死喰い人の本拠地で、ルシウスとスネイプが並んで歩いていると、主の姿が見えた。 2人は動じることなく有能な部下らしくサッと道を開け、頭を垂れる。 「我が君、どちらへ」 ルシウスが顔を伏せまま尋ねた。 ヴォルデモードはそのプラチナブロンドをちらりと一瞥する。 「一人、始末したい者がいるのでな。片付けてくる」 氷のような声にはいつまでたっても慣れない。本当にあの女の血縁なのか。 そんなことをスネイプはちらりと考えたが、すぐに無心に戻った。 余計なことは考えなくていい。ただ命令されたことをこなせばよいのだ。ときには要求以上のことを。 「お一人で?」 「そうだ」 「誰か護衛をつけましょう」 「いらん。それともルシウス……お前には私が護衛などに守られねばならないように見えるのかね?」 「いえ、決してそういうわけでは」 出すぎたことを、とルシウスは苦い顔で謝罪を呟いた。 ヴォルデモードは「まあいい」と軽く鼻で笑う。 「そうだな……ではクラウチを連れて行こう。見張りぐらいには丁度良い」 「では、すぐに手配を」 ルシウスはサッと踵を返し、バーティ・クラウチを探しに行った。彼もまた今日はここに潜伏しているはずだ。 ヴォルデモードは面倒臭げに壁に寄りかかった。 目深に被ったフードが揺れる。 「セブルス、例の連中はどうした。先日から手こずっていたようだが」 「新参者ら数人に任務を経験させようとしたのが間違いでした。予定外に時間がかかりすぎましたので…」 スネイプが無感情に口を開いた。 「私が始末しました」 人を殺めることなど疾うの昔に日常と化してしまった。 今はもう何の感情も浮かばない。 「そうか。ならば良い」 ヴォルデモードは満足そうに唸った。 「お前やルシウスは優秀だ。時が来れば私の片腕と名乗れる存在になるだろう」 「ありがたきお言葉」 「精進するのだな」 という言葉に頷いた直後、ルシウスがバーティ・クラウチを連れて帰って来た。 クラウチは緊張に顔を引き攣らせながらも昏い目で2人の先輩を一瞥し、ヴォルデモードの後に続いた。 ザザアァ ザザァァ 波の音が聞こえる。近くに海があるらしい。 そんなことを張り詰めた意識の中敏感に感じ取りながら、クラウチは手を握っては開いた。 「我が君」 クラウチが緊張した声で主を呼んだ。 「あの家でございますか?」 聞かずにいられなかったのは、これから自分のすることを思ってだった。 手の中がじっとりと汗ばんでいる。 クラウチはまだ、人を殺めたことがなかった。 ヴォルデモードはくっくっと愉快そうに笑った。 「そうだ。あれがクレア・ワイアットの家だ」 「ワイアット……?」 「マダム・クレアと呼ばれている。私の古い友人だ。疾うの昔に絶縁したがな。…平凡な家に生まれたがホグワーツを首席で卒業。当時としては珍しい女性のエリートで、かつては魔法省大臣の第一候補だった。だが今は有り余るほどの財産を持て余す、ただの哀れな未亡人だ」 クラウチはヴォルデモードの微笑みを見上げていた。 ヴォルデモードは目を細めまっすぐに前を見る。 「それが最近、頻繁に騎士団と接触しているらしい。同窓のよしみだ。私が直々に手を下す」 そこでヴォルデモードは初めて、緊張と興奮の入り交ざった表情を、その冷たい真紅の目で見下ろした。 クラウチはぞくりと首の後ろが粟立ったが、それは畏怖と目を向けられたことへの喜びの表れだった。 その目が自分に心酔しきっているのを確認したヴォルデモードは、嘲りを巧みに隠して口を開いた。 「お前はここで待っていろ。…若い娘を引き取っているという話もある。見つけたら、お前が殺せ」 「っ……はい!」 「セブルス」 スネイプは聞きなれた冷たい声に振り向いた。 主。ヴォルデモードである。 「お帰りですか」 「ああ。それより」 ぐいと無造作に抱えていたものを、荷物でも預けるかのように乱暴に渡される。 人である。 渡された腕に、ぬるりとした感触があった。怪我をしているらしい。 顔を見れば、案の定バーティ・クラウチだ。 「お前に任せた」 「はっ」 立ち去っていく主に頭を下げ、スネイプはきびきびと彼を自室へと運んだ。 死喰い人とて怪我はする。その場合は多くの薬を所持したスネイプの部屋が、治療に利用されることが多々ある。 