屋敷は不気味なほど静まり返っていた。
 フランク・ロングボトムは、息切れを押し殺しながら廃墟の一角に身を潜めていた。
 広い部屋は倉庫にでも使われていたのか、高さ2メートルほどの小さなコンテナが2つどんとそびえている他、空のドラム缶や机椅子、粉末状の何かの詰まった袋の山など、色々なものが置かれていた。
 フランクはコンテナの後ろに身を潜め、息を殺している。
 奴は来るだろう。たとえ自分が小者と知っていようが、どうでも良いのかもしれない。
 帝王は執拗にフランクを追い詰めた。
 フランクは痛みを訴える左足を努めて意識しないようにしながら、目を閉じて天井を仰ぐ。
 祈る姿勢に酷似していたが、彼が思うのは妻の姿だった。
 アリスは今、フランクの帰りを待っているだろう。いつものように窓辺に座り、新しい命の宿った腹部を優しく撫でながら、彼の帰りを待ちわびているのだろう。
 フランクが駆け込んできた入り口は、コンテナごしの背後にある。部屋への唯一の入り口だったそこは、唯一の出口だ。
  カツン  カツン  カツン  カツン
 悠然とした足音が、静けさの中、不気味に響いてくる。
 奴はこの部屋に入ってくるだろう。そうしたならば、出口の数はゼロになる。
 フランクは微笑んだ。
 死にたくない。しかし、勝てないだろう。勝てないだろうが、諦めるわけにはいかない。死ぬわけにはいかない。妻子のために生きて帰らなければ。
 戦おう。
 私は決して臆病者ではない。勇敢なるグリフィンドールの人間として……いや、ただの魔法使いとして立ち向かおう。
 息が整ってきたのが不思議だった。
 真正面から戦うのなら、足の怪我はあまり問題ではない。肝心なのは、術のスピードとタイミングだ。
 仲間はみんな逃げ切っただろうか。
 足音が止まる。
 フランクはコンテナにもたれたまま立ち上がる。

「隠れても無駄だ。素直に出てくれば生かしておいてやろう。出て来ないなら引きずり出して、数ヶ月にわたる拷問で正気を失ったあと、ゆっくり殺してやる。どちらが好みかね」

 奴の背筋の凍るように冷たい声が聞こえてくる。
 まるでゲームを楽しんでいるようだ。チェスの先攻後攻を聞いているような、軽い調子が余裕を示している。
 せめて一矢。せめて一太刀。
 いつか誰かの希望になればいい。自分のような男でも、闇の帝王を傷つけられたのだと。帝王もまたただの人間で、今怯えている人間すべてが立ち上がったならば、簡単に倒せるただ少し強いだけの魔法使いなのだと。もしかしたら伝わるかもしれない。

「さあ、ショータイムだ」

 息を吸い込む。
 さあ。
 戦いだ。

 フランクがヴォルデモードの前に躍り出た。
 奴はにやりと笑い、ゆっくりと杖を上げる。

  ドオォーーンッ

「「っ!?」」

 突然の爆発音とぐらついた足元に、フランクはどさりと尻餅をつく。
 上でコンテナがぐらぐらと揺れ、運良く向こう側に倒れた。
 凄まじい音の連続に、フランクが座り込んだままくらくらしていると、男の声が聞こえた。

「間に合ったようだな」

 轟音のあとで、その言葉はひどく小さくき超えた。
 壁をぶち壊して入室して来たのは、アラスター・ムーディだった。
 普段は慎重すぎるほどに慎重で、警戒すぎるほど警戒する性質の彼が、随分と大胆なことをしたものだ。
 帝王が単独であるという情報に、それだけ興奮したのかもしれない。
 ムーディの目はぎらぎらと輝いていた。

「これはこれは、アラスター・ムーディ、傷だらけの闇払い。派手な登場だな」

 黒いマントをばさりと体に巻きつけて、埃の舞う部屋の中心に無傷で佇んだ闇の帝王ヴォルデモード。
 フードを目深に被り、顔は見えない。僅かに見える口元が、嘲り笑いを浮かべいてた。

