手を振る。

「会ったことは、ない、かな。ただ、君がまだアリスさんのお腹の中にいたとき、お腹を撫でさせてもらったことがあるんだ」

 は手を伸ばして、僕の頭をくしゃくしゃっと撫でた。
 僕は照れくさくなって俯いた。僕の頭に触れるのはいつも年老いた手ばかりだし、もう滅多にされないから、なんとなく嬉しかった。

「不思議だな。あのお腹の中にいた小さな赤ん坊が、こんなに大きくなるくらいの時間が流れたんだね」

 くしゃくしゃになった髪の毛を撫で付けるように、手の動きはゆっくりと大人しくなった。

「いのち、って凄いね」

 見上げると、が目を細めて僕を見ていた。今にも泣いてしまいそうな気配があるのに、その目に潤みは見当たらない。それなのにどうして泣きそうに見えるのだろう。優しくて、悲しい赤い瞳。僕はすぐにこの人が好きになった。僕が微笑むと、は微笑み返してくれた。

「ネビルはお父さん似だね」
「そう、ですか?」

 よくお母さんに似ていた、と言われる。過去形なのにも慣れた。

「うん。フランクもちょっと人見知りだったからね。今、仕草がすごく似ててびっくりしたよ」

 親子ってすごいなあ、なんてのんびり笑った。
 僕はひたすらびっくりしていた。みんなの話から、パパは立派で強くて凄くて、僕みたいなどうしようもないやつの父親とは思えないほど完璧だったと想像していたから。

「学校は楽しい?」
「あ、はい、すごく。僕、グリフィンドールで、友だちがたくさんいて、みんな優しいから」

 勢い込んだはいいけど、大事なことを忘れていた。だから、小さな声で付け加えた。

「……僕は落ち零れだけど」

 彼女は意外そうに目を瞬かせて、うーんと唸った。
 慣れてる。あの両親を持ちながらどうして、って同情のような軽蔑のような目で見られることならば。

「ネビルさあ、得意な教科ある?」

 意外な、問いかけ。

「え? あ、僕、薬草学は好きだけど」
「あ、やっぱり! アリスさんもそれが一番好きだったって言ってたもんなー確か」
「ほんとに!?」
「ほんとほんと。ちなみにわたしもさ、いわゆるグリフィンドールの落ち零れだったよ。魔力が小さすぎて、上手く呪文が使えなくてね。変身術じゃあ、よくマクゴナガル先生に補修されられたなー。呪文なしの魔法薬学も最低でね。今思うと、よく卒業できたもんだってびっくりだね」

 思い出すように遠い目をしてくすくすと笑うに、一気に親近感が湧いた。そうして僕らは2人を起こさないように声をひそめながら、椅子に座ってあれこれと話をした。は両親がどんなだったかを詳しく話してくれた。立派な功績や仕事のことではなく、父は母の尻に敷かれていただとか、父は心配性で身重の母の周りをいつもうろうろしていただとか、母はおっとりした優しいひとで音楽を聞いたり花を育てるのが好きだったとか、そういう他愛ない日常のことを教えてくれた。“立派な闇祓い”のイメージとは別の、ありふれた幸福な夫婦の像が頭のなかにできあがっていくのは、今の2人を思えば胸が痛くなったけれどそれ以上に嬉しかった。悪いところも良いところも、贔屓目なしで率直に話してくれたから。
 どれくらい経っただろう。ふと、視線を落として、彼女の手の中に見覚えのあるものを見つけた。
 驚愕を隠せずに再び見上げると、は「ああ」と手の中のものを見せてくれた。お菓子の包み紙。
 ああ、なんてことだろう。

「これね、さっきアリスさんがくれたの。なんでかな?」

 ではこの人は僕が来る前、そんなに長い間ここにいたのだろうか。起きている両親に話しかけ、“贈り物”まで貰い、眠りにつくまでずっと傍にいてくれたのか。
 胸が、熱くなった。
 確かに母は“贈り物”を与える癖があるが、それはいつも自分に対してだけだった。どうしたのだろう。
 僕は何と答えていいのか分からなくて、返事の代わりに、ポケットから同じものを取り出して見せた。きれいに伸ばして、丁寧にたたんだそれ。

「ママが、ときどきくれるんです」

 僕はもう一度これを、破かぬよう慎重にポケットに仕舞う。

「迷惑ですか?」

 胸がどきどきした。
 大人とこんな風に対等に話すのは、ほとんど初めてなのだ。だから今の言葉が適切だったのかは分からない。けれど、できるなら、どうか。
 僕の願いを聞き届けたかのように、は神妙な顔をしてしっかりと頷き、紙くずでしかないそれを大切そうに胸ポケットに仕舞ってくれた。

「分かった。大切にするね」

 僕は、うん、と頷いて俯いた。

 目の奥がカッと熱くなって、溢れてきた涙が頬を伝い落ちる。滲んだ視界の中で、ぽとり、と床に水滴が落ちるのを見た。
 と名乗ったその人は、やはり泣かなかった。
 代わりに僕を抱き締めて、泣き止むまでずっと頭を撫でてくれた。
 僕は初対面のそのひとの背中に手を回して、うっうっと声を殺して泣き続けた。いつも泣くときは自分が情けなくなって仕様が無いのに、そのときはなぜかそれがとても自然なことに思えて恥ずかしいとは思わなかった。

 僕が泣き止むと、彼女はどこからかオレンジ色の飴玉を取り出して、僕の手に握らせた。
 そしてにっこり笑って、病室を出て行った。

「いつか、また来るね」

 その言葉を僕は、無条件で信じた。

 次に会ったとき、彼女の瞳から悲しみが消えていることを、心の底から願いながら。















2005/08/19

 うわあ久々に書いたのに短い。暗い。酷い。
 アリス、フランク、ネビルと祖母を初めとした親戚との関係はオリジ設定ですので、
原作を研究した結果変更がある可能性もありますので、その辺りはご了承くだせぇ。(ぺこ)