ヴォルデモードがスネイプに彼を任せたのもそういう意図だろう。 まず怪我人をベッドにうつ伏せに横たえ、薬品棚へと向かう。傷薬は先日大量につくったばかりだ。運がいい。 スネイプはクラウチの呻き声などには全く興味を示さず、淡々と作業を進める。 背中の傷がよく見えるよう、破けた服をびりびりと引き裂いた。 途端、眉が跳ね上がる。 魔法による傷でないことは、一目瞭然だった。 傷口は刃物によるものによく似ているが、かといってそうでないことは誰だって分かる。 右肩から左脇腹にかけて、3本の傷が平行に並んでいる。 獣の爪あとだ。 それも、かなり鋭い。 取りあえず治療をと、スネイプは魔法でクラウチをベッドに縛り付ける。 瓶の蓋を開け匙で薬を掬うと、たらたらと傷口にたらした。嫌な音を立てて白い蒸気のようなものが上がる。 「あああぁぁァァ!!!」 堪らず叫んだ青年にも、スネイプが怯んだ様子はない。 スネイプは痛みを訴え暴れるクラウチを相手に無表情なまま、何度もその作業を繰り返した。 強力な傷薬によって、傷はほぼ完全に回復したように見える。 しかしスネイプは真っ白な包帯を傷口に巻いた。傷が治ったのは表面だけの話である。 少なくとも一晩は痛みが引かないはずだ。痛みに暴れると傷口が開く可能性もある。 治療の途中で運のいいことにに気絶し、痛みを拒絶したクラウチを一瞥して、スネイプは疲れたようにベッドの隣の椅子に腰を下ろした。 すると、クラウチが目を開く。 叫びすぎで痛めた喉が、掠れた声を発する。 「ス…ネイプ…」 クラウチは、ひび割れた唇を歪めた。 それが微笑みだと気付くのに、スネイプは少し手間がいった。 「はじ、めて……ひとを…殺し、ました」 「…そうか」 スネイプは無感動に相槌を打った。 初めて人を殺したときのことを思い出した。 妻と子がいるのだと命乞いをしていた男が動かなくなったとき、人の命はなんとあっけないものだろうかと呆然としたのを覚えている。 血さえ出なかった。 「卿のご指示どおり、見張りをして、いて……女が、来ました。途中で、こちらに、気付いて、こう…げきされましたが、彼女は…よわ、くて。でも、すばしこくて」 「そうか」 「おいか、けて…追いつめた。アバダ ゲダブラのじゅ、もんが、女の左胸を、射抜いて。女は高い崖から…海へ、落ちました」 「よくやった」 それならば完全に死んだだろうと頷く。 死体が確認できなかったのは頂けないが、初仕事だ。仕方がないだろう。 「その傷は?」 獣によるものだが、相手が何か危険動物でもけしかけてきたのだろうか。 スネイプの質問に、クラウチは少し表情を曇らせる。 「女に、呪文を放ったちょく、ご、後ろからやられて。…くろい…豹のような、おおきな獣だった」 びくん 大きく震えたスネイプの異変に、衰弱した若い青年は気付かなかった。 「女が落ちていくのを、助けようと、して、服を掴まえた、ようだったけど、布の裂ける、おとがして、いっしょに落ちて、いった」 スネイプは浮かんだ考えを、必死で否定しようとしていた。 違う。 そんなわけがない。 人違いだ。 あいつであるはずがない。 クラウチは衰弱でぼやけた目を細めて、蒼ざめたスネイプに笑いかけた。 「おかしいと思うかも、しれませんけど、僕、そのけ…ものが、しゃべったの…聞いたんです。そいつおちるときに、叫んで、た」 耳を塞ぐ暇さえ与えずに、クラウチは言った。 「、って」 激しい雨の中、黒衣が濡れるのにも構わず男は歩き続けた。 記憶にある坂を、ゆっくりと上っていく。 何度もここを2人で通った。買出しを頼まれて、彼女の隣を歩くのが日課だった。護衛なんて体の良いことを言われては、結局はただの荷物持ちで。 青く葉の茂る坂になった並木道がつづく。 坂を上りきれば、そこには数年前の夏、4人と1匹で穏やかに暮らしたあの家が待っている。 …はずだった。 嘘だ。 これは夢だと、誰か言ってくれ。 激しい雨の中、男は黒衣を濡らして立ち尽くしていた。 そこにあったのは、雨に打たれて冷えた真新しい焼け跡だった。 黒い炭と化した柱がごろごろと転がり、焼けた色々なものが灰になりすべてを覆っていた。2人で陽を浴びた縁側は見る影もなく崩れ、玄関の石の塀と表札だけが煤で黒く汚れながらもここが日本の家であることを主張している。 