「私に新しい傷跡を依頼しに来たのか? 物好きだな、ムーディ」

 おどけたように首を捻って、ヴォルデモードは尋ねた。

「減らず口を叩けるのは今のうちだぞ」

 ムーディがまっすぐに杖を構えながら、低く唸る。
 ヴォルデモードはくつくつと笑い、悠々と腕を組んだ。
 ムーディが壁に開けた穴の向こうに、夜の闇が見える。不気味に青白い月が斜めに部屋に射しこみ、3人の姿と影を浮かび上がらせた。

「さてな。まさか本気で私を殺せるなどと、思ってはいまい?」

 相変わらずの嘲りを込めて、ヴォルデモードは笑う。
 それを合図としたように、ムーディは素早く杖を振り上げる。呪文を唱えた。
 振り下ろした杖の切っ先は、真っ直ぐにヴォルデモードを指す。
 目の眩むような赤い閃光が部屋を貫き、エネルギーの塊が亜音速でヴォルデモードを襲う。
 流石のヴォルデモードも避けきれまいと、フランクは息を止める。
 しかし、マントを翻すような音がして、奴は忽然と姿を消した。
 月が隠れる。闇が訪れる。静かだ。フランクは動かない。ムーディも動かない。静寂。長い時間が経ったように思われた。

「残念だったな」

 優しいとも取れるような穏やかな声が、ムーディの耳元でそう囁いた。
 ムーディの目に恐怖にも似た絶望が広がる。
 次の瞬間、彼は壁に叩きつけられていた。
 一瞬、心臓が止まる。息ができない。肺が使い物にならず、頭が真っ白になる。

「ッ――――!!」

 ムーディは壁に叩きつけられたまま、何かに首を握られているように宙に浮かび、手足をばたばたと泳がせた。
 両目が裏返り、口がパクパクと動き空気を求める。

「ぅ……ぐ……ぅ…がぁ…ぁ…っ!」

 掠れた声が苦痛を訴える。
 手足がついに痙攣しはじめたとき、唐突にすべての圧力から解放されたムーディは、無残に床に落ちうつ伏せに倒れた。

「分かるだろう、ムーディ? 貴様などが私に挑むなど、あまりにも無謀で無意味だ」

 ゆっくりとムーディに歩み寄ったヴォルデモードは、親しげに語りかける。
 うつ伏せに倒れたまま動かないムーディを、ヴォルデモードは笑いながら蹴り上げ、仰向けに転がした。
 ムーディは呻き声を上げる。

「哀れだな、闇払い。しかし幸いにも私は寛大だ。はやく殺してくれと言うなら、今なら望みを叶えてやるぞ?」

 ぞっとするような笑い声を上げ、闇の帝王は愉快そうに言った。
 フランクは皮膚が粟立つのを感じた。心臓が縮み上がり、不覚にも手足がかたかたと震えた。
 怖い。
 ヴォルデモードは殺気を放っているわけでもないのに、そこに存在するだけですべての生き物を威圧していた。
 すべてが禍々しかった。彼を覆うその黒いマントでさえ、その一部であるかのように思えた。
 すこしでも距離を置きたいと本能が叫び、フランクはじりじりと下がった。

「……っ…」

 ムーディが呻いた。

「なんだ? よく聞こえないぞ」

 ヴォルデモードとフランクは、ムーディの声を聞き取ろうと彼の唇を見た。
 ムーディは笑っていた。

「ふ…ざける、な」

 落ちた沈黙が、フランクにはひどく長い時間のように思われた。
 静寂を破ったのは、ヴォルデモードのわざとらしい溜息だった。
 持っていた杖をムーディに向け、くいっと軽く切っ先を動かす。ムーディの体はその切っ先が向いた方向へ勢いよく飛び、再び叩きつけられた。次に叩きつけられたのは、ドラム缶の山の中だった。凄まじい音と共に、いくつものドラム缶が倒れ転がった。いくつかのそれの中から、下敷きになったムーディの下半身だけがこちらに見えた。

「まだ分かっていないようだな、ムーディ。貴様は現在進行形で私に負けているんだ。貴様はこれから私と共に本拠地に向かい、寝る間も与えられず拷問され、弄ばれ、全ての情報を吐きつくしたあと、犬死するんだ」

