ジェームズ・ポッターは、ゆっくりと杖を下ろした。
 壁に寄りかかるようにして座り込んだ――正確には壁に叩きつけられたまま痛みのために動けない――男は、仮面の奥で訝しげに目を眇める。
 先ほどまで、ジェームズの杖の照準はぴたりと自分の脳天に定められていたのだが、しかしそれから彼は呪文を唱えなかった。
 両者とも、息が上がっている。
 ジェームズ・ポッターも、ぼろぼろだった。あちこちに痣をつくり、ローブは焦げたり破れたりしていた。息をするたびに、肩が上下している。
 仮面の男は、自分の右肩が使い物にならないことに気付いた。先ほどの衝撃で痛めたらしい。感覚からして、それほど大したものでもないだろうが、再び攻撃することはできそうになかった。いや、杖はもうないのだった、とぼんやりと考える。彼の杖は、ジェームズの足元に落ちていた。この体でその杖を取り返すのは、不可能に近かった。
 運が悪かった、と男は思う。
 いい勝負ではあった。死喰い人になって、これほど激しい戦闘――しかも一騎打ちは初めてだった。
 一瞬が生死を分けるという事実が、びしびしと体中を廻る感覚。己が呼吸をしているのかしていないのかも分からない。相手の呪文の詠唱。2人分の激しい足音。呪文なしで使う簡単な魔法を組み合わせた物理的な攻撃。隙を探す。考えるよりも先に動く。杖を振る。身を隠し、攻撃を避ける。紅い閃光がローブを掠める。焦げた臭い。子どもでも知っているような呪文。使える者の少ない高等呪文。浮遊魔法。特殊魔法。補助魔法。武装解除魔法。詠唱する声に、明らかな殺意が込められる。呪いが飛び交う。
 永遠のように思われた。
 しかし、男が半壊した椅子の破片に足をとられたとき、それは唐突に終わった。
 ジェームズの武装解除の魔法が直撃し、殺気のこもった強い魔力が男を吹き飛ばした。杖は男の手を離れ、大きな半円のような見事な放物線を描いて飛んで行った。それは、ぴたりと杖の先を男に向けたまま動かないジェームズの足元に落ちて、男を嘲笑うかのようにこ・アろと転がって止まった。やがて投げ出した足に、先ほどかすめた魔法の効き目が今頃になってやってきて、びんびんと痺れ始めた。
 杖の切っ先一点を見つめて、男は自分が不思議と落ち着いているのを自覚した。
 あれ以上の戦闘は、二度と経験できないだろうと思えた。
 その戦闘で死ぬのならそれでもいいと思った。

 しかし、ジェームズ・ポッターは何も唱えず、杖を下ろした。


「なぜ殺さない?」

 様々な呪文に声を張り上げたせいで、思いのほか喉を痛めたらしい。
 声が不自然に掠れた。

「リリーと結婚したんだ」

 それがどうした。
 という言葉を、男は飲み込んだ。相手の瞳に呑まれたのかもしれなかった。

「しかもハニーは今、妊娠してる。僕は父親になるんだ」

 惚気か。
 という言葉も飲み込んだ。昔の自分に戻ってしまいそうな気がした。相手の思う壺だとも思えた。

「子どもは男の子で。シリウスとが名前を考えてくれた」

 
 その名前に、心臓が不自然に跳ねたことは、否定しようのない事実だ。
 湿っぽい呼気が仮面の内側に当たり、頬を湿らすのが気持ち悪い。肌に張り付いた髪を掻き上げたい衝動を抑えて、痛みを訴える右肩を押さえた手に力を込めた。この異常な状況で、唯一その痛覚だけが信用できそうだった。

「愛する妻と小さな小さな息子が、僕の帰りを待っているんだ」

 そう言って、彼はにやりと笑った。
 あの日と同じ表情だった。煙草の煙が漂う、あのおぼろげな記憶と同じ。闇に堕ちた男には、忌々しいほどに眩しかった。

「だから僕は、お前なんかのために殺人を経験したくない。息子に胸を張れる父親でなきゃいけないからね」
「……相変わらずの偽善者ぶりだな」
「お前も相変わらずひねくれた性格だな」

