肩から何かがずり落ちた感覚に、ぼんやりと目を開けた。
 鉛のように重い瞼を持ち上げて、周りを見回す。リビングだ。
 どうしてこんなところで寝ているんだろうと首を傾げて、肩にかかった毛布を引き寄せた。2,3度瞬きをして、ああ、とやっと思い当たった。
 そうだ。やけに遅いお父さんの帰りを待っていたのだ。
 ではこの毛布をかけてくれたのは、

「あら、起きたの?」

 キッチンから姿を現した老婦人に、わたしは照れ笑いを浮かべた。
 机の腕で組んでいた腕を動かそうとして、その腕の感覚が可笑しいことに気付く。頭を押し付けていたせいで、血の流れが悪くなっていたらしい。じわじわともどかしいような痺れがやってきた。顔を強張らせたのでそれを察したのか、クレアは苦笑した。机の上で体を丸めていた黒猫がもぞもぞと動いた。
 腕の痺れに耐えている間に、クレアは一度キッチンに引き返し、カチャカチャと何か作業をしていた。
 やっと正常に動かせるようになった頃、彼女は2つのマグカップを持って帰って来る。小さな礼と共に受け取った中身は、優しい色をしたココアだった。口に含むと、やはりというより想像していた以上に優しい味や温かさが体中に染み渡った。
 ほうと息を吐いたわたしの向かい側に座って、クレアもマグカップに口をつけた。

「お父さん、遅いなぁ」

 時計を見れば、深夜……いや、早朝と言ってもいい時間だ。
 何かあったのだろうかと、不安が頭を過ぎる。

「そうそう。さっき連絡が入ったわ。もうすぐ帰りますって」

 ほっと肩から力を抜くと、クレアは穏やかに目を細める。

「起こした方が良かったかしら?」
「……いえ」

 わたしは少し考えたあと、首を振った。

「いい夢を見ていたので」

 頬を緩めて、再びココアを口に運んだ。カッ、カッ、カッ、と時計の秒針がやけに音を響かせる。
 ふーん、と頷いたクレアは、「どんな?」という意味を込めて首を傾げてみせた。

「思い出を見てました。15歳のときの夏祭りの夜の夢」

 目を閉じると色褪せることのない――というかもともと色合いというものに欠けた――顔が浮かんでくる。あの仏頂面。ゆがめた顔はしかめっ面。たまに笑うと、なんだか妙に幼く見えた。
 綿菓子を並んで食べて、あっちこっち出店を見て回って、笑って、遊んだ。
 手を繋いだ。華奢に見えた手があんなに大きくて、意外にあたたかいことを初めて知った。
 それから。

 3つの秘密のうちの、2つを話した。

「2つ?」

 聞き返したクレアに、頷いた。

「2つはクレアさんもお父さんから聞いて知ってるでしょ。おじいちゃんのことと、お父さんの余命のこと。あとのもう一つは…誰にも話したことがないんです」

 お父さんだって知らない。
 誰も知らない秘密。その日まで、誰にも打ち明けないと決めていたこと。

「でも、もういらなくなっちゃった」

 えへへ、と笑うとクレアは不思議そうな顔をした。
 いらなくなったなら教えてよ、とクレアが食い下がるので、迷いながらココアを飲んだ。不思議と、まあいいか、という気がしてくる。

「ずっとずっと、どうしても叶えたい夢があって、その夢を叶えるには、方法はひとつしかなかった」

 天国はどんなところなんだろうとか、昔はよく考えた。いや、今だってときどき考える。
 存在するのかしないのかも分からないけど、なんとなくあったらいいなと思う。

「お父さんとお母さんと、もう一度誕生日パーティがしたかったんです」

 “Happy Birthday”のメッセージが書かれた、いちごののったかわいいケーキにろうそくを刺して。電気を消して、歌を歌う。歌い終わったら、一気にろうそくの火を吹き消す。当たり前の風景。幸せな家族の団欒ってやつ。
 おぼろげにしか覚えていない、幸せな3人の誕生日パーティ。お父さんの膝の上で、お母さんのにこにこ笑顔を見ていた。でもそれは、3回しかなかった。覚えているのは、たぶん3歳の誕生日。もう本当に、薄れて不確かになってしまった遠い記憶。
 4回目の誕生日は、お世辞にも幸せなんて言えない。あまりにも悲惨だった。
 突然の、お母さんの喀血。
 苦しそうだったのはそのときだけで、あとは眠るように目を閉じて、心臓は運動するのをやめてしまった。
 お父さんが叫ぶ。
 自分の甲高い叫びも、部屋中に響いていた気がする。

