「クレアさーん」 わたしはリビングに呼びかけた。 「はーい」 リビングから穏やかで優しい返事が聞こえる。 わたしの頬が少し緩む。言っておくが別ににやけてるんじゃない。真顔以上、笑顔未満って感じだ。 彼にも昔そう言ったけど、「いつもの間抜け面」と名づけられてしまった。まったくもって失礼な奴だ。 その彼を最後に見たのは、もう2年も前のことだ。 会いたいな。 そんな思考を慌てて打ち消して、目の前の鍋とリビングの彼女に意識を戻す。 「味を見てほしいんだけど」 少し間を置いて、クレアさんのスリッパがパタパタと鳴る音が聞こえてきた。 白髪をゆるく結った絵に描いたように素敵な老婦人が、目をきらきらさせながらキッチンにやって来た。 腰もしゃんと伸びていて、背丈はわたしとあまり変わらない。…少しクレアさんの方が高いかも。 クレアさんに聞いたんだけど、魔法使いや魔女というのはマグルより寿命が長いらしい。ダンブルドアも100歳を超えてるとか超えてないとか。 そういえば前に喫茶店で会ったとき、校長先生もそんなことを言っていたような。 そんなクレアさんは、にこにこしながら近寄ってきて、鍋を覗き込んだ。 鍋の中では出来たばかりのクリームシチューがくつくつ言っている。 「まあ美味しそう!」 サファイアみたいな目がきらきらしているのは、味見できるのが嬉しいと見た。 わたしもつられて笑いつつ、小皿に少しだけシチューを分けた。 「どうぞ」 「いただきます」 熱いのに少し警戒しながら、クレアさんはシチューに口をつけた。 途端にクレアさんが幸せそうに微笑む。 わたしにはそれだけで十分だった。 「ごちそうさま」 「いえいえ」 「すごく美味しかったわ。バッチリね!」 「良かった。これが今日の夕食のメインですから」 「ディックの大好物ですものね。特製クリームシチュー」 わたしはえへへと笑って、クリームシチューをおたまでくるりとひと掻きした。 わたしは、一日の時間ほとんどをクレアさんの家で過ごす。お父さんが騎士団の用事で出掛けることが多いからだ。 お父さんが疲れて帰って来たとき、わたしがこちらにいた方が何かと都合が良い。 実際、お父さんがあまりにも忙しく、家のことをすべてクレアさんに任せることがわたしはできなかった。結局大学受験は諦め、今は通信教育で勉強している。 それについてお父さんは少なからず後ろめたく思っているようだが、わたしにとっては将来の夢より今はお父さんとお父さんとの生活の方が大事だったというだけで、後悔をしたことはない。むしろ大学受験を選んだ方が、いつか後悔しそうだと判断した。 わたしが20歳の誕生日を迎えるまで、あと5ヶ月しかないのだから。 「お父さん、はやく帰って来ないかな」 お父さんと過ごせる時間は、限られている。 クレアさんのおかわりを要求を笑いながらたしなめて、わたしは時計を見上げた。 溜息をつこうとしたところで、クレアさんの後をついてきた親愛なる保護者殿が、尻尾をゆらゆらと揺らしてわたしを見ているのに気付いた。 「ほしいの?」 おたまですくって白いシチューを軽く掲げる。 彼女は返事の代わりにペロリと口まわりを舐めた。 「じゃー少し冷ますねー」 耐熱皿に分ける。 一口サイズに切られたじゃがいもやにんじんが、皿の上にごろごろと転がった。 そういえば、シチューを作ってあげた日もあったなあ。 見かけによらずにんじんとか好きじゃないの初めて知ったのもあの日だったっけ。何食わぬ顔して普通に食べてたからなかなか気付かなかったけど、好きじゃない食材は食べる前に箸やスプーンの先でつつく子供っぽい癖を見つけた。指摘したときの慌てっぷりは面白かったねうん。今でも鮮明に覚えてる。 元気にしてるかな。 会いたいな。 今頃なにしてんのかな。 また時計を見上げると、もしかしたら誰かと戦っているのかもしれないと思い至って、今夜の白いメインディッシュに小さな溜息を混ぜてしまった。 「何してんのかな……お父さん」 取ってつけたように聞こえなくもなかった。 