雨は顔を伝い落ちていくが、涙は流れなかった。どうしてもこれを現実だと認められなかった。 桜を見せてくれると、言ったじゃないか。 何かを贈り合おうと言ったのはお前じゃないか。 必ず迎えに来ると、約束させたのはお前じゃないか。 死ぬなと言ったお前が。どうして。 なぜお前はここにいない? 「必ず来ると思っておったよ、セブルス」 最も偉大とされる魔法使いが大きく風変わりな傘を差して、廃墟に腰を下ろしていた。 一体何時間そこに座っていたのだろうか。横顔がひどく疲れて見えた。 「確かめに来たのじゃろう?」 何といえばいいのか、分からなかった。 思考は、考えることを拒否していた。 「残念じゃが、昨夜殺害されたマダム・クレアの家に、が居候しておったのは事実じゃ。そして、が飼い猫のもろとも海面まで30メートルもある崖から転落し、荒れた海に投げ出されたのも事実。それから丸一日が過ぎたが、連絡はない。わしらも全力で探しておるがまだ見つかっておらぬよ」 激しい雨の音にも、不思議と彼の声はかき消されず届いた。 聞きたくなくとも、その言葉は耳に入ってしまう。それが苦痛だった。しかし、ここから逃げ出すこともできはしなかった。 「わしらはが日本とイギリスを行き来しやすいよう、2つの家をリンクさせておった。じゃからかのう。クレアの家がヴォルデモードによって焼き尽くされるのと同時に、こちらの家も炎上したらしい。それでこの有様じゃ」 老人は緩慢な動きで立ち上がった。 ゆっくりとした足取りで、立ち尽くす彼に近づく。 「ミセス・ポッターの退院祝いに、ポッター家を訪ねた帰りだったそうじゃ。…知っておったかね? 先日、ジェームズとリリーの間に子供が生まれたのじゃよ。余程嬉しかったんじゃろうのう……可哀相に。途中で夕飯の食材を買って来たようで、シチューの具材が道に転がっておった」 ――このシチュー美味しいでしょ。わたしの得意料理なんだ! おかわりしたけりゃわたしを褒めろ。 ――褒めろぉ〜崇めろぉ〜。食わせんぞおー? んー? いーのかなあー? いらないのかなあー? んん? ――ねえ。もしかして、セブルスにんじん嫌いなの? うっわ、見た目によらずガキだねえ。 ――わーセブルスが怒ったぁ。きゃああ。助けてお父さぁん。 突然耳に蘇った声に息苦しくなって、呻きのような溜息のような声が唇から漏れた。 「先日降った雨のせいで道がぬかるんでおったから、2人分の足跡がはっきり残っておった。大きな獣の足跡もあった。それを辿って行った先は海に面した高い崖じゃった。男の足跡は姿くらましをしたようにそこで途絶え、のものらしき足跡は崖の端で終わっておった。わしらは必死になって近くを捜索した。すると、崖の途中に服の切れ端が引っかかっておった。…間違いなくのものじゃ」 怖かっただろうか。痛かっただろうか。辛かっただろうか。悔しかっただろうか。 考えると、自然と拳に力が入る。ぎりぎりと握り締めた拳から、爪が喰い込んだのだろう、雨と一緒に血が滴った。 「彼女はリチャードが死んですぐ、騎士団に入団したんじゃよ」 その言葉に、男は初めて焦点を老人に合わせた。 老人は悲しみに満ちた目をこちらに向け、それでも微笑んでいた。 「大切な人を傷つけるかもしれない。何よりも傷つけたくない人を傷つけるかもしれない。人を傷つける覚悟はどうしても持てない。それでも、やらなければならないのだと言って、騎士団に入団したばかりじゃった。たとえ大切な人を傷つけても、父親のように強く生きる覚悟を決めたと言っておったそうじゃよ」 長い沈黙が続いて、ぼんやりとしていた男は空を見上げて雨を受けた。 「そんなことを……あの馬鹿は考えていたんですか…」 お前はお前なりに戦っていたのだなと思うと、突然、霧が晴れていくように意識が鮮明になってくる。 闇に慣れすぎた目が、今まで色々なものを見えなくさせていたことに気付いた。汚れ淀んだ何かが思考を鈍らせていたことに気付いた。血に塗れた憎悪と侮蔑が、かさぶたのように人らしい感情を覆い蓋をしていたことに気付いた。 そんなものは違う。自分ではない。 そんなものをセブルス・スネイプと呼んだ覚えはない。 昏い虚無のような目に、再び光が宿ったのを見た老人は、静かに言葉を待っていた。 