この夏、ウィーズリー家に2人の居候がやってきた。
 一人は、東洋人の女の人だ。
 海に打ち上げられたのを兄たちが発見した。何があったのかはよく知らない。パパとママも詳しくは知らないらしいけど、ホグワーツのダンブルドア校長先生は知っているらしい。そのことは聞かないであげてくれ、と頼まれたそうだ。だからパパとママは何も言わない。
 彼女は、と名乗った。
 赤い目は、宝石みたいですごく綺麗だ。赤い目なんて今まであまり見たことがないから最初は少し驚いたけど、全然怖くなんてない。とても優しい色だと思う。
 ちょっと風変わりだけど優しくていい人だから、わたしはそんな彼女が好きだ。

「あーはははは! 飛んでけ庭小人ぉ! この様に逆らおうなんざ100年とんで8年早いわあ! わーはははは!」

 ちょっと風変わりだけど。

 わたしは今、庭小人をぶんぶん振り回して投げまくっているを眺めている。
 ジョージとフレッドが、ママに悪戯が見つかって罰に庭小人退治を言いつけられたのだけど、それを聞いたが目を輝かせてビシッと挙手したのだ。
『はいはいはいはい! はい! わたしもやりたいです!』
 どこが面白いのか、わたしにはさっぱり分からない。

「何がそんなに楽しいの?」

 思わず疑問を声にだすと、彼女はくるりと振り返って笑った。

「こんな画期的なストレス解消法、なかなかないよー? 日本のサラリーマンだったらお金払ってでも絶対やりたがるね。ジニーもすればいいのに」
「遠慮するぅー」

 出会いもそうだけど、言うことなすこと不思議なひとだ。
 笑ってはしゃいでいるとジョージやフレッドくらいの子供みたいだけれど、彼女は丁度ハタチだそうだ。
 世の中は不思議でいっぱいだ。

「今日の昼メシ何かなあ」

 仕事をに任せて、わたしの左隣に座ってサボっているフレッドが呟く。いや、ジョージかもしれない。

「最近のママの料理は格別に美味いよな」

 にやっと笑ったのは私の右隣のジョージだ。ジョージだと思う。たぶん。
 フレッドは、庭小人を引っつかんで勇ましく振り回している女性の後姿をボケーッと見ながら、うんと頷く。

「ママ、に少しでも食べてもらおうと必死こいてるからな」
「病み上がりだから心配なんだろ。俺らから見ても小食だからな、は」
「でも最近は結構食べるようになったよな。美味しい美味しいってにこにこして食べるから、ママも嬉しそうだった」
「うん。でもさ」
「うん」
「なんか日に日に痩せてってる気がするんだけど」
「…うん」

 悪戯ばかりするわたしの困った双子の兄たちは、本当は優しい。いや、あのママとパパから生まれたのだから、ウィーズリー家の全員が基本的に心配性なのは当然なのかもしれない。
 かく言うわたしも、たぶんそうなのだ。
 だから、炎天下にいる彼女が一度も休憩していないことを、こんなにも気にしているんだろう。

、そろそろ休憩にしようよー」
「あーと少しぃー」

 さっきからそればっかり。
 思わず溜息が出た。
 すると。



 家の方から声がした。凛としていて、艶のある声。
 みんなで振り返ると、癖のある長い黒髪の、すらっとした女性がいた。

 そう。うちには、2人の居候がいる。

 彼女が、その2人目だ。
 がやって来た数日後、彼女はを訪ねてやってきた。昔からの友人らしい。ダンブルドアの紹介で、が全快するまで居候させてくれと、直接パパに頼んだ。パパはすぐに頭を振った。勿論、縦にだ。パパの耳が少し赤かったのは気のせいだと思いたい。でも、彼女の美しさに見惚れていたのはパパだけじゃなく、わたしを含めた全員だったから、ママは何も言わなかった。は始終にこにこしていた。
 彼女の目は黄金色で、やっぱり宝石みたいだ。でも、どうしてだろう。ときどき少しだけ怖い。優しくて穏やかで、のことが大好きないい人だってことは分かっているのに、そんなときは、すごく偉い人の前にいるみたいで緊張してしまう。