リチャードは不死鳥の騎士団本部にて、騎士団の面々や数人の闇払いたちと、情報の確認や被害状況などについての会議に参加していた。 単独で行動している死喰い人を狙い、確実にひとりひとり捕らえるという作戦をずっと続けてきた。だがその成果は、決して芳しいものではない。 単独で行動する死喰い人の特徴には、2パターンある。手柄を立てるためにこそこそと動き回っている小者。これは簡単に捕まえられるが、肝心な情報は何も握っていないことが多い。逆に、実力があり幹部とも言える死喰い人もいる。この場合は、帝王に言い使われ密かに任務についているか、集団で行動することを好まない者に別れる。騎士団が捕らえたいのは、このタイプだ。しかし相手は非常に手強く、逆に返り討ちに合う可能性も高い。やっと追い詰めたというところで、闇の印を使い仲間を呼ばれ失敗することも多々ある。せっかく捕まえた幹部は胆が据わっていて、どんな情報も漏らさぬと口を閉ざしたまま自害することもある。 そうして結局、あまりに多すぎる犠牲を重ねながら、闇払いは走り回り騎士団は存続しつづけていた。 暗い溜息が、誰かの唇から漏れる。 マッキノンか、ディグルのあたりからだったと思われるが、誰もそれを咎めようとはしなかった。 そこに揃った人間の、誰から漏れてもまったく不思議はない吐息だったからである。 「どうにかして、帝王がひとりでいるところを狙えないものだろうか」 ベイルダムが苦しげに呟く。 首を振ったのはムーディだった。 「できるなら既に新しい時代が来ているっ。奴がひとりで姿を現すことなどほとんどないのだ。いや、いつも囲まれているというわけではないが、普段から居所が不明だ。ふらりと単独で動いてはふらりと消えるため、我らの動きが間に合わない。しかもひとりであったとしても奴に勝てるわけじゃない。何度か偶然接触したときも、ことごとく返り討ちにあっている」 彼の言葉に苦い顔をしたのは、ベイルダムだけではない。 何人分もの溜息が部屋を支配した。 重い沈黙がつづく。 「…囮を使うのはどうだろうか」 今まで、ただ一人表情を変えることなく会議に臨んでいたリチャードが、ぼそりと呟く。 その言葉はしんとしていた会議室に、思いのほか大きく響いた。 俯いていたマクゴナガルがハッとして顔を上げ、ベイルダムが動きを止めてリチャードを凝視する。 「囮?」 ボーンズが訝しげに聞き返した。 リチャードが何かを言う前に、ムーディが鼻で笑う。 「無理だ。帝王には執着がない。どんなに忠実な部下も、役立たずと判断すれば切り捨てる」 その通りだと面々が頷くが、リチャードは怯む様子を見せない。 同意するようにひとつ頷いたリチャードは、視線を集める中で先を続けようと口を開く。 「そう、部下なら簡単に切り捨てる男だ。でも彼だってやはりただの人間。血縁なら」 「ディックっ!!!」 珍しく声を荒げて、激しくベイルダムが立ち上がり親友の言葉を遮ったのとほぼ同時に。 バアァーンッ 会議室のドアがすさまじい音を立てて開いた。 全員が何事かと身構える。ムーディや数名の闇払いは、敵の襲撃かと素早く杖を構えている。 倒れこむように入って来たのは、ある死喰い人幹部の監視についていたはずの男だった。 「何があった!?」 あちこちを怪我したまま使命感だけで体を動かしていた男は、マリオネットのようにそこに崩折れたが、ムーディの鋭い問いかけに荒い息の中から言葉を搾り出す。 大急ぎで男の横を擦り抜けたマクゴナガルが、薬や包帯の用意を大声で指示している。 「…監視を…気付かれ……帝王に……奴はひと、り……フランクがっ、足止めに残、…、っま…だ…………助けを……はやくっ!」 皆まで聞かず、全員が慌しく動き出す。監視していた場所に行った経験のあるムーディが、早口に場所を説明したあといち早く“姿くらまし”で消える。 戦いの準備が急ピッチで進む中、リチャードの姿も消えた。 うかつにもベイルダムでさえ、混乱の中で気付かなかった。 2004/12/10 |