どうしても実感が湧かずに、ただ茫然と突っ立っていた。 涙さえ出て来ない。いや。涙などとうの昔に捨て去った。 それならば泣けないのも当然のことか、と胸のうちで自嘲する。 しかし悲しみさえ湧いてこないのはどうしたことだろう。 目を閉じているうちに、感情という感情を誰かに持ちさらわれたかのような感覚。ただ自分がまだ生きているということが、皮肉に思えた。皮肉や自嘲は、どの感情に分類されるのだろう。その感情だけが胸のどこかに取り残されたのだろうか。 まったく不必要なものだけが。 ……他愛ない。 一体なぜこんなどうでもいいことを夢想しているのだろう。 目的はこんなことでは………いや、目的など最初からなかったではないか。 ただ今日、この小さな星のどこかで、一人の男が死んだというだけだ。 たったひと夏、時間を共にしただけで、別にどうということではない。己が奪った命の数に比べれば、それこそなんてことはない数だ。 たった1つ。 たった1つの命が今日、失われたのだ。 もう永遠に戻ることはない。 あいつは今頃、泣いているんだろうか。 「そんなところで何をしているんだ、セブルス」 背後から聞きなれた声に呼ばれた。 振り返るまでもない。彼だ。 自分と同じ漆黒の衣装に身を包み、そこに立っている。黒は、冷たい色のブロンドによく映える。今までに何度も持った感想だった。 「何も」 答えたが、彼は訝しげな表情を消さない。 近寄ってきて、顔を覗き込まれた。 「何があった? 顔色が悪いぞ」 その言葉には、少なからず驚いた。 顔色が悪い? では自分はどこかで何かを感じているのだろうか。 …いや、そんなのはただの希望だ。 薄く笑う。 「顔色は生まれつきだ、ルシウス」 「それは失敬」 彼も薄く笑う。 空を見上げると、星が輝いていた。 きれいだと思う。が、死んでも口には出さない。 闇の中、瞬く星。あれをひとは希望だという。誰がそんなことを決めたのか。希望が空にあってたまるか。 無数に散らばる星屑。あれをひとは死者の魂という。馬鹿馬鹿しい。あれははるか遠くにある馬鹿でかいだけの物質だ。 だから、星を見るのが嫌いじゃないのは、別の理由がある。 彼女のことを思い出すのだ。 ・。 名前を胸の中で、何度も何度も呟く。忘れてしまわぬように。風化してしまわぬように。 遠い東の国で過ごした夏。彼女を背負って歩いた夜も星がきれいだった。星の位置だって星座だって違ったけれど、星はやはり星だった。そうだ。あのときは、目を瞠るようなミルキーウェイが輝いていた。 ホグワーツで過ごした最後のクリスマス休暇。イブの夜に通り過ぎた真っ白な庭で、2人揃って見上げた空も星がきれいだった。 しかしその思い出も、長い時間と殺伐とした日々の忙しさ、周囲を取り囲む血と己の内に棲む闇、人々から投げられる果てのない怨嗟や憎悪に埋もれて、色褪せ風化しようとしている。思い出そうとすればするほど、都合の良いように美化し捏造した偽物にしか思えなくなってきた。 近頃は、そのことに諦めさえ抱いている。 大丈夫だ。忘れてしまっても、きっと大丈夫だ。そう言い聞かすことで、罪悪感を振り払う。彼女への罪悪感ではない。ほんの数年前、彼女を前にして生き抜く決意をした、若さゆえの情熱というものを存外に持ち合わせていたらしい自分に対しての、罪悪感だ。 大丈夫だ。自分の代わりに、彼女が覚えてくれている。言い聞かせるのはそればかり。しかし、彼女にも同じことが言えるのではないのか。自分の上を流れた時間が、等しく彼女の上にも流れている。 彼女の中でも思い出が薄れて消えてしまったとして、それを誰が責められるだろう? そう思い当たれば、絶対に揺るがないと信じていた決意が、思っていたよりもずっと脆いものだったことに気付く。 無気力になった自分の内面を覗いて、どっと脱力感を覚えた。 「今日」 その声が、自分の唇から漏れたのだと気付いて、驚いた。 しかし、ここで話をやめるわけにはいかない。仕方がないので、話す予定のなかったことを言葉にした。 「知り合いが、死んだ」 彼は黙っていた。 そう、知り合いだ。友人ではなかった。その娘が……友人、だっただけだ。友人の父の死を、なぜ自分が悲しまねばならないのか。関係のないことだ。所詮、他人の話だ。 