 くるりと踵を返したジェームズの背中を、男は殺意を込めて睨みつけた。
 今ならどんな呪文も避けきれないだろう。そう思うのに、体は杖を取りに動こうとはしなかった。
 ドアノブの壊れた扉の前で立ち止まって、ジェームズはおもむろにポケットをまさぐった。取り出されたそれを、ジェームズは振り返りもせずにぽーんと後ろに放り投げた。
 杖の近くに落ちたそれは、薄い赤色の安物のライターだった。

「僕は妊婦と子どもの健康を考えて禁煙中だから、もうそれはいらない。やるよ」

 ギイイと扉が音を立てた。

「これで、マッチ1本の借りは返したからな」

 扉の向こうへ姿を消した男の、穏やかな足音はゆっくりと遠ざかり、やがて消えた。
 扉を睨みつけていた視線を鈍く光るそれに一瞬移したあと、男は無事な左手で乱暴に仮面をはずして、八つ当たり気味に壁に叩きつけた。
 よろりと頼りなく立ち上がり、痺れのある左足をひきずって歩く。
 杖を拾い上げて、杖利きでない左手で脱臼しているらしい右肩に当てた。
 呪文を唱えた途端、形容できない激痛が全身を駆け巡る。掠れた叫びを張り上げる。
 気が付いたときには、痛みに悶えて膝をつき、体を折り曲げるようにして床に額をつけていた。脂汗が頬を伝い、鼻の先から滴った。ぽたり、と床に染みを作る。先に足を治療しておけば良かった、と小さく後悔した。今の体力では、痺れを消す簡単な呪文でさえもまともに使えない可能性がある。
 ごろりと横に転がって、大の字になる。何もかもが億劫で仕方なかった。
 左ポケットから、中身が3・4本しか残っていないへしゃげた白い箱を取った。
 胸の上に置いて、1本を引っ張り出す。それを咥えて、一瞬だけ躊躇ったあと手を伸ばして、投げ捨てられたライターを握った。首だけを起こして、咥えた煙草に火をつける。まだ痛みのある右手でやるのには難しい作業だった。

 ゆらゆらと白く濁ったものが空を目指し、しかし天井にさえ行き着くことなく消えていく。
 確かな目的を持っているようには見えない。ただ、そうしなければならないという、義務感のようなものが煙を空へと向かわせているように見えた。
 愚かな行為だった。分かってはいるのに、それはどうやっても変えられるものではなく後悔さえしていない。こうなることは、初めから分かっていたことだ。ただ、漂う内に、思い出や記憶を薄れさせてしまっただけ。目的も誇りも、いつのまにか消えている。絶対と信じていた決意が、崩れかけつつもなんとか形らしきものを保っているだけだ。それさえも最初から覚悟していたはずだ。
 それなのになぜだろう。
 煙草のフィルター部分と一緒に噛み締めるのは、苦々しい敗北感。
 いつだってあの男には勝てないのだ。

「私の命は、マッチ1本程度か」

 吐き捨てた言葉も、痛めた喉では酷く弱々しい呟きにしかならなかった。
 ライターを持ったままの拳を握り締めた。きしきしと容器が小さく悲鳴を上げた。


「…馬鹿め。釣りがくる」


 あの日、1本と言わず箱ごと押し付けてやれば良かった。
 と、セブルス・スネイプは苦りきった顔を隠すように目元を片手で覆い、口元で小さく笑った。




















2005/02/18

 セブが出て来ない。なぜっ。どうしてっ。セブ夢じゃないのかコレは。
 ってことで書いてしまいました。
 出来心です。
 ここどこ? どういう状況? とかあんまり考えないでさらりと読んでください。
 一足早くハタチになって、騎士団に入団したジェームズと死喰い人のセブがどこかで偶然バッタリ会って、
自然と喧嘩(というか戦闘)になった。みたいな話です。
 「割りに合わない±0」の続編。らしきもの。です。はい。