あのハリー・ポッターがホグワーツに入学して1年が経ち、セブルス・スネイプはその年の1月に32になった。 ヴォルデモート卿が倒れて、11年が経とうとしている。 夏期休暇中、自宅で睡眠を拒むように研究に没頭していたスネイプは、突然、勤め先の校長であるアルバス・ダンブルドアに呼び出された。 完成間近だった研究を途中のままに置いてきて、スネイプは不機嫌に校長室の椅子に腰掛けたのだが。 「は?」 カルピスという飲み物のことを頭から追い出して、混乱から立ち直るのにひどく時間がかかった。老人の口から出た言葉を理解するのには、更に時間がかかった。何度も何度も噛み砕いて、やっと声を発するに至ったが、その第一声は、 「何を…ふざけたことを……っ」 情けない声だと自覚はしたが、そんなことに構っている余裕はなかった。 だん!とテーブルを殴る。 「冗談も大概にしてください!」 あまりにもタチが悪い。 しかし、怒鳴り声にも校長は全く動じず、その青い目は相変わらず静かだ。 「冗談ではないよ、セブルス。本当なんじゃ」 「有り得ない! あいつは…彼女は12年前に死んだはずです!」 それが今更。 帰ってきたなどと。 「生きておったのじゃよ。と共に海に投げ出されはしたが、怪我らしい怪我はほとんどない。死の呪文によって多少ダメージを受けておるが、しばらく休んでおれば大丈夫じゃろう。彼女の魔法が効きにくい体質が幸いしたらしい」 「そんなことを聞いているのでは」 苛立ちを隠す余裕もないスネイプを宥めるように、老人はまあまあと開いた両手を彼に向けた。 「分かっておる。何故、12年も経って、ということじゃろう?」 真剣な光を宿したダンブルドアの目を、スネイプは混乱した顔で眺めた。冗談を言っている顔ではない。 生きている? 帰ってきた? 死んだはずの、・が? 「今日の午前中、早速彼女と会って話をしてきたんじゃが、間違いなくじゃったよ。あのころのままの姿じゃった。…そのとき、彼女はこう言ってわしに説明したよ。“使ってはいけないものを使ってしまったのだ”と」 ダンブルドアの表情は、改めて見れば珍しく暗かった。 スネイプは、暑くもないのにたらりと汗が伝うのを米神に感じた。 「“父親と同じ過ちを犯して、12年という時を奪われてしまった”と、な」 「願ってしまったんです」 校長の問いに、は弱々しく答えた。 アーサー・ウィーズリーの呼びかけに応じてやって来た校長は、右手で長い髭をしごいた。 「わたしは“あれ”の問いかけに答えてしまった」 左胸の上に手を当てる。呪文がここを貫いたときの、あのときの衝撃は忘れようもない。己の死を、死神と呼ばれる存在を、呼吸が伝わるほど近く感じたあの瞬間は、にとってはつい先程あったばかりのことだった。 たとえ、その瞬間から12年もの月日が経っているのだとしても。 ・は死喰い人の手によって、確かに殺されたことになっていた。ダンブルドアは遺体が見つかっていないことを理由に、断固として“行方不明”だと主張したが、ほとんどが(本心ではダンブルドアでさえも)彼女の死を認めていた。無論、セブルス・スネイプもだ。 遺体が見つからないということはどこかで生きているのかとも考えられないことはなかったが、闇の時代が終わってもまったく情報が得られなかったことで、その死は確定したも同然だった。あの日の海は酷く荒れていたのだから、きっと見つけられないほど遠くへ流されてしまったのだろうと、いつのまにかそういうことになっていた。 しかしそれから12年後の夏、そう、昨日だ。 ・は突然姿を現した。12年前着ていた服で、12年前と変わらぬ姿で、愛猫のを抱いて。 生きたまま、海から浜辺に打ち上げられた。 校長から聞かされたのは、そういうことだった。 「わたしのここを死喰い人の死の呪文が貫いて、崖から落ちたとき、わたしは無力な自分が許せなかった」 真剣な顔をしたダンブルドアは黙って聞いていた。 は一瞬力なく小さく笑った。 自嘲だ。 「夢だったのかもしれません。でも、目が覚めたらこういう状況だってことは、夢じゃないんでしょうね。12年経っちゃいました、って言われてあんまり驚かなかったのは、たぶん夢じゃないってことを本当はちゃんと分かっていたからなのかも…」 「夢…」 「言葉にするのは難しいんですけど、とても不思議な感じでした。外であって中であって、どこでもなくて、すべてであって。あそこには何も存在していなかった。現実の中心。夢の果て。宇宙の中心。世界の果て。どんな表現も当てはまらない。そこは世界そのものだったけど、私の知っている世界ではありませんでした。あと少しでもあんなところにいたら、頭が混乱して狂っていたかもしれない。…お父さんに聞いていたとおりの場所で、お父さんと同じ質問をされました」 ダンブルドアは驚かなかった。 予期していたのかもしれない。そのことに少しほっとして、視線を落とした。 「わたしはあそこで、力を願ってしまった」 確かめなくても分かる。 今、自分の体には今までなかったものが、血液のように脈打っている。 力、だ。 紛れもなく、何かと戦うための力。 使い方もなぜかは知らないが当然のように知っている。