そんなこと分かりきったことなのに、なぜ。なぜ自分はこんなところで1人きり、星を見上げようなどと考えたのだろう。 己の行動が理解の範疇になくて、それが可笑しかった。 「悲しいのか」 「…いや」 彼の言葉に、首を振った。 彼は星空から地上に目を戻して、こちらを見た。探るような目だった。 それから納得したような顔をして、 「そうか」 とだけ言った。 ああ、と頷いておいた。 「帰るぞ」 踵を返した彼は、どんどんと先を行く。 もう一度だけ星空を見上げて、目を閉じ、死んだ男の名を誰にも聞こえぬよう呟いた。 冥福を祈る。 死のその先で、それこそ死ぬほど会いたがっていた妻と再会できたなら、彼は幸せだろう。 残された娘がどれだけ悲しかろうとも。 瞼を開けて、昏い目を先を歩く友人へと向けた。 現実へ戻ろう。 足を踏み出して、歩き始めた。 唐突に深紅の色が頭を過ぎったが、彼の瞳が本当にそんな色をしていたのかも忘れてしまった。 どうでもいいことだった。 彼女の瞳の色さえも、曖昧にしか思い出せないのだから。 そういえば今日は自分の誕生日でもあるのだと勝手に決め付けられていたことを思い出したが、やはりどうでもいいことと切り捨てた。 本当の自分の誕生日が真冬であることも思い出した。捏造された誕生日よりも、更に下らないことだと思った。 もう、何もかもどうだっていい。 星がきれいだ。 でも、あの中にお父さんがいるとは思えない。 お父さんはきっと、お母さんといちゃいちゃしているんだろうから、あんな風にひとところに留まっているはずがないのだ。 だからやっぱりたぶん、あれはただの星なのだろう。 じゃあ、お父さんとお母さんはどこにいるんだろう。 昔お父さんにそれを聞いたら、「う〜ん」と真面目な顔をして唸った後、「いつかお母さんに聞いてみよう」と言って笑った。 お父さんは死ぬことを少しも恐れていなかった。お父さんは、お母さんの傍に行けることが、嬉しくて嬉しくて仕方がなかったのだ。 ただ、わたしという娘や、親友や、仲間たちを残し、悲しみを味あわせることだけは辛いと思っていたようだけれど。 「」 低くて、優しい声。 錯覚というのは恐ろしいもので、わたしにはそれが一瞬、彼の声に聞こえてしまった。 振り返って、黒ずくめの男を視界に入れて、初めて自分の愚かしさに気付いた。なんとなく、気まずい気持ちになる。最近、ときどき教授の中にあいつを見てしまう。言い訳をするわけじゃないが、よく似ていると思う。 その教授は、夜だというのにサングラスをしたまま、腕を組んでテラスの壁に寄りかかっていた。もしかしたら、サングラスの向こうの目は、涙で腫れているのかもしれない。そう思うと、父親が死んだのになぜだか泣くこともできない自分が、少し恥ずかしい気がした。 「なんでしょう」 普段と変わらない声が出せたことを、我ながら驚いた。 ダンブルドアとムーディさんも、家の中から出てきてベイルダム教授と横に並んだ。ダンブルドアの目はやっぱり優しくて、ムーディさんの目はやっぱり鋭かった。 「こんなときにすまんのう。しかし、一応聞いておこうかとな…」 ダンブルドアの声は、心なしか疲れたように聞こえた。 後を継ぐように、ムーディが口を開く。 「騎士団に入るのか、入らぬのか。味方は多い方が良いが、我々は強制するつもりはない」 たとえば、もし騎士団が帝王を倒すことに成功すれば、わたしは肉親殺しの名を持つことになるだろう。だからこそ、お父さんは騎士団への入団を躊躇っていたのだ。しかし、お父さんが恐れていたのは、自分が父親殺しの汚名を着ることになることではなく、わたしが父親を殺した男の娘になることを恐れていたのだということは知っている。そして、自分の死後、わたしの入団が周囲にとって当然のことになってしまうのを恐れていた。 お父さんのその思いを知っているからこそ、彼らは確認に来てくれたのだろう。 自分の父親はそれほど大切に思われていたのだ。そう思うと、胸が熱くなる。 「入団、させてください」 自然に、頭が下がった。 感謝の気持ちと、そしてこれからへの願いがさせた行動だった。 「わたしの魔力が、スクイブと判断されても不思議じゃないほど弱いことは知っています。何の力にもなれないかもしれません。