 呆れたような言葉に、答える声はなかった。
 ガラガラとドラム缶の山が崩れて、下敷きになっていたムーディの姿が現れた。
 右足が、ありえない方向に曲がっている。

「さて」

 ヴォルデモードは肩越しに振り返った。
 フランクからは真っ黒な背中と、弧を描いた唇とフードからのぞく紅い光を宿した瞳の横顔が見えた。

「お前はどうする?」

 その問いが自分に向けられたものだと気付いたフランクは、震える膝に鞭を打って立ち上がった。
 杖を握り締める。

「どうもこうも、ない。僕は貴様を許さない。妻と子供のために必ず、生きて帰るっ!」

 ムーディの反抗が、フランクに再び力を与えた。
 瞳に力強い意思の光が宿る。
 ヴォルデモードはゆっくりと首を振った。

「……愚かな」

 フランクは杖を振り上げ、素早く詠唱を始めた。
 しかしそれよりも早く、ヴォルデモードが杖を振る。
  ズウン
 突然、体がありえないほどに重くなる。何倍もの重力がフランクを襲った。
 息が出来ない。
 己の口から、空気を求めて耳障りな音が漏れる。
 耐え切れず膝をつき、床に手をついた。しかし、その圧力は弱まろうとしない。
 這いつくばる男の姿を、紅い双眸が冷たく観察していた。
 フランクはとうとう腹や胸を床にぴったりと押し付けたが、それでもまだ圧力はかかりつづける。
 まるで、フランクを押しつぶそうそしているかのように。
 わき腹の骨が、ぎしぎしと嫌な音を発しはじめた。
 ヴォルデモードの口端が、可笑しそうに歪む。


「やめろっ!!」


 ヴォルデモードは突然上がった何者かの声に注意を逸らされ、術を解いてしまう。
 急に息が出来るようになり、必死で空気を求めようとしすぎて呼吸が錯乱する。むせて咳き込みながら、朦朧として重い頭を上げたフランクの視界に映ったのは、走って来たのか軽く息切れしている男の姿だった。
 フランクはどうも回転の遅い頭で考える。
 あれは、誰だったか。名前が出て来ない。そうだ仲間だ。仲間。騎士団の。あれは。だめだ、逃げろ。殺されてしまうぞ。来ちゃだめだ。逃げろ!
 警告を発しようとしても、酸素を求めることに集中している喉は、言うことを聞いてくれない。

「だ、れだ……貴様は…誰だ!」

 ヴォルデモードの声が揺らぐ。
 初めて見せた動揺だった。
 少しずつ鮮明になり始めたフランクの思考は、辛うじてそれを嗅ぎとった。

「フランク、立てるか?」
「あ、ああ」

 男は闇の帝王を静かに見つめたまま、フランクに声をかけた。
 フランクは掠れた声でそれに応じる。

「アラスター、大丈夫か!」

 視線を外さずに、男は大きな声で問いかけた。
 一瞬の間を置いて、小さな呻き声が聞こえた。生きてはいるらしい。

「フランク、彼を頼む」
「ああ、しかし……ディック、これは」
「頼む」

 断固とした言葉を遮られたフランクはとりあえず頷き、眩暈と吐き気を必死で抑えながら、ゆっくりと立ち上がる。
 倒れているムーディの腕を取り、助け起こす。しかし、注意はにらみ合っている2人に向けたままだ。

「私の問いに答えろ。貴様は……誰だ」
「誰だとおもいますか?」

 助け起こしはしたものの、リチャード自身が出口を塞いでいるため、フランクとムーディはリチャードの近くで立ち止まった。
 リチャードはちらりとそれを確認して、2人を逃がそうと道を開ける。
 そのとき、隠れていた月が顔を出す。瓦礫の転がる部屋で、倒れたコンテナ越しに対峙する2人と、怪我人2人。
 闇を切り取ったような男の白い手が動き、身構えたフランクを尻目に、目深に被っていたフードを下ろす。
 真紅の瞳が、月明かりで確認できた。
 それを深紅の双眸が見ている。

「お前は…何者だ…」

 ヴォルデモードは茫然と呟いた。
 フランクは、初めて見たヴォルデモードの容貌に、目を見開いた。
 深紅の瞳を持った男は、寂しそうに微笑んだ。

「あなたが今思い浮かべているはずの、日本人女性の息子ですよ」

 フランクの目から見た2人の容貌は、ひどく似ていた。
 ヴォルデモードの顔は、闇に身を堕とし危険な闇魔法をいくつも重ねてきたせいで醜く歪んでいたが、それでも遠い昔の名残をとどめていた。

