僕は、ぶらぶらと校内を散歩していた。
 みんなと共に無事7年生に進級した僕は、ここ毎日試験勉強に追われていた。
 リリーの鋭い視線による促しを無視するわけにはいかず、友人たちに交じって必死に羽ペンを動かすのが常だ。
 しかし、たとえ愛する僕の運命の女性であるリリーに、どんな宝石よりも綺麗な瞳に心奪われるような炎を宿して強く鋭い視線で見つめられるのが好きでも、僕だってたまには休息が欲しいと思う。だから今日は、罪悪感にさいなまれながらも恋人の目を盗んで抜け出してきたのだった。次の授業までには戻らなければならないが、サボってしまうのも手だと思う。
 取りあえず、人の目のあるところに留まるのはやばい。
 僕はまあ自慢じゃないがとてもすごくびっくりするぐらいしさまじく有名でたぶん校内で僕の名前を知らない人はいないだろうから、リリーが僕のことを心配して探しに来たりすればすぐに見つかってしまうに違いない。彼女も結構顔が広いから、2・3人に聞き込み調査をすれば十分だ。おそろし…ゲフゲフ…やっぱり僕のリリーはすごい女性だ。世界一だ。
 それを抜きにしても人のいないところでゆっくりしたかったから、僕は人目を避けるようにして歩き続けた。
 自然、足は外に向き、ハグリットの小屋から少し離れた庭を横切って、比較的まだ学校に近い辺りの禁じられた森へと入っていった。
 禁じられた森といえば、誰も近寄らない領域だ。無断で足を踏み入れることは、校則でも禁じられている。(だから禁じられた森なのか?) だが僕、というか僕たちは、リーマスが人狼であるという諸事情から、毎月満月の夜になると朝までこの辺りをうろついている。だから、特に校則がどうとかいう理由で、躊躇うことはなかった。今更、って感じだ。人かもしくは危険な生き物に見つかりそうになったら、鹿になって逃げ出せば良い。
 それでもまあ、あまり奥へは行かない方は良いだろう。万が一ということもある。
 そこでふと、そういえば近くに開けた場所があったことを思い出した。
 何故かそこにだけは木々がなく、どんな理由だか知らないが(おおかた日の光が当たるからか身を隠す場所がないからだろう)危険な生き物も寄り付かなかった。
 動物の姿とは言え、リーマスと追ったり逃げ回ったりを繰り返すのは正直言って疲れる。それに加えて、翌日は普通に授業のある日も多いので、交代でそこで仮眠を取ることにしている。人狼姿のときのリーマスは、疲れを知らないのか一晩中森を駆け回る。
 人の姿でそこに行くのは初めてだが、誰もいない上にゆっくり日向ぼっこができる場所といえばそこぐらいしかない。
 できるだけ森の生物に気付かれないよう、音を殺して歩いた。
 ときどき足の下で小枝の折れる音が静かな森に響き渡る。その度に足を止め息を殺して耳を澄ませたが、特に危険な気配はしなかった。
 間もなく、うねるような木々の間から、空き地が見えてきた。
 ほっと力を抜いて、最後の木立を掻き分けようとしたときだった。

「ちゃんと説明してくれよっ!」

 悲鳴に似た人の声に、びくりとして足を止めた。
 誰もいないと決め付けていたものだから、迂闊にも何も確認せずに足を踏み出そうとしていた。
 さっと物陰に身を潜め、木立の間から様子を窺った。
 …良かった。どうやら気付かれなかったようだ。
 初め頭に浮かんだのは、「大方、カップルの痴話喧嘩だろう」という考えだったが、よく見れば2人とも男である。
 「うわあ男の痴話喧嘩かあ?」と小さく呟いて顔を引き攣らせながら笑ったところで、片方が口を開いた。

「どういうつもりなんだい? どうして突然、僕なんかに遠く離れた外国から留学の話が降って沸いて来るんだい? それとも何? こんな不自然なものに、僕が簡単に騙されるとでも思ってたのかい?」

 矢継ぎ早に紡がれる問いの数々。留学? それが相手にどう関係してくるのだろうか。それはそれほど激怒するほどのことだろうか。
 僕はじっと目を凝らしてはっとした。胸元に銀と緑のネクタイが見える。よく見れば、スリザリンのクィレルだ。
 ではもしかすると、相手は。
 僕は少し体を移動させて、2人の姿をもっと見られる位置を探した。
 やがて、やっとその絶妙な場所をつかみ、無理のない姿勢を取った。
 スリザリンにしては温厚なクィレルが、激情にかられて声を荒げた。悔しそうに顔を歪めたのが見える。

「黙ってないで答えてくれ、セブルス!」

 やはり。
 友人であるはずのクィレルを、感情のこもらない目で黙って見ているのは、我らのにっくきスニベリー、セブルス・スネイプだ。
 僕は首を少し捻って、もっとスネイプの顔をみようと目をすがめた。
 奴はあんな顔をする男だっただろうか。あんな……何もかも諦めたような顔をする男だっただろうか