でも、わたしは、祖父とは違う道を歩むと決めたのだから、誰のためでもなく自分のために、入団しなければならないと思うんです。闇にも走らず入団もしない。そんな中途半端な選択が最善だとはどうしても思えないから」 顔を上げて、ダンブルドアの目を見た。 心臓がどきどきする。でも、怖くはない。ずっと前から決めていたことだ。迷いはない。躊躇いもない。 「」 よく通る声は、じっと考えるように黙っていたベイルダム教授だった。 「お前に、人を傷つける覚悟はあるか?」 ぎくりとした。 覚悟はあるのかと、まるであいつに問われているような気がした。 「誰かを守るということは、誰かと戦うということだ。誰かと戦うということは、誰かを傷つけるということだ」 「……」 「相手は見えない敵ではなく、敵は“闇”などという抽象的な存在でもない。紛れもなく人間だ。そして、どんな人間にも家族はいる。誰かの父かもしれず、誰かの兄弟かもしれず、誰かの夫かもしれず、誰かの恋人かもしれない人間。誰かの母かもしれず、妻かもしれず、姉妹かもしれない。それをお前は、傷つけることができるか? 場合によっては、殺さなければならないこともある。その覚悟がお前にあるか?」 止めていた息を少しだけ吐いて、息を吸い込んだ。 それはたった一拍の間だったが、心を落ち着かすには十分だった。 「分かりません」 正直に答えた。 「誰かを傷つけるのは、やっぱりとても怖いです。傷つけたくなんかありません」 伏せていた瞳を上げた。 逸らさないようにと意識したせいで、睨むような形になったかもしれない。 しかし、そんなことに構っている余裕はなかった。 声が震えないようにするのが、精一杯だった。 「でも、それでも、大切なひとや大切な場所を守りたいと思うんです。それを守るためなら、その怖さもなんとかできると思える。乗り越える覚悟や克服する覚悟はなくても、その恐怖に耐える覚悟だけはあります。それでは、足りませんか?」 足らないと言われたら、どうしようもない。 けれどこれが、・の精一杯だ。それで届かない場所なら、きっと一生届かないままだ。 3人の男は、ぴくりとも動かなかった。 風が吹いた。ダンブルドアの髭が、ゆるりとたなびいた。見えた唇が、少し微笑んで見えたのは気のせいだろうか。 「1週間だ」 沈黙を破って口を開いたのは、ムーディさんだった。 真っ直ぐにわたしを見つけ返していた目が、一瞬ふと細まったように見えたが、すぐにいつもの隙のない表情に戻った。 「1週間は喪に服していろ。入団はそれからだ」 それは、つまり。 「――はいっ!」 先ほどよりも勢いよく、そしてやはり心から頭を下げた。 「ありがとうございます! よろしくおねがいします!」 感謝の気持ちと、これからへの願いを、いっぱいに込めて。 深く深く頭を下げて、頭を上げると、もうムーディさんの姿はなかった。 やっぱり微笑んでいるダンブルドアが、先ほどまでの疲れはどこへやらばちんとウィンクして、家の中に入っていった。 ベイルダム教授は普段どおりの無表情に見えたが、踵を返す一瞬前、堪えきれないようににやりとしたのが見えた。 再び、ひとりきりになったわたしは、無意識に腕のミサンガを手首ごと握っていたことに気付いた。 何年も肌身離さずつけていたせいで、随分と色褪せたそれ。 結局、まだ切れてはいない。 自然に切れる日は来るのだろうか。 「よかったわね」 いつきたのだろう。 クレアさんが厚めのショールを手に立っていた。答える前に、クレアさんはショールを肩にかけてくれた。その上に、が飛び乗る。 ショールの礼を言うと、クレアさんはにっこりと笑ってくれた。 彼女の目は、泣いたせいで少し腫れていた。 その視線に気付いたのか、クレアさんはそっと目元に手を当てて、恥ずかしそうに笑った。 「ごめんなさいね。あなたが泣いていないのに」 「いえ、……ありがとうございます。お父さんも喜んでると思うし」 それに、と続ける。 「泣いてないのは、別に我慢してるわけじゃなくて、ただどうしてだか泣けないんです」 ちょっと、笑ってみた。 クレアさんがどんな顔をしているのか見ないほうが良い気がして、代わりに夜空を見上げた。 相変わらず星が瞬いている。 あいつと最後に言葉を交わしたクリスマス。