「はじめまして」

 フランクは、逃げ道があいているというのに、動くことができなかった。

「…俺はあなたの息子です」

 リチャード・は、深紅の瞳を細めて笑っていた。


「何故…?」
「何故? 心当たりならあるでしょう? いや…38年も経ったんだ。忘れてしまっても仕方がないのかな」

 どこかで瓦礫がカラカラと、小さな音を立てた。

「母はあんたに妊娠を告げなかった。それだけではあんたを止めることはできないと悟っていたから、母は俺が父親と同じ道を進むのを防ぐために、あんたと別れ、名字を変え、密かに俺を育てた。女手1つで俺を育てるのは辛いことだったと思うけど、俺の記憶にある母はいつも元気だった。たくさん怒られたしたくさん笑いあって、俺は幸せだった。あの人が泣いているところは、一度だって見たことがない。俺が9歳のとき、肺を患って逝ってしまったけど、そのときでさえ笑顔だったし」

 戦場という状況に不釣合いな穏やかさで、リチャードは報告を続けた。
 ヴォルデモードはそんなリチャードを、ただ凝視していた。

「母は最期、俺に幸せだったと言ってくれた。これから俺が生きるであろう魔法界のことについても、話してくれた。そして、俺のためだと思い、あんたが今何と呼ばれ何をしている人間かを正直に教えてくれた。憎まれ、殺されたくなかったら、絶対に父親のことは人に話すなとも…」

 フランクは、何も言えずただ立ち尽くしていた。
 ヴォルデモードも、そんなフランクとほぼ変わらない様子で、沈黙を守っていた。

「辛かった。ホグワーツに入学して初めてのクリスマス休暇で、好きだった女の子が死んだことがあった。その子の父親があんたのやり方に反発を示したから一家皆殺しにあったと知ったとき、正直自殺しようかとも考えたよ。完全な絶望だったねあれは。あんたが自分の父親であると知っていたから、周りの笑顔や親切が苦してやるせなくて辛かった。でも誰にも相談できなくて、ひとりで罪悪感に押しつぶされそうになって。母の遺志と親友の存在がなかったら、今俺はここにいないんだろうなあ」

 リチャードは微笑みを少し弱めて、眉を顰めた。寂しそうな、辛そうな笑みになった。
 ヴォルデモードの瞳が、揺れたように見えた。

「でも俺は、どうしてもあんたを憎めなかったんだ。母は俺の父親のことを、いつも幸せそうに話したし、些細な思い出をいとしんでいたから。母があれほど愛していた男を憎むことは、どうしてもできなかった。でもそのあんたを皆が恐れ憎んでいた。病弱だった俺はそれに精神的に耐え切れずよく体を壊した。何度もそのまま死んでしまいたいと思ってた。そして俺は2年生の夏、親友にあんたのことを告げた。その親友も身寄りをすべてあんたに殺されたやつだったから俺を許さないだろうと思ったけど、その親友になら殺されても構わないと思ったから。だけど奴は意外なことに、受け入れてくれた。それでも構わないと笑って俺という人間を本当の意味で認めてくれた。…嬉しかった」

 長い、長い、彼の報告は続く。
 自分の人生を、相手に知ってもらおうとするように。

「それから色々なことがあって、その親友と離れ離れになることになったけど、俺はそれでも幸せだった。母の故郷である日本に渡ってそこで新しい生活を始めた。魔法界から離れてほとんどマグルとして生きていた。そこで、綺麗で優しくて可愛くてのんびり屋で少しドジな素晴しい女性と出会って結婚した。結婚して5年後、俺を置いて死んでしまったけれど、その5年間は楽園のように幸せで美しかった。そうして気付けば何だか知らないうちに、俺は世界で一番幸せな男として生きてきていた。だから」

 フランクの目には、月明かりの中で向かい合う親子の姿がどこか神秘的に映った。
 彼は、妻子のことを考えていた。
 今頃は何をしているんだろう。

「だから、俺を生んでくれた母さんとあんたに、心からありがとうと言わせてください」

 部屋の真ん中で、立ち尽くしている一人の父親は、息子の言葉に答えることができなかった。
 彼にも父親があった。
 けれどそれは、憎悪の対象でしかなかった。
 だから。
 己の息子の笑顔が、理解できずにいた。理解を拒否した頭は、表情を動かすことさえしなかった。
 ヴォルデモードと名乗る男は、ゆっくりと口を開いた。

