聞きなれた独特なリズムの軽い足音が聞こえたので、わたしは振り返らずに軽く首を傾けた。
 広く空いた方の肩に、黒猫が飛び乗ってきた。
 マフラーに顎を埋めたわたしをは横目で見て、耳元に口を寄せる。

「どこに行くの? そろそろ消灯時間なのは分かっているんでしょう?」
「うん。でもせっかくのクリスマスだし、少し雪が見たくて」

 マフラーに埋もれたわたしの口がくぐもった声を発する。
 その返事に、の黄金色の満月がぱちぱちと瞬く。

「日が出てる間、あきるほど見てたじゃないの。それに今は止んでいるし…」
「いやいや姐さん。夜の雪ってのもなかなかのもんですよお? 止んでいるなら好都合。積もった雪でも眺めましょーや」
「…物好きねえ」

 呆れた響きはあったものの、反対するつもりはなさそうだと判断したわたしは思わず微笑む。口元が隠れているから伝わらなかったかもしれないが、はどちらでもよさそうな顔で、わたしの歩きに合わせて肩で揺られていた。
 どちらにしても、ついてきてくれるらしい。

「雪だるまつくりたいなあー」
「長くなるから駄目よ。また風邪ひいたら大変じゃない」
「大丈夫大丈夫」
「だーあーめ!」
「むう…」

 話しながら進めば、すぐそこに目指す庭はあった。
 ガラスのドアを開け、真っ白なそこにざくりと足音をつくる。

 そう。一年前の冬の日も、この庭を歩いた。
 そのときは、あいつと偶然ここで会って、はしゃいで笑って遊んだ。
 びしょびしょに濡れても、離れたくなかった。ずっとそうして笑っていたかった。
 真っ白な雪が温かくさえ思え、その時間が今思えばひどくいとおしかった。
 もしかしたらわたしは、あのときにはもう恋をしてたのいたのかもしれない。今はもう分からないけれど。
 今もこの手はとても冷たいのに。
 あの手はわたしに差し伸べられない。
 彼に差し伸べた手は冷えて、痛くて、辛い。でも、背を向けてしまった彼にはそれが見えない。
 あの頃はあたたかいだけの気持ちだった。幸せの真ん中でくるくる自転して、いつだって気付けば点滅していた。
 今は割れたガラスの欠片のように、強く握り締めれば握り締めるほど、この胸をこの手を傷つけるだけなのに。
 懐かしくて、油断すれば泣いてしまいそうだ。


「……ん?」
「大丈夫?」
「うん。…大丈夫」

 心配顔のに笑って答えた。ちゃんといつもの笑顔になっていただろうか。
 少し不安でなんとなく冷たい手で顔を撫でた。
 白い息が呼気の温もりを教える。そう。わたしはまだ大丈夫。
 生きているんだから。
 生きているならなんでも乗り越えられる。
 本当は認めたくはないけど、乗り越えられない悲しみなんてこの世にはないんだ。
 乗り越えようとするか抱え続けたままにするか、選ぶのは自分。

 あいつに手を差し伸べていることは、イコール思い続けていることじゃない。
 恋心をずっと抱えて、誰も愛さずに待っているという意味じゃない。
 手を差し伸べるということは、あいつを受け入れるということ。あいつの全てを、肯定も否定もせず受け止めるということ。
 それは本当なら、きっと友だちでもできることだ。たまたま、今回はその役目がわたしに回ってきたというだけ。
 だからわたしはあいつを待つけど、待っている間をどんな風に過ごすかはお互いに自由なのだ。