「そろそろ中に入りなさいな」

 を前にして、彼女の鋭い吊り目が優しく細められる。
 なんて穏やかで優しい表情なんだろう。わたしの両隣の男たちは顔を真っ赤にしている。……ちなみに、わたしも頬が熱い。
 は彼女にとてもとても大事にされていることが分かる。

「はーい」

 先程までの聞き分けのなさはどこへやら、はぽーんと小人を放り投げて素直に踵を返した。
 と彼女の間には、幼いわたしたちには計り知れないような深い絆があるのかもしれない。

「こんなに手を汚して。…子供じゃないんだから」
「ええと」

 呆れられて、はちょっとばつが悪そうに視線を泳がせた。
 絆というより、ただの、保護者と被保護者の関係のような気もしないでもない。

「ほら、手を洗ってらっしゃい」
「お、押忍!」

 たったかたったか逃げるように去るの後姿を、彼女は見守っている。
 その横顔が少し切なそうに見えて、その表情には女のわたしも少しどきどきした。だってそんじょそこらの男のひとより断然カッコイイんだもの。
 それから彼女はわたしたちを振り返って、反則なくらい綺麗な微笑を浮かべた。

「さ、ボクたちもお行き」

 その美人さんは、と名乗った。







「いやあ、ってやっぱり美人さんだよねえ」

 はつくづくといった感じで、を上から下まで見た。
 スタイルの良さがちょっとばかり……正直に言えばものすごく、羨ましい。

「なあに、急に」
「いやあ、だってさあー」

 もう夜だ。
 2人に割り振られた小さな部屋。は床に敷いた布団の上で、抱えた膝に顎を乗せる。

「猫のときから、こう、美人さん的な雰囲気はビシバシ伝わってきたんだけど、実際目にすると、ねえ」

 ふにゃり、と笑う。

「むふふ、って感じ?」
「……………
「そ、そんな哀れみの目で見ないでください姐さん。大丈夫だから。頭は正常だから。頭打ったとかそんなんじゃないから」

 身体的にも精神的にも、の近くには事情を知っている人間がいた方がいいと判断したのは、ダンブルドアだ。マクゴナガル、という選択肢もあったが彼女は生憎新入生たちの入学の手続きなどで、多忙を極めている。
 そこで、白羽の矢が立ったのが、というわけだ。
 とは以前から顔見知りだったらしく、ダンブルドアは別に驚いた風もなく了承した。は何とも言えない表情で老人を見ていたが、あまり聞かれたくなさそうに見えて、は何も言わなかった。
 そこで問題になったのが、猫の姿では何事も限界があるということだった。

「まあ、こんなことまでできるなんて、考えもしなかったものね」
「意外と便利だよね」

 の得た特殊な力で、彼女に人の姿を取る能力を与えたのだ。
 は人間と猫と獣の三つの姿を、自在に変えることができるようになった。

「これでとショッピングができるのね」
「うんうん。いっしょに行こうね」
「映画館にだって一緒に入れるのね!」
「うんうん。前から見たいって言ってたもんね」
に朝ごはんもつくってあげられるし!」
「わー楽しみだなー、の料理!」
「洗濯物だって畳んであげられるし、部屋の掃除だってしてあげられるし! 何より隣で寝ていても朝起きたら潰されていて呼吸できなかったなんてこともないだろうし! 躓いたときは転ばないように支えてあげられるし! ああもうなんて素敵なの!」
「……」

 感極まったように拳を握った美女から、はゆっくりと目を逸らした。
 色々気苦労をかけてきたらしい。申し訳ない。

 しばらくそうして話していたが、やがて2人は眠りについた。


 が目を覚ましたのは、真夜中だった。
 人型になっても五感の鋭さに変化はない。眠っているときも、他者の気配や物音には敏感だ。
 静かに、が身を起こしたのを感じた。が、目を開いていないので、表情や様子までは分からない。
 猫の瞳は、暗闇では目立つ。ただでさえ此方に気を遣って気配を殺しているのだから、目を開いたら起きたことに気付かれてしまうだろう。
 ふらり、と立ち上がる。足音を殺して、部屋を出て行く。
 途中、はそっと薄く目を開けた。
 夜目の利く目に映ったのは、昼間までの明るさが鳴りを潜めた、蒼褪めた主の横顔だった。
 音もなく、はドアの向こうに消えた。裸足の小さな足音は、ゆっくりと遠ざかっていく。
 はやっと目を開いて、身を起こした。
 だが、いつまで経っても、後を追おうとはしなかった。

