「どう…して……」 家を飲み込んで燃やし尽くそうとする炎に、は目を見開いて呆然と呟いた。 同じように放心していたが先に我に返り、素早く肩から降りて毛をぶるりと逆立てた。見る見るうちにしなやかな四肢が大きくなり、小さな黒猫は大きな黒豹になった。容はよく似ているが、実際の豹よりもずっと大きい。一度だけ見たことのある、の本性だった。 が駆け出そうとした途端、空に何かが打ち上げられる。 ハッとして見上げれば、打ち上げられたそれは花火のように弾け、緑色の閃光が大きなマークを描き出した。 ああ、と絶望の声が漏れる。 「はここに隠れて待ってて!」 はそう叫ぶと、飛ぶような速さでクレアの元へと走り出した。 そう。あそこには。 クレアがいるのだ。優しい貴婦人マダム・クレアが。のシチューを楽しみに待っていたはずのクレア・ワイアットが。 は力の抜けた手から、ビニール袋がどさりと落ちた音を聞いた。 にんじんやじゃがいもが、ころころと転がった。 「……クレアさん」 大丈夫。きっとが助けてくれる。 そう希望を持ちかけたとき、がさりと草木を踏む音がしては振り返った。 被った仮面の隙間からのぞく目に狂気を宿した男が、杖を振りかざして笑っていた。 「アブダ ゲダブラ!」 叫ぶように唱えられた呪文と共に振り下ろされた杖の切っ先は、真っ直ぐにを指しその魔法は彼女の胸に吸い込まれる。 はずだった。 頭上にあった木の枝に杖が掠り、軌道が外れてしまわなければ、間違いなくそうなっていただろう。 の左耳近くを、閃光が走り抜けた。 と同時に我に返ったは、金縛りに合ったように地面に張り付いていた足が自由になったことに気付いた。 しまったと苛立たしげに枝を振り払った青年を目の端で捕らえながら、は森の奥へと走った。 殺される! その思いだけが頭を満たしていた。 走る。走る。走る。 息が切れる。それさえも分からない。背後に迫る気配。 走る走る走る走る走る。ときどき方向を変えながら、無茶苦茶に走る。 わき腹が刺すように痛む。胸が苦しい。森が延々とつづく。 (死にたくない) 何度も転びかける。 もう走れない、と思ったとき初めて振り返った。気配はするものの姿は見えない。 咄嗟に近くの茂みに身を潜めた。 (わたしはもう一度、もう一度あいつに会わなきゃいけないんだ。会って、ちゃんと伝えなきゃいけないことがあるんだ) 体を縮めて、身動きをやめる。 自分の息遣いを必死で押し殺す。喉が嫌な音を立てた。心臓の音が煩い。 走る足音が迫る。見失ったことに気付いて、走りが歩きに変わる。相手の激しい息遣いが聞こえる。うろうろと歩き回る気配が伝わる。 「どこだッ!」 舌打ち。しげみのすぐ傍を通る。 全身が硬直したように動かない。心臓の音が煩い。 怖い。怖い。怖い。怖い。こわいよ。助けて。だれか助けて。 セブルス。 目を閉じて浮かんだ名前に、どきりとした。 (もしかしたらセブルスが来た可能性だってあったんだ) 彼は死喰い人で自分は騎士団の団員なのだから、いつ殺されても不思議でない立場にあったのだ。 分かっていたはずのことなのに、直面すると恐ろしくなる。 今回は違う男が来ただけで、彼が自分を追いかけてくることだってあったのだ。 それなのに、なぜ逃げているんだろう。 なぜ隠れているんだろう。 そんな弱い女を、わたしは・と呼んだだろうか。彼は自分をこんな弱い女だと思っていただろうか。 誰かを傷つける覚悟。誰かを殺す覚悟。 それは同時に誰かに殺される覚悟に繋がる。 そう教えてくれたのはお父さんだった。 そしてその覚悟があるかと尋ねられたのは、つい最近のことだった。 そのときわたしは、何と答えた? (ねえお父さん、わたしはこんな女でしたか?) 息が整ってくる。 思考が鮮明になる。 こうやって自分という人間をちゃんと正気に戻してくれるのは、いつだってセブルス・スネイプなのだと気付いた。 やっぱりそういうところが、まだ自分はあいつを忘れていないらしいと思った。 (わたしは) 音を立てないように、慎重に杖を探り当てる。 茂みの隙間から見える足が、自分の前方にあるのを確認した。足が一歩向こうへ足を踏み出したのを合図にして、立ち上がる。 ハッとして振り返った死喰い人に、迷わず杖を振り下ろした。 (・だ――!) 「エクスペリアームズ! 武器よされ!」 声は震えなかった。 杖の先から飛び出した赤い閃光は、真っ直ぐに死喰い人をとらえた。 (やった!) 息を呑んだは、杖が彼の手から飛び出すのを待った。 しかし、死喰い人は衝撃に杖を取り落とし、数歩よろめいただけだった。 あまりにも、魔力が弱すぎて攻撃にならなかった―――? なんて。 は絶望に声も出なかった。 なんて無力なんだ。 それでも、死を待っていることはできない。 死喰い人が呆然と突っ立っている隙をついて、はまた駆け出した。 は時間稼ぎを考える。 いずれ助けが来るかもしれない。か。騎士団の誰かが。その僅かな希望にかけて、今は時間稼ぎをするしか他なかった。 魔力が弱すぎ武装解除でさえまともにできない自分には、死の呪文さえ扱えないだろう。 背後で呪文が聞こえる。 反射的に頭を下げて方向を変えると、今まで自分の頭があった場所に閃光が駆け抜けるのが見えた。 太い木の幹に当たって、焦げる音と臭いがした。 「待て――っ!」 男の声がした。 初めて気付いたが、その声は声変わりしたばかりのような若さが宿っていた。 それで相手の経験不足に気付いた。だからこそこんな小者に逃げられるほど隙が多いのだろう。 それならばこちらにも分はあるかもしれない。隙をつけば、もしかしたら。 そんな希望が見えて、は力を振り絞って走り続けた。 波の音が聞こえる。 突然視界が開けて、目に飛び込んできたのは美しい星空と、三日月を海面に映す紺色の海だった。 慌てて立ち止まる。 「…う、そ…でしょ」 崖。 かみさま。あなたはそんなにわたしが嫌いですか。 足元でからからと小石が落ちていった。 ジャリ 背後からゆっくりとした敵の足音が聞こえた。 緩慢な動作で振り返ると、肩で息をする男――青年が呼吸の邪魔になったのか、取った仮面を無造作に投げ捨てていた。唇の端に泡をつけて、狂気じみた笑みを浮かべて立っている。 「これで、……終わりだ!」 杖が上がる。 もまた咄嗟に、本当に反射的に、敵わないと知りつつも杖を振り上げていた。 「アブダ ゲダブラ!!」 「エクスペリアームズ!!」 阿呆の一つ覚えのように再び飛び出した呪文に、我ながら呆れる。 しかしそれが相手に直撃し、杖が大きく弧を描いて投げ出されたのを見た。そしてその背後に、矢のように駆けてくる黒い獣の姿が見えた。 はそれを見ていたが、喜びを感じる暇はなかった。 の呪文は一瞬遅かった。 杖を奪われる一瞬前に放たれた青年の魔法は、の心臓を貫いていた。 時の流れが泥のようでぬるま湯のようなものに変わり、ぐんとスピードが落ちてスローモーションに流れた。 胸に殴られたような強い衝撃。 不思議と痛みはない。 体が宙に浮く。 鋭い爪で死喰い人に背後から襲い掛かったが見える。金色の鋭い目がサッとこちらを見る。そこには絶望が映っていた。 やがて視界に映るのは、満点の星空だけになった。 星を見て思うのは、父でも母でも神でもなく、やはりあの仏頂面。 服の端をの爪がとらえる。 しかしあまりに鋭すぎるそれに薄い布は簡単に引き裂かれる。 「ッ!!!」 獣が叫ぶ。 危ないよ。そう伝える暇さえも与えられず、は荒れる海へと落下していった。 ぼんやりとそれを感じる中で、はがバランスを崩して落ちてくるのを見た。 を助けなきゃ。 そう思うものの、空中で何ができるだろう。 父と母が命を懸けて与えてくれた、この命さえ守れなかったわたしが。 わたしはなんて無力なんだろう。 強い 力が欲しい 自分を守るために 大切なひとたちを守るために 戦 う 力 が 欲 し い 2005/01/10 うっわまた微妙なところで終わらせちゃったよどうしようぎゃー。 |