「だから、ハタチになった日にお父さんがやっぱり死んじゃったら、わたしも死のうと思ってたんです」

 少し見開かれた目を見て、ああちょっとした爆弾発言だったかな、とのんびりと思った。
 一人残されるくらいなら、後を追ってむこうで3人もう一度幸せになった方が、よっぽどましだと思った。お父さんもお母さんも、最初は悲しんだり怒ったりするかもしれないけど、引き返すことができなければきっと許してくれるだろう。ただひとつ心配だったのは、自殺をしたら天国へはいけないという話があったことだった。両親に会いたいという健気な子供を放っておくほど、神さまってやつは冷酷じゃないだろうと思うことにしてはいたが、少し不安だった。天国への道をはばむやつは、全部蹴っ飛ばしてぶん殴ってぶっ飛ばしてやろうと決心したのは、ホグワーツへ行くほんの少し前だった。

「でも、もうやめました」

 ホグワーツへ行って、今まであまりいなかった友だちというものを持って、毎日を楽しいと感じるようになって、死ぬのが怖いと思う自分が生まれてきたのに気付いた。
 困惑した。決して揺るがないと思っていたものに、あっけなく亀裂が入ったのを目の当たりにして、どうすればいいのか分からなかった。
 それでもその事実から目を逸らしてかろうじて守ってきたその秘めた決意を、見事に打ち砕いてくれたのはひとつのあたたかくて大きな手だった。遠慮もなく拳骨を振り下ろして、目を逸らしもせず慰めもせず「お前が悪い」ときっぱり言い切った声だった。
 お前のせいなんだから責任とって生きろ。そんな風に言われたような気がした。
 嬉しかった。
 その言葉さえあれば、生きていけると思った。

「約束したんです。陰険で根暗で顔色の悪いひねくれた性格の皮肉屋と」

 狸寝入りをしていたがこっそり片目を開けると、照れくさそうに、楽しそうに笑った主の顔が見えた。

「いつか会いに行くって約束してくれたから、少なくともそれまでは生きてなきゃと思うんですよ」

 もういらなくなってしまった秘密。
 ぐしゃぐしゃに丸めて、道端に投げ捨てた思い。

「そのあとのことは、そいつと考えます」

 あの根暗男が修羅の道を選んだ同じ日に、同じ気持ちでそう決めた。

 戦おう。

 どれだけわたしが立ち向かっても、きっとあいつは生き抜いてくれるから。













 無事帰還したフランクとムーディに、皆驚きを隠さなかった。
 何より、彼らのところへいちはやく駆けつけ、無傷で救出したリチャードに驚いた。
 説明を求める仲間たちに、リチャードは困り果てたように黙り込んだ。連絡を聞いて駆けつけてきたらしいダンブルドアが、とにかく2人の治療をと穏やかにその場を治めて、リチャードにウィンクを寄越した。敵わないなと苦笑いを返して、彼らの後に続いた。途中マクゴナガルに引き止められ、思い切り抱き締められた。胸のどこかが温かくなったような気がして、軽く抱き締め返した。あとでベイルダムがさり気なく軽いボディーブローをくれた。
 ただ折れただけなら治療も簡単だったが、捻れるように折れたため、ムーディは2、3日の安静を言い渡されたが、本人はさらさら守る気はないようだ。
 改めてリチャードが状況を問われる場にも、自ら進んで参加した。
 要領を得ないリチャードの返答に業を煮やした一人が、ムーディに目を留めた。
 一体何があったんだ、アラスター。そう聞かれたムーディは苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。リチャードの胸に諦めが走りぬける。
 が。

「気を失っていた。ほとんど覚えておらん」

 とだけ言って、驚いた顔をしたリチャードから顔を背けた。
 庇ってくれたのだろうかと思うと、目の奥が熱くなる。自分を落ち着けようと目を伏せると、今まで黙っていたフランク・ロングボトムが口を開いた。