 真夜中過ぎに、がふらりと部屋を出て行き、数十分後にふらりと帰ってくるのは、毎夜のことだ。
 最初は気にしていなかった。
 だが毎夜となると、流石に気になって一度それとなく話題にした。すると「トイレが近くなっちゃって。年かな〜」などと、いつもと変わらぬ顔で笑った。それで何故だか、ますます胸騒ぎがした。
 その夜、猫の姿でそっと後をつけてみた。猫の姿であれば、尾行に気付かれることはまずない。罪悪感がなくはなかったが、杞憂に終われば笑い話ですむ。そうでないなら……。
 そして、矢張りというか、彼女が向かったのは、手洗いでもなんでもなかった。真っ直ぐに、玄関を目指した。音がしないように気をつけて、は外に出た。は声をかけようか迷ったが、偶然空いていた窓から外に出て、尾行を続けた。
 ウィーズリー一家の風変わりなつくりの家に背を向けて、は逃げるように急いだ。
 星も、月さえも出ていない、暗い夜だ。ならいざ知らず、に道が見えているとは思えない。だが、の足取りに迷いはなかった。行き先などなかったからだ。あの家から離れることが、目的だったのだ。
 蒸し暑いからと言って選んだ薄い生地の服が、風に小さくはためいた。

 やがて、は足を止めた。
 見渡す限りの平原で、唐突に膝をついて蹲った。
 は駆け寄ろうとした。が、できなかった。四肢は凍りついたように動かなかった。
 苦しげな息遣いがこちらまで届いた。前のめりになった彼女の肩は、強張って、激しく上下していた。
 嘔吐していた。
 はその日、美味しい美味しいとにこにこ笑って食べたもののすべてを、乾いた地面に吐き出していた。
 その背に駆け寄る勇気は、にはなかった。
 茫然と立ち尽くしていた。動けなかった。
 そして、の様子がやっと落ち着いて、聞こえていた苦しげな息切れが静まったとき、小さな、小さな、主の呟きを聞いた。
 初めて、自分の鋭い聴覚を呪った。

 ――生きていこう、って思ってるんだけどな

 彼女は笑っていた。汚れた口元をぐいと拭いながら。

 ――どうしてかな。
 ――もう、どうやったら幸せになれるのか、分かんなくなちゃったんだ。

 ――ごめんなさい

 は、その場から逃げ出した。
 走って、走って、ウィーズリー家に戻った。人型になって、布団の中に潜り込んだ。
 涙が、止まらなかった。

 次の日、やはりの様子はいつもと変わらなかった。
 美味い美味いと、朝食も昼食も夕食も、出された分はすべて平らげた。へらへら笑って、子どもたちといっしょにはしゃいで、騒いだ。夕方になると、夕焼けが綺麗だと言ってを外に引っ張って行った。夜になると、星が綺麗だと言って空を見上げた。
 笑顔は、その目の光は何も変わらないのに、いつのまにかやつれてしまった様子に改めて気付かされた。
 にはとても見ていられなかった。


 しばらくして、は戻ってきた。
 はただ、に背を向けて、身動きもせずに息を潜めていた。
 は気付かずに、ごそごそと布団に潜り込んで、やがて眠りについた。

 謝りたいのは、あたしの方だ。

 涙が、鼻梁を横切り頬を横切り、枕に滲んだ。
 自分の非力は誰よりも分かっていたはずなのに、ずっと昔にあれだけ実感したはずなのに、どうしようもなく歯がゆく、悔しかった。
 しかし、自分では気を遣わせるばかりで、何の力にもなれないことも分かっているのだ。とはそういう子だから。
 だから、何も言わない。何もしない。
 できるのは、気付いていないふり。それだけ。
 ただ、ただ、祈っているだけ。

 誰か、彼女を助けてください。















2005/05/21