あの日に見た星は力強く見えた。今はどうだろう。…分からない。 泣けない。悲しくはあるが、絶望するほどでもない。 わたしのせいで死んだのに なんて親不孝な娘なんだろう。何が親不孝で何が親孝行なのか、その基準は分からないけど、大きな罪悪感がわたしの胸には棲んでいる。 16歳の誕生日の夜にあいつが言ったとおり、精一杯生きて馬鹿みたいに幸せになることを贖罪だと信じて、これから頑張っていくつもりではある。 でも。それでもわたしは、申し訳なくて顔を上げられない。わたしの延命さえ望まなければ、まだまだ続いていたはずの父の人生。あんなにも多くの人に慕われていた人が、逝かなければならなかった事実。それなのになんてことだろう。一番悲しまなければならないわたしが、泣くことさえできない。 「こんなわたしにも昔、好きなひとがいたわ。こんな年になった今でも大好きよ」 突然に、クレアさんが言った。 思わずその顔を見たが、彼女は悲しんでも怒ってもいなかった。 肩でが身動きした。彼女の目も、やはり穏やかで優しかった。 「…死んだ、旦那さん?」 問うと、クレアさんは頷いた。 「そう。わたしもね、彼が死んだのが悲しかった。後を追おうかと思うほどに悲しかった」 でも、それは逃げよね、と彼女は笑った。 「わたしはそれほど弱くはできていなかった。彼が死んで間もないのに、当然のようにお腹は空いたし喉は渇いた。それに気付いたとき自分に愕然としたわ。気が付いたら、食事をとろうとか、あとでお風呂にも入らなきゃなんて考えてた。それから、家計のこと、財産のこと、住む家のこと、いろんなことを計算した。彼への愛は何より確かで何より大きなものであったはずなのに、わたしは彼がいなくても生きていくことができた。そんな自分が怖かった。本当は自分が悲しんでなどいなくて、声を上げて泣いたとき流した涙は、ただの保身だったんじゃないのかって恐ろしくなった。自分の薄情さに怯えたわ。生きる気力を無くして床に伏せることも、彼の後を追うことも、自分が罪悪感から逃れるためのものだとしか思えなかった。わたしは、生きるしかなかった」 逃げることはできなかった。 罪悪感からも、生きたいと叫ぶ正直な己からも。 「悲しみってたぶんそういうものよ。自分を壊してしまえるほどの悲しみなんて、たぶん誰かの死ぐらいでは得られない。悲しみに泣いて暮らすのは単なる甘え。それならわたしたちは、この罪悪感とどう向き合っていけばいいのかしらね?」 クレアさんの顔は穏やかだった。 わたしはそれを美しいと思った。見惚れていたのかもしれなかった。 「少なくとも今のわたしは、もう身悶えするようなあの罪悪感はないわ。やっぱりもう少し泣いてあげた方が良かったかしらとは思うけど、それはわたしが彼の元へ逝ってから、直接謝ろうと思うの。あの人はきっと笑って許してくれる。そういう人だもの」 ――自虐に走るのも良い加減にしろよ。お前の母親もリチャードも、お前にそんな罪の意識を背負ってもらうために、生きて欲しいと願ったわけではないだろう。 ――罪の意識なんぞ邪魔でしかない。そんなものは血反吐を吐くほど無理することになっても、できる限りさっさと捨ててしまえ。 懐かしい声が、言葉が蘇った。 幸せを贖罪と言い放った声が、嘲笑うように優しく響いた。 「罪悪感なんて捨ててしまえばいい。噛み砕いて、消化して、己の糧にすればいい。そうは思わない?」 クレアさんは優しい。 優しくて、繊細で、強くて、穏やかで…。 いつかはこんな人になりたいな。 「そう、ですね」 そっとを撫でながら、わたしはその言葉が胸に染みこむのを待って、ゆっくりと頷いた。 「いつか、泣きたくなったら、泣くことにします。それが一番正しい形だと思うから」 クレアさんは頷いてくれた。 がぺろりとわたしの頬を舐めた。 わたしはもう一度、ぎゅっと手首ごとミサンガを握り締めて、夜空を見上げた。 星は朝という忘却がやって来ることを知っていても、変わらずに瞬いていた。 その光はやっぱり力強く見えた。 2005/03/11 これを夢と呼んでくれるひとが一体どれだけおるんでしょぅかうふふ。 あとセブのルシウスへの態度というか口調が、変わってることに誰か気付いてくださいえへへ。 |