あれから、は何も食べない。
 ぼんやりと窓の外を見て、ときどき、泣き出しそうな顔をするばかりだった。
 しかし、結局、その眼球は乾いたままで、涙は一粒も流れない。泣くことができればどれだけいいか。

、何か食べないと」

 心配したが声をかけるが、彼女は小さく首を振る。今はいい、と小さく返した。ダンブルドアに会ったのは昨日の午前中だ。
 モリー・ウィーズリーが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれているが、はそのことを深く考える余裕もない様子だ。今、彼女の前には、夕食のオートミールが置いてあるが、それにさえ気付いていないのかもしれない。
 はひたすら、窓の外の景色を見ている。
 そんな主の横顔にの胸は不安で一杯になる。彼女に見えているのは、自分が見えているものと同じ風景だろうか。それとも、もっと遠い…。昔、遥かに遠い昔に彼女の主だった女性も、ときどきのような顔をして遠くを見ていた。その遠い思い出がますますを不安にさせる。

「食べなさい」

 が尻尾をパタリと振って言った。昔からには甘い性格だった彼女にしては、強く鋭い口調だった。
 その言葉に、主はやっと顔をに向けた。強張った頬で、困ったように笑う。

「ねえ、。わたし、食べてもいいのかなあ」

 その頼りないセリフにぽかんとした後、彼女の胸を占めたのは悲しみでも同情でもなく、紛れもない苛立ちだった。
 ピインと尻尾を立てた。


「たわけたことをッ!!」


 どん、と胸に響くような、迫力のある声だった。

「それが妾の惚れ込んだの科白かいっ? 甘えるのもいい加減におし!」

 初めて聞いた彼女の怒鳴り声に、は丸くした目を瞬かせた。
 禁じられた森で大きな蜘蛛に襲われたときも、彼女はそうやって怒鳴ったのだがまさかそれが自分が怒鳴られる日が来るとは思わなかった。あのときとは違い小さな姿のままではあるが、それでも今の彼女からは常にない威厳を強く感じた。そういえば彼女は一体いくつだと言っただろう。
 溜め込んできた不安が怒りに拍車をかけて、はまくしたてるように続ける。

「確かにお前は不幸な子じゃ! しかし、己が不幸を呪うて、不幸は逃げてゆくのかえ? 何も食べずに生きるのを止めて死んで、お前はそれで幸せなのかい? お前を生んだ母は、お前の生を願った父は、そんな終わりを望んだのかえ? 生きると言ったのも戯言かい! 父母の死は己の罪で、幸せになることが贖いと言ったのは虚言か! いつまで自分を見失っているつもりだい!?」

 は黄金色の瞳で強くを睨んでいたが、やがてゆっくりと尻尾を下ろした。それに伴って目も伏せられて、耳もぺたりと垂れた。

「もう、目を覚ましてちょうだいよ」

 じゃないと、あたしが壊れてしまいそうだ。

 先程の勢いが嘘のような、小さな小さな呟き。
 彼女を凝視していたの手が動いた。身を強張らせたをそっと抱き上げて、抱き締めた。

「ごめんね」

 囁いた。

「ごめんね、。不安にさせてごめんね」

 震えているような、それでいて妙に穏やかな声だった。
 は少し躊躇ったあと、主の顎をぺろと舐めて答えた。

「ずっと、考えてたんだ。これからどうしていこうかとか、守られていた幸せな頃のこととか、みんなはどうやって12年を過ごしてきたんだろうとか、こんなときお父さんだったらどうしただろうとか、わたしはどうするのが一番なのかとか、たくさん」

 柔らかい毛並みを撫でる。
 温かい。彼女は生きている。自分と同じく、12年という時を超えて確かに生きている。

「今は、クレアさんの言葉の意味が、すごくよく分かるんだ」

 入団を許可された直後に、優しい貴婦人が教えてくれたこと。
 大切な人を失ったときの、その中途半端な悲しみへの絶望。

「わたしはこんなに悲しいのに、先のことを考えてる。結構お腹も空いてるし、喉も渇いてる。泣けもしないのに、わたしは生きようとしてる。生きること考えてる。それが申し訳なくてね、何か食べることなんて罪悪を重ねるだけのような気がして。…わたしは、みんながいないのに、生きていける。それが怖い。そんな自分がひどい冷たい人間に思えて、吐き気がする。怖くて、申し訳なくて、どうしようもなくて、どうすればいいだろうってずっと考えてた。このまま逃げてしまいたいのに、逃げることなんてできないのは分かってる。それにたぶん、逃げるなんて情けないこと、誰よりもわたし自身が許せないんだ」

 とりとめもない言葉の連なりは、独り言のようにの唇からあふれ出た。
 はそれを黙って聞いている。

「そうだね。の言うとおり、これは甘えだ。何かを口にして生きることを決めたわけでもなく、でも死んで逃げることもしていない、そんなぬるま湯みたいな時間に留まっていることは、甘えだね。逃げることができないなら、逃げちゃいけない。それは分かってたはずなのに」

 の額に額を当てて、笑った。

「心配してくれて、ありがと、

 も笑った。

「大切なあなたを心配するのは、当たり前じゃない。あなたはあたしの特別なひとなんだから」
「うん、ありがと」

 穏やかに、笑った。

「生きなきゃいけないんだよね、わたしは」

 何度も何度も決心したはずなのに、どうして肝心なとき忘れてしまうのだろう。
 どんな犠牲を払っても、生きていく覚悟。どんなに悲しくても、どんなに辛くても、前を向いて立っていなければならない。わたしを生かそうとした人たちの想いの分だけ、強く。わたしの幸せを願ってくれた人たちの分まで、幸せに。
 そう決心したのは、もう随分と前のことだ。

 ――罪悪感なんて捨ててしまえばいい。噛み砕いて、消化して、己の糧にすればいい。そうは思わない?

 優しい、老婦人の声。
 あの人ならきっと、笑って許してくれるだろう。
 旦那さんと再会できたことに、可愛らしく頬を染めながら。

 それからは、目の前の皿を見た。
 添えられたスピーンを握ったのを見て、がほっと息をついた。
 が、中々手をつけようとしない。

「でもさあ、。問題がひとつあるんだよね」

 訝しげに首を傾げると、はつんと唇を尖らせる。
 目を眇めて、皿を睨みつける。

「オートミールってきらい」

 への字に曲げた唇が、少し誰かさんに似てるなと思って、は堪らず噴き出した。




















2005/04/09

 高校入学、一発目がコレです。(今日は入学式でした)
 クレアの話、というのは42話の「涙とかなしみの行方」の会話です。