「彼は酷い状態で気を失っていて、顔も真青だったから奴も僕もてっきり死んだのだと思ったんだ。それで、僕もその後いろいろあって…途中意識を失いかけていたからよく分からないけど、仲間から何か連絡があったみたいで急いでたらしい。僕たちの生死を確かめもせずに去って行ったよ。リチャードは倒れた僕らを発見してくれたんじゃないかな。それだったら、奴には会ってないはずだ」

 それならそうと何故話してくれなかったんだと言う声には、みんなが騒ぐから困るのも無理ないさ、とぎこちなく笑った。
 半数は素直に納得し、もう半数も疑念を滲ませながら渋々と引き下がった。
 リチャードが黙ってフランクを見つめる。視線に気付いた彼は、そこに込められたものを的確に読み取って頬を緩めた。
 黙ってそれを見守っていたベイルダムは、皆がばらばらと散っていくのを確認して親友の肩を叩いた。

「家まで送っていってやる。久々に後ろに乗れ」

 ベイルダムの後について広間を去る間際、一度だけ振り返ってリチャードは2人に頭を下げた。
 一人は気だるそうに手を振って追い払う仕草をした。一人はそれに苦笑して、穏やかに頷いてくれた。


 バイクの破壊的なエンジン音が、不思議と耳に心地よく響く。
 上空は研ぎ澄まされたように冷たく、リチャードは親友の背でぶるりと身震いをした。

「会ったのか」

 ベイルダムの低い声が、かろうじて耳に届く。
 聞き返しそうになったのを堪えて、短い言葉をゆっくりと反芻する。
 うん、と頷くと、そうか、と返された。
 沈黙の間、リチャードは白みかけた地平線を見ていた。もうすぐ日が昇る。白い月も傾いていた。星の光が、もうすぐ薄れて消えていく。

「ここじゃあ、声なんて誰にも聞こえない」

 唐突に言われて、リチャードはきょとんとした。

「エンジンの音で、俺にも聞こえん。俺は振り返らんから、お前の顔なんて見れん」

 ベイルダムはなおも続けた。
 リチャードはようやくその言葉の意味に気付いて、ゆるく笑った。

「俺に、泣く理由なんてないよ」

 冷たい風が髪を梳く。同じく梳かれている前の男の長髪が、リチャードの首筋をくすぐり、空になびいた。
 少しずり落ちかけた外出時用のサングラスを人差し指で上げる。そう。泣く理由なんてない。胸のうちで渦巻くものは、様々な種類が複雑に入り混じりすぎて、何と判別することもできない。悲しみもあるような気はするが悲しみではないし。喜びにも似ているが喜びでもない。様々なことを感じながら意識を支配したのは、母親の顔と亡き妻の顔と、愛娘の顔だった。

「笑うのに理由がいらないんなら、泣くのにもそんなものいらないだろ」

 ああなんでこんなとき、この親友の声はこんなに優しく響くのだろう。

「…いらんのかな」
「いらんな」

 じわりと滲んできたものに少し笑って、とん、と額を親友の肩に押し付けた。

「じゃ、背中貸せ」
「相変わらず図々しい奴だな」
「うるせえよ」

 不覚にも声が震えてしまって、唇を噛んだ。
 吃逆がせり上がってきて、大きく肩が震える。気付いていないはずもなかったが、ベイルダムは何も言わなかった。


 朝の明かりが眩しい世界を、2人はサングラスごしに眺めた。
 滲んで不明瞭な世界がひどくいとおしくて、リチャードは声を絞り出すようにして泣いた。
 ベイルダムは、光り輝く朝に目を細めながら、親友の愛娘が待つ家への道筋をぼんやりと思い描いた。冷たい風がやけに澄んでいる気がした。

 帰ろう。

 小さな呟きに、胸が熱くなった。


 帰ろう。



 待っている人のもとへ。




















2004/02/06

 やっと書けました。久々の赤眼更新!万歳!
 と思いつつ。実は明日テストだったりして。
 推薦入試の3日前だったりして。(あははん)
 なにやってるんだろうなあこの受験生は。