 わたしは卒業する。
 卒業して、社会に出て、もしかしたら新しい恋をするかもしれない。
 普通に好きな人ができて、もしかしたらお父さんが生きているうちに結婚するかもしれない。
 バージンロードを歩くとき、隣にいるのはあいつじゃない素敵なひと。
 そんなとき、あいつが戻ってきたらわたしはどうするんだろう。どちらを選ぶんだろう。
 たとえばあんな偏屈よりずっと素敵なそちらを取ったら、あいつは怒るだろうか。恨むだろうか。それとも呆れるんだろうか。
 たぶん仕方がないと言って溜息をつくんだろう。
 微苦笑を漏らして、わたしの手を取ることを諦めてしまうんだろう。
 いや、そんなのは自惚れだ。あいつだってわたしの他に好きなひとができたって不思議じゃない。わたし以上に上手にあいつを受け入れられるひとと出会うかもしれない。その方がわたしのところへ帰ってくるより幸せなら構わない。こういう想いがどれだけ理屈もなく訪れるものか一番よく分かっているわたしだから、きっと祝福できる。笑っておめでとうと言うのは流石に無理かもしれないけど、少し離れたところから眺めているくらいはできそうだ。
 いつか今日の日のことを、2人で笑って話せる日だって来るのかもしれない。
 あのときは本気で恋をいていたよね、なんて。
 悲しいことだけど、そんなもの。今感じているこの悲しみも、きっといつかは風化していく。
 綺麗事ならいくらでも言えるけど、わたしは知ってる。
 人の感情なんて、永遠じゃない。

 それを一番知っているのはわたしなのに、どうしてだろう。
 こんなにも、…胸が痛い。
 胸が痛くて、辛くて、強く生きていくことを誓ったのに、また泣いてしまいそうになる。
 どこまでも弱いわたしに、わたしは絶望している。

、少しだけ……」
「…ええ。先に帰ってるから」
「うん」
「はやく中に入るのよ? あんまり遅いと迎えに来るわよ?」
「はーい」

 わたしの今にも崩れてしまいそうな気持ちを察してくれたのか、は雪の上に浅い足跡だけを残して去っていった。
 わたしは積もった雪に触れることも考えず、ただ茫然と立ち続けていた。








「セブルス?」

 突然歩調を緩めゆっくりと立ち止まったスネイプを、クィリナスは振り返って訝しげに呼んだ。
 スネイプは躊躇うように視線を彷徨わせたが、最後に目を伏せて口を開いた。

「今日は確か、雪が降っていたな」
「え、うん。今はもう止んでいると思うけど」
「そうか…」

 スネイプは考えるように少し視線を上げたあと、クィリナスに向かって言った。

「少し積もり具合を見て来る。すぐに追いつくから、先に行っていてくれ」
「見て来るって、どうして?」
「明日の授業にどれほど影響があるのか確かめておきたくなってな。散歩がてら行ってくる」
「分かった」

 分かれ道の向こうに消えていく後姿を身ながら、クィリナスは寂しく微苦笑を漏らした。
 彼の弱音は自分には向けられない。誰にも漏らすつもりなどないのだろう。
 そして遠ざけることを望まれたこの身は、日増しに疎外感と罪悪感に蝕まれ、侵食され、どこともしれないところに消えてしまいたくなる。
 そう。いっそ消えてしまえれば、自分は楽になるのだろう。だが楽な道を選ぶことは、辛い道を自らの意思で行く彼らの前ではできず、またその術も知らない。自分は何をするのが最良なのか。最良の選択とはなんなのか。用意さえされていない選択肢を、クィリナスは選ばなければならなかった。

「君が」

 消えてしまった背中を見つめたまま、クィリナスは呟く。

「弱音を1つでも吐いてくれれば、僕だって頑張れるかもしれないのに」

 届くはずかないと分かっているからこそ、呟けた弱々しい本音。
 その言葉は、冷気に覆われた廊下の隅に転がった。誰にも知られずに風化していくのだろう。
 それでいい。
 それでいいんだと言い聞かせながら、強く拳を握り締めクィリナスは踵を返した。
 こんな弱音、責任転嫁もいいところだ。
 強くならなければ。もっと。
 たとえば最後まで己を貫いたモスグリーンの瞳の友のように。
 たとえば夜も闇も越えた血と死の冥府へと、身を沈めることを選んだ冬空色の瞳の高貴な友のように。
 たとえば人のため友のため己のために、自らの犠牲を決めた闇色の瞳の友のように。
 自分の足音の無機質さが、どこか滑稽に聞こえた。