「言い訳をするわけじゃありませんが」 声が掠れぬように喉に多少無理を強いてはいるが、老人にはかつてと変わらないしっかりとした口調に聞こえた。 彼は目を開けて、燃え尽きた家の前で真っ直ぐに『』の表札を見る。 「私はどうしても、大切なものすべてを守りたかった。大切なものを守るために戦っていたかった。自分にとって大切なものを守れるのなら、そうでないものを傷つける覚悟だけはあるつもりでした」 「考え方は、人それぞれじゃからのう」 老人の相槌が聞こえているのかいないのか、男は話し続ける。 「しかし、大切なものを守るために闇に加わったはずが、私は結局何も守れなかった。ルシウスを傍で守るはずだったのに、今はそれどころか、逆により深い地獄へと突き落とす存在になってしまった。クィリナスもただ遠い場所に遠ざけただけで、本当は誰より傷ついていることを知っていても私は何もしてやれない。世話になったリチャードをあいつと共に看取ってやることさえもできなかった。そしては、このとおり」 何度か目を瞬いて、ゆるりと頭を振った。 「闇側では結局、私は何も守れませんでした。それどころか私は私でさえなくなりかけていた。誰かを守るなど…今は愚かな自惚れだったとしか思えない。選択を後悔しているわけではないが、自分も守りきれない人間が、誰かを守ることができるはずがない。…そのことに、もっと早く気付くべきだった」 もしも、闇の時代を終わらせることが、友人たちを救い、先立ったエリアスたちを安心させることに繋がったのだとしたら。 今更かもしれない。遅すぎるだろう。それでも。 「できるなら、チャンスをくれませんか。私が私であるために」 真っ直ぐに見つめられた老人は、珍しく瞳を揺らして何か躊躇いを見せた。 その沈痛な表情に、男は次の言葉と本当の彼の用件を知った。 「セブルス……一人の教師としてあるまじきことかもしれん。しかしわしは、君にどうしても頼みたいことがあるんじゃ」 その言葉のつづきを聞く前に、“セブルス・スネイプ”は頷いて言った。 「その依頼お受けします、ダンブルドア校長」 それが、やらねばらならないことだと言うのなら、やり遂げてみせよう。 ・が遂げられなかった覚悟を自分が引き継いでやり遂げる。 せめてもの供養だとか罪滅ぼしだとか、そんな下らないことを考えているわけじゃない。ただ自分にも、大切なものより優先しなければならないものがあったことに、今更だと言われても仕方がないくらいの時間をかけてやっと気付いた。 だからこれは、苦し紛れのあてつけだ。にできなかったことをやり遂げて笑ってやる。それが本当のセブルス・スネイプだろう? 誰のためでもない、自分ただひとりのために。 この闇の時代を終結させる。 もう二度と、自分を見失ってしまわないために。 お前が最後まで覚えていたはずのセブルス・スネイプでありつづけるために。 雨が降っている。 偉大な魔法使いと呼ばれる老人が姿を消したそこに、随分長い間佇んでいた。 かさぶたの取れたそこから熱い感情が込み上げてくる。 一度、前にもこんなことがあったな、と目を閉じる。すると、考えるのも面倒で意識の外においやっていた思い出たちが、驚くほどの勢いで次々と胸のうちの、セブルス・スネイプであるためには絶対必要な場所に戻ってくる。これほどに自分という人間は闇の奥底に沈んでいたのかと、麻痺した思考が次々と蘇ってくるのを感じながら呆れる。 そうだ。思い出した。 一度、自ら封じてしまった感情をもう一度取り戻したのは、医務室だった。 衝動的に奪った、一瞬の甘い温もり。 思い出した途端、思わず笑いが込み上げてきて驚く。 結局、いつも自分はあいつに救われているのかと思うと、自嘲とも呆れともつかないものが動く。 笑ったのは一体いつぶりだろう。 こんなとき、本当は泣かなければならないのだろうに。 そう思いつつも、セブルス・スネイプは雨が止む前にそこから姿を消した。 何より大切な者を失った悲しみだけは拭いきれなくても、それ以上に大切なものを得たと思った。 胸に空いてしまった大きな穴は、きっと時間が埋めてくれるだろう。だから、それまでは、必死で足掻いていこう。 2004/01/03 死喰い人時代、完結です。 お付き合いくださりありがとうございました。 |