「お前もまた、私とは歩めぬのか」

 その言葉は、色々な感情が籠められすぎてそれが何という名の感情なのか言い当てられず、かえって淡白にさえ聞こえた。
 リチャードは笑みを消し1拍の間のあと、きっぱりと頷いた。

「あんたにはあんたの道があるように、俺には俺の道があります。俺には今、守りたいものがたくさんある。だから俺はそれを守るために、騎士団メンバーとして生きていきます」

 それを言い切ったあと、リチャードは困ったように再び笑った。

「と言っても、今年の夏には妻のところに逝く予定になってるんだけどね」
「……」
「若い頃ちょっと無茶やって寿命を縮めちまったから。今年の夏に死ぬことになってる。だから今は余命5ヶ月。だから今日会うことができて本当に幸運だった」

 突然、息子と名乗る男が出てきて、大切にしまっていた女性との思い出を引っ張り出して。自分の人生を語って、幸せだったといって、ありがとうと言って。笑って。そしてまた突然に、死ぬと宣言した。
 もう、何がなんだか分からなかった。
 ただ阿呆のように呆然と突っ立っていた。

「いつかはあんたとこうして話がしたかったから、今夜会えて良かった。じゃあ、今日はこれで帰ります。でも、次会ったとき俺はあんたを迷わず殺します。だからあんたも俺を殺すつもりで来てください。……フランク、行こう」

 リチャードはムーディを左側から支えた。
 促されて、フランクはまごつきながらも歩み始める。
 数歩歩いたところで、背後で動く気配がした。

「待て!」

 ヴォルデモードが鋭く制止の声を発する。
 足を止めると、ヴォルデモードが顔を歪めて杖を構えていた。

「このまま帰すと思っているのか?」
「じゃあ」

 リチャードは肩越しに振り返り、深紅の瞳で鋭く父親を睨んだ。

「あんたは俺が殺せるのかよ?」

 あの人が、己の人生を懸けて守ろうとした命を、その杖で消すことができるのか?

 ヴォルデモードは絶句したまま、動かなかった。
 幾人もの人間に死と痛みと恐怖を知らしめてきた杖の先が、小刻みに震えていた。

 その杖の先にいる男は、口元を優しく微笑ませて言った。

「俺を殺せないほどに、母さんを愛してくれてありがとう」

 息子は父親に背を向けて歩き出した。
 もう振り返らなかった。

「さよなら、父さん」

 だらりと腕を下げ、いつまでも息子の後姿を見送る父親の耳に届いたのは、別れの言葉だった。
 月が、白々しく彼を照らした。
 3つの背中が見えなくなったころ、彼はぽつりと久しく口にすることのなかった名前を呟いた。
 それは、世界で唯一本気で愛した女性のそれだった。




















2004/12/11

 父親に愛されず、父親を愛せなかったトム・M・リドル。
 だからこそ誰かを殺すとき、誰かが悲しむということを想像できなかったのかも。
 家族を失うということが、どれほど悲しいことか、知らなかったし分からなかった。想像できる範囲を超えていた。
 でも誰にも愛されなかった人など、世界中にはたくさんいます。
 そして愛されなかったけれど、人を愛し、幸せになった人もたくさんいます。
 だから、それを言い訳にすることは卑怯です。言い訳するべきではないと思います。
 ですから彼は私の中では、最も弱かった存在として定着しています。彼は敗者です。
 それを上手くは書けませんでしたが、美化しなかったことには満足しています。
 ただ誰かが彼に無償の愛を与え、彼がそれを一瞬でも幸せだと思ったことがあればいいなと思いました。
 だからの祖母は、その私の願いを反映し、彼を愛してくれました。
 そして、リチャードにたくさんの愛を与え、育ててくれました。
 だからこそ、はセブルスと出会い、セブルスを好きになることができたのであります。
 ヴォルデモードは憎悪の対象であるべき存在ですが、私にはただの哀れな魔法使いです。
 賢さと愚かさと、弱さと強さとが、ひとつの体に共存する人間らしさが好きです。