 そこに行こうと思ったのは、ただの思いつきであり、何の他意もない。
 そう言い切ることができない自分の情けなさに、スネイプは僅かに苛立った。
 ただ今日はクリスマスで、このイベント独特の雰囲気が思い出を呼び覚まし、闇に足を踏み出した自分の唯一の希望が頭にちらついたのだ。
 彼女と視線も合わさず、口も利かなくなって一体何ヶ月が過ぎたのだろう。
 相変わらずポッター一味とは会えば睨み合うものの、17にもなって暴力沙汰を起こすわけにもいかずただ不毛な厭味の応酬ばかりだ。しかし、その横にときどき見え隠れするあの小柄な影に気付かないスネイプでもなく、かといって声をかけるつもりもなく、まるで気付かない風を装って生活してきた。彼女もまた同じ態度で、まるで存在さえ否定するかのようにお互いに避け合いをつづけた。
 目も合わさない。言葉を交わさない。
 それがどれだけの苦痛であるのか、厭というほど思い知った1年だった。
 彼女の紅い煌゚きをどうしようもなく欲してしまう。あの気の抜けるような笑みをもう一度自分に向けてほしい。もう一度その声で、自分の名を呼んでほしい。もう一度隣を歩きたい。もう一度。もう一度。もう一度。何かを願うことがどれほどの罪であるのか、スネイプには分からない。
 ただもどかしく、やるせなかった。

 スネイプは足を止めた。
 自分の進行方向にあるその目的地に、一年前の冬にも見た後姿があったのだ。
 あのとき彼女は、自分の見ている前でざくざくと歩き回り、勝手に滑って転んでのびた。そのあとは自分に雪玉を投げつけて、思わず腹を立てた自分は多少の浮遊呪文を使い応戦。いつのまにか俗に言う雪合戦になり、結局は2人して寒い冬の庭に転がった。
 あいつは馬鹿だ。絶対に阿呆だと思った。今もそう思う。それに負けず劣らず自分もそうかもしれないが。
 その彼女が、グリフィンドールのカラーのマフラーに顔下半分を埋めて、ぼんやりと突っ立っている。自分の首を覆うマフラーの色が、現実を見ろと言っているような気がした。
 彼女も、自分と同じことを考えてここにやってきたのだろうか。
 愚かなことだ。
 もしかしたら、会えるかもしれない。なんて。

 さて、どうするべきか。
 スネイプは足音を殺して躊躇った。
 このまま彼女の隣を行き過ぎるべきか。それとも何の意味もない散歩など止めて、Uターンするべきか。

 迷っていると、彼女がこちらに気付いた。
 視線が絡み合う。
 これで、来た道を帰るのは逆に不自然なことになった。
 もう後戻りはできない。
 しかしそれさえも、彼女の横を通り過ぎるための言い訳かもしれなかった。
 暗闇の中だったが、何ヶ月ぶりに彼女の瞳を直視した。
 それだけで胸を震わす自分が分からなかった。
 という女ど出会って2年、自分には分からないことばかりだ。
 そしてまた、自分の行動の意味も分からぬまま、これからどうするかも考えずにスネイプは真っ直ぐに足を進めていった。






 夢を見ているのかと思った。
 わたしが考えていたとおりの姿で、あいつが真っ直ぐにこちらに歩いていた。
 目があった。
 虚無にも似た闇色の瞳が、ひどく懐かしかった。
 同時に夢でないことを知ったわたしは、どうすればいいのか分からずやはり立ちすくんだままだった。
 あいつが歩くたび、ざく、ざく、と雪が音を奏でるが、その音よりもわたしの心臓の音の方が大きな音を立てているようだった。
 いつのまにかわたしたちは視線を逸らしていた。
 そして、いつものように、あいつが横を通り過ぎていく。