生まれたばかりの赤ん坊が誰に教わらずとも体を動かすことができるように、体はその力の使い方を知っていた。 少し躊躇って、モリーが持ってきてくれたマグカップに手をかざした。 ダンブルドアを窺うように見ると、彼は小さく頷いた。 は乾いた唇を少し湿らせた。 「“変化”。清き白雲、晴天の蒼へ。」 それは、母国の言葉。 「発動」 マグカップを一瞬、魔方陣のようなものが取り囲んで、やがてその色を白から青へと変えた。 青いマグカップのできあがり。簡単なものだ。 中のココアが、たぷんと揺れた。 この程度の魔法も、昔はひどく難しかったはずなのに、今は簡単にできる。奇妙な感じではあるが、不思議ではなかった。 「対価として選ばれたのは、“あるべき時間”と、“強大にして不安定な魔力”だそうです」 黒猫が、主の指先を舐めた。 慰めるような金の眼差しに、少し頷いてみせる。とにかく、彼女が無事で良かった。 一緒に崖を落ちたときは彼女まで道連れにするのかと、自分の非力を嘆いたけれど。 「どうしてですか?」 長い沈黙に耐えかねたように、は俯いたまま尋ねた。 「わたしは石を持っていなかったのに、どうして…」 なぜこんなことが起きてしまったんだろう。 疲労のせいだろうか、それとも別のもののせいだろうか、頭がずきんずきんと痛んだ。 ダンブルドアが少し迷うように小さく唸ったあと、を撫でているを見遣った。 「ここからはわしの推測でしかないんじゃが、言っても構わないかね? 辛い話になるかもしれん」 「……ええ、かまいません」 もう何を知るのも怖くないと思った。 ダンブルドアは頷いて、静かに語りだした。 「君の魔力は人に比べて弱かった、…いや、弱いと思われておった。だが先程の話だとそれは間違いだったようじゃ。君の魔力はもしかしたら、…“強すぎた”のかもしれん」 「……」 「そして君はもう一つ、力を持っておった。リチャード譲りの“巫力”じゃ」 父の命を縮めた力。 それがわたしの中にも…? 「それはきっと魔力と同じだけの強さを持って、君の中にあったのじゃろう。その2つが常にぶつかり合い相殺していたから、君が引き出せる量は少なく、不安定じゃった。そう考えると、辻褄が合いはせんか?」 「……」 は答えることができなかった。 何を言えばいいのか、自分が何を感じているのかも、よく分からなかった。相槌を打つこともなく、ただぼうっと老人の説明を聞いていた。 「石のことじゃが……昔、と言っても13年前じゃが、リチャードが君の出産のときのことを話してくれた。その話では、リチャードは“お守り”を持っている手で、君の母上の手を握っておったそうじゃよ。そして、彼はその“不思議な場所”へ行き、帰ってきた。実際は、彼女の手を握ったまま数秒意識を失っていただけじゃったらしい。じゃが、握っていたはずのお守りからは、金具や鎖を残して紅い石だけがなくなっておったそうじゃ」 不思議に思わんかね、と彼は頭を振った。 「過去、君たちの先祖は何度かそれを使ったはずじゃ。その石は、代々君たちに受け継がれてきた。それこそ、何百年もの間じゃ。それがたった一つの願いで、突然なくなってしまうなんて…」 「…じゃあ」 は半ば呆然とした声で、独り言のように言った。 「石は、“あれ”は、この20年間……まさか」 「そう。…もしかしたら」 君の中で生きておったのかもしれん。 「わたしは、どうすればいいんですか」 長い沈黙の後、はぼんやりと呟いた。 ダンブルドアは悲痛な顔を背けた。 彼のその表情も、今のの目には映らなかった。 「戦う力を得ても、わたしは何も守れなかった。あの燃えていた家の中で、クレアさんはお祖父ちゃんに殺されて。わたしのいない12年という歳月の間に、リリーとジェームズ、ピーターまでも死んでしまって。あんなに幸せそうだったハリーは孤児になってしまって、お祖父ちゃんを倒したのはハリーで……リリーとジェームズを裏切って、ピーターを殺したのはシリウス? たった一人残されたリーマスは行方不明?」 ああ。 どうして誰もいないんだろう。 「わたしは…わたしは…」 力を得て、何になったというのだろう。 本当にこの力を使わねばならないとき、そこにいなかったのに。 守りたかった人たちはいなくなってしまったのに。今更。今更何をしろと言うのだろう。何ができると。 「みんなの気持ちを、裏切って……わたしは………lッ…!」 わたしは、大切なものを、何もかもを、結局は裏切って、失ってしまった。 ダンブルドアが何か言ったが、には聞こえなかった。 彼はしばらくそこに佇んでいたが、やがて部屋を出て行った。 「」 が主の名を呼んだが、やはり反応はなかった。 は、抱えた膝を痛いほど強く抱きしめて、ぽつんと突然頭に浮かんだ名前を、小さな声で縋るように口にした。 その名の響きは戻れない過去をぼんやりと浮かび上がらせただけで、逆に虚しさと息苦しさに胸が詰まった。 悲しいのか悔しいのか辛いのかよく分からない自分の胸のうち。ただ締め付けるような痛みが罪深さを責めるばかりで、涙は溢れてこなかった。 ぎゅっと閉じた瞼の裏には、どんよりと嫌な色をした孤独が広がっていた。 ――セブルス きみは何と言ってわたしを責めるだろう。 なぜ、帰って来たのだと、罵るのだろうか。 2005/04/08 |