琥珀色の水面が揺れる。
 そこにそっと唇を落として、わたしは紅茶を口に含んだ。
 アールグレイ。わたしの好みだ。
 向かい側で、彼もわたしと同じように紅茶を啜った。頬が綻んだのが見えた。彼にとっても悪いお茶じゃなかったようだ。
 カチャリと小さな音をさせて、わたしはカップを皿の上に戻す。
 彼はもう、テーブルに置かれたチョコレートクッキーに手を伸ばしていた。

「お茶、ありがとう。美味しいよ」
「それは良かったわ」

 彼がいつもの笑顔で言った。笑んだあとに少し首を傾げるのは、学生時代からの彼の癖だ。
 彼は微笑んだまま、悪戯っぽく眉を上げた。

「でも僕とお茶なんかしてていいのかい? フィアンセに怒られない?」
「大丈夫。あの人に怒られるほど、わたしまだ落ちぶれちゃいないの」
「そう?」
「ええ」
「ならいっかな」

 2人して、くすりと笑った。
 静かで穏やかなティータイム。ジェームズとじゃ、なかなかこんな時間は過ごせない。
 まあ、学生時代に比べれば、随分静かになったと思うけど。まだまだ彼は子供だ。

「婚約おめでとう」
「ありがとう」
「式はいつ?」
「さあ。来春を考えてるけど、はっきりとはね」
「そうか、いよいよ結婚かあ。…数年前は、君がいつかジェームズと結婚するなんて、考えられなかったけどなあ」
「あら、それはわたしもよ、リーマス」

 また笑った。
 思えば、あの頃のわたし随分つんつんしていたなあ。神経質で、短気で。今考えると少し恥ずかしいくらい。
 もしかしたら本当は、あの頃からジェームズを意識していたのかもしれない。
 リーマスは、クッキーを飲み込んで再び紅茶に口をつけた。

「そういえば、あなたとはどうなってるの?」

 ごふっ
 リーマスは思い切り咳き込んで、大きな動揺を見せた。
 うん。面白い反応ね。顎から紅茶が滴ってるのはいただけないけど。
 彼はようやく落ち着きを取り戻すと、杖を振って服に零れた紅茶の染みを消し、ついでにテーブルの上の琥珀色の水溜りも消した。
 ポットを取り、カップに新しく紅茶を淹れなおしてあげると、彼は小さく礼を言った。

「そんなに動揺しなくてもいいじゃない。あんなにアプローチしてたら、わたしだって見てて気付いたわ」
「…そんなに明け透けだったかなあ?」
「明け透けではなかったけど、分かる人には分かったと思うわ」
「……そっかあ」

 腹黒リーマスが赤くなってるのが可笑しくて、わたしは笑ってしまった。
 彼はふてくされて頬を掻いたあと、照れくさそうに笑った。

「で、どうなの?」
「どうって……そりゃあ、好きだけど。彼女は日本に住んでるし、それに……」

 そのとき、家の外に人の気配がして、わたしたちは黙った。
 足音が玄関で止まり、少し間を空けたあと、コンコンコンとノックがある。

「ちわーミカワヤでーす!」
!?」

 ミカワヤって誰、というツッコミはたぶん意味がないだろうと思う。わたしは声とイントネーションだけで、その友人であると確信した。
 急いでドアを開けると、小柄な東洋人がへらりと笑って佇んでいた。
 おどけて敬礼なんかしている。

「本官、ただいま戻りました」
「あなた…どうしたの? 日本に帰ったんじゃ?」
「まあまあ、立ち話もなんだし中に入れてよ」

 結構図々しいことを言ってのけた彼女は、「お邪魔しマース」と笑いながら玄関をくぐった。
 すぐにリーマスの姿を見つけ、ぱっと顔を輝かせる。

「リーマスもいたの? わーラッキー。相変わらずわたしってばナイスタイミングだよねえ」
「ほんと……色んな意味でいいタイミングよね」
「噂をすれば影以上のものを感じるんだけど、狙って出てきたわけじゃないんだよね?」

 そんなわたしたちの言葉に、はきょとんとした顔でわたしたちを見比べる。
 わたしは思わず苦笑して、同じように笑っているリーマスをちらりと見た。

「まあ取りあえずお茶でも飲みましょう」
「おっす。ごちになります」
「はい、こっちに座って」

 リーマスが隣の椅子を引いた。は無邪気にそこに座る。
 わたしは新しいカップを持ってくと、それに湯気の立つアールグレイを注ぎ、の前に出した。

「髪、切ったのね。勿体無い」

 長くて豊かだった黒髪が、今は肩に触れるか触れないかぐらいになっていた。
 は上機嫌でクッキーを食べながら、「まあね」と頷いた。
 リーマスがそれを身ながら、穏やかに目を細める。そんなところがバレバレなんだと、がいなければ指摘したいくらいだ。

「それにしても、どうして戻って来たんだい?」
「そうそう。今日はそれの報告に来たんだよ」

 リーマスの問いに、彼女はそう答えて紅茶を置いた。

「お父さんが騎士団に入ることになったから、わたしもついてきたの」

 騎士団。
 目を丸くしたわたしに、は笑いかけた。
 リーマスはそれほど驚いていないようだった。

「ジェームズたちから、マクゴナガル教授とベイルダム教授と、あともう一人の魔法使いが入団するってことは聞いていたよ。一度に3人も入団するなんて珍しいケースだったからよく覚えてる。そっか、じゃあそれがのお父さんなんだね?」
「うん。ってことでよろしくねえ、2人とも」
「でもあなた、マグルの大学を受けたいって言ってたじゃない?」

 彼女の魔力は人と比べれば小さい。平均を下回っている。
 それが何故なのかは知らないが、生まれつきのようだ。スクイブとまではいかないまでも、呪文が長くは持続しないのが難点だ。しかも魔法が効きにくい体質らしく、怪我も魔法薬で治療していた。その関係か箒に乗るときも力が安定せず、いつもふらふらとしている。その分は今まで筆記や授業態度でカバーしてきたが、就職や大学受験にはとても不利だ。
 しかし彼女は元より魔法界で職に就くことは考えていなかったらしく、学校の教師になりたいのだと言っていた。
 そのために、マグルの大学を受験するのだとも。

「うん。それを諦めるつもりはないよ? でもそれまでにあと1年あるから。勉強はこっちでもできるしね」
「じゃあ、来年は日本で一人暮らし?」

 リーマスが心配そうに問う。
 そりゃあ心配でしょうとも。想い人が外国で一人暮らしじゃねえ。

「ううん。ダンブルドアの知り合いの家と日本の家を繋いでもらったの。部屋のドアを開けたらあらびっくり、そこはイギリスって感じ。3日前からそこでお世話になってんだ。マダム・クレアって言うんだけど、優しくていいひとだよー」
「そう、じゃあそこに居候するの?」
「そーゆーことになるね」

 幾分ほっとした感じのリーマスに笑いかけると、彼は気まずそうに目を泳がせた。
 はその様子に気付いていないようで、またさくりといい音を立ててクッキーを齧った。

「でもどうして突然騎士団に?」

 わたしの問いに、は少し考えるように視線を上げた。
 それから言葉を選びながら慎重に、ゆっくりと話し始める。

「お父さんは今までずっと、大切なひとを傷つけたくなくて、騎士団には入らなかったんだ。それにわたしがまだ学生だったから、立場とかや義務とかに繋ぎとめたくなかったんだって。でももう卒業したし、わたしも成人したら騎士団に入ろうと思ってるって言ったら、お父さんも前々から考えていたからこれを機に入団するって」
も、入団するの?」

 わたしの問いに、はしっかりと頷いた。
 もう笑ってはいなかったが、別段表情に翳りは見られなかった。

「でも…」

 わたしは先をつづけようとしたが、なかなか言葉が浮かばなかった。
 リーマスはぼんやりと紅茶を見つめている。

「…危険だわ」

 やっと言えたのはそれだけだった。
 はそうだね、と頷く。

「でも、傷つくことになってもわたしには守りたいものがある。誰かを傷つけることはやっぱりすごく怖いよ。大切なひとにまで杖を上げなきゃいけないことになるかもしれない。怖くて怖くてしかたない。だけど、そうしないとわたしは進んでいけないと思うんだ。どこへも」

 わたしには、誰かに向かって杖を振り上げるなんて、想像できなかった。
 の魔力は弱い。女の子だし、決して運動神経も良いわけじゃない。
 にも関わらず、自分がどんな人間か一番よく分かっている本人が、きっぱりとそう宣言した。
 わたしに止める権利はない。

「誰を…傷つけることになっても…?」

 リーマスが躊躇いながらも尋ねた。
 大切なひとにまで杖を上げなきゃいけないことになるかもしれない。彼女は今そう言った。
 それは、間違いなく彼のことだろう。
 リーマスは相変わらずぼんやりとしていたが、テーブルの下で拳を握り締めているような気がした。

「うん。お父さんもわたしも、たとえ大切なひとを傷つけてしまっても守らなきゃいけないものがあるから。なんていうか、通さなきゃいけない筋っていうのかな。わたしがわたしであるために、しなければならないことだと思う。わたしにはわたしの信念があるから、そのために騎士団に入団する。必要があれば、戦う」

 はまた笑った。

「それが、わたしの意志だから」

 思えば、わたしはまだ彼女が泣いたところを、見たことがないのだった。
 泣いたあとの腫れた目を見たことがあっても、その赤褐色の目から涙を流しているようなは知らない。
 彼女が泣けるのは、一体どんな場所なんだろうか。
 ここがそうじゃないことが、わたしは少し悔しかった。

「あなた他に好きなひといないの? いつまでも彼をひきずってちゃダメよ」

 わたしは思わず、今まで一度も触れたことのない話題を口にしてしまった。それも、リーマスの前で。
 ハッとして口を閉じてももう遅かった。
 正直に言えば、嫉妬心からの言葉だったと思う。
 は怒りもせず泣きもせず、ただ困ったように少しだけ俯いた。

「ひきずってるわけじゃないんだけどねえ」

 顔を上げた笑い顔も、やはり困ったように眉尻が下がっていた。

「わたしはたくさん好きな人がいるんだ。リリーだってジェームズだってリーマスだってシリウスだって好きだし。父さんも、他の友だちも、先生達も大好き。でもその中にあいつはいないんだ」

 ゆっくりと言葉を選ぶ。
 少しでも正確に気持ちを伝えようと、しきりに首を傾げながら。

「好きっていう範囲にたくさんの人がいるのに、その中にあいつはいない。かといって苦手の範囲にいるはずもなくて、わたしの中のどこにもいないんだ。どうしてかなあと考えると」

 頬を赤くさせながら、笑う。

「あいつがわたしの中から、自分がいた場所ごと何かを全部もってっちゃったんだよ。たぶん」

 だから誰かと恋人になるためにどうしても必要な何かが、欠けてしまっているんだ。
 と、どこか幸せそうに笑った。
 わたしは、リーマスの顔を見ることができなかった。
 それほどに、は輝いて見えたのだ。






 それからとリーマスとわたしは、お茶を飲みながらしばらく他愛ない話に花を咲かせていた。
 1時間もすると、は用事があるからと先に帰ることになった。

 去って行くの後姿を、リーマスとわたしはいつまでも見送っていた。
 彼女は背をしゃんと伸ばし、まっすぐに前を見て歩いている。
 その肩がどれだけ細いのか、彼女は本当に分かっているんだろうか。

「ねえ、リーマス」

 の背中が見えなくなった。
 夕暮れ前の日差しが、石畳の道を照らしているだけだ。
 空はまだ青い。

はすごくいい子よ。でもね…」
「分かってる」

 見ると、リーマスは笑っていた。
 少し寂しそうに見えた。

「望み薄だよね」

 空にいい加減な感じに欠けた白い月が、いい加減な位置にぶら下がっていた。
 満月まで、あと何週間あるのだろうか。

「しょうがないって分かってるけど、あんなに思われてる彼がやっぱり憎くて仕方ないよ」
「……そう、ね」
「ねえリリー。これって…やっぱり…」

 リーマスは微笑んだまま、まだ青い空を見上げた。

「失恋、かなあ」

 そうかもしれない、とわたしは曖昧に頷いた。
 リーマスはやはり、笑っていた。




















2004/12/07

 セブが書きたいお年頃。(違)