 すれ違った瞬間、わたしはなぜか空を見上げた。
 そこに何か意味があったわけではない。ただなんとなく、空を見上げただけだった。
 そして、息を呑んだ。

「ぁ」

 小さく声が漏れてしまった。
 満点の星空とは、こういうものを言うのかもしれない。
 穏やかに瞬く無数の輝きが、真っ黒な天球を飾っていた。何色と言えばいいのだろうか。白のような銀のような、そうかと思えばそれぞれ少しずつ違う。形容しがたいその色合いが、チラチラと燃えていた。
 ざくり、と足音が止まった。わたしの声につられたらしく、セブルスも空を見上げた。
 彼もまた、わたしと同じように息を呑んだようだった。

「………」
「すご……」

 わたしは少しはしゃいでしまって、何も考えず無意識にそう呟いていた。
 セブルスは何も言わなかったが、視界の隅で僅かに頷いたようだった。
 わたしにはそれだけで十分で、そんな些細なことでこれほどに満ち足りた気分になる自分を知った。
 何故かしら微笑みまで浮かべている自分に驚きつつ、そのまま星を見上げていた。
 2人の間に横たわる距離は、たった大また3歩。その気になればすぐにでも触れられる距離にいられることが、どうしようもなく嬉しかった。触れられるけれど触れる気はないことが、ちくりと胸を刺したが気になるほどではなかった。
 ちらりと彼の横顔を盗み見た。
 真っ黒な瞳が真っ直ぐに、真っ黒な天球を見ている。夜の似合う奴だな、と思った。むしろ夜みたいな奴だ。
 可笑しくて笑えた。でも声をあげて笑うことはご法度に思えて、笑みを深くしただけになった。
 セブルスのことで笑えるなんて、久しぶりのことだったから嬉しかった。
 隣に立つセブルスは、わたしの笑みを訝しげにちらりと見たけど、わたしは気付かなかったふりをした。

 わたしたちは黙って星空を見上げていた。
 朝になれば消えてしまう光だけども、星の輝きは儚くもなく切なくもなく、力強く見えた。
 星の光はわたしの胸に染み込んだ。小さな雪玉を転がしてどんどん大きくするみたいに、力が形づくられていくような気がした。
 それも春が来れば溶けてしまうような一時的なものかもしれないけど、泣くのをこらえるだけの力にはなりそうだった。

 白い息が2人分。
 そう。わたしたちは生きている。
 だから乗り越えてゆける。悲しみを乗り越えられるなら、長い時間だって乗り越えられるに違いない。
 わたしはそんな気がした。
 他の誰かに恋をしてしまったなら、そのあとのことはそのときに考えればいい。
 だって今はまだこんなにもセブルスに恋してるんだから、そんなこと知ったこっちゃないんだ。
 この気持ちを失くしてしまったときに考えよう。今はこの悲しみを大事に抱えて頑張ろう。いつかは2人で笑い合えるなら、握り締める手が傷つくのも悪くはないような気がした。傷ついた手を見せて、慰謝料を請求するのも面白いかもしれない。呆れながらもアイスぐらいは奢ってくれそうだし。

 わたしたちは黙って雪の中に佇んでいた。



 遠くで笑い声がして、わたしたちは同時に星空から目を外した。笑い声は少しずつだが近づいているようだった。
 一瞬ばちりと目が合った。
 たった一瞬のことだったが、それだけでお互い十分だった。別れの言葉と同じだけの価値を持った一瞬だった。
 再び歩き出したセブルスの背中を、じっと見送った。

「Merry Christmas」

 呟いたのは無意識だった。なんて言えば嘘になる。
 約束を破ってしまったような罪悪感はあったけど、仕方がないような気もした。
 セブルスは少しの間のあと、足を止めて首だけ振り返った。
 いつもの仏頂面で、頷いた。

「ああ…、お前もな」

 そして、今度こそ見えなくなった。




 わたしは笑い合うハッフルパフ生の数人が横を通り過ぎても、動けないでいた。
 目を閉じて、あの仏頂面を目に焼き付けておこうと必死だったのだ。
 星の光が瞼にも染み渡り、わたしの瞼にしっかりとあの顔を刻んでくれたような気がした。




















2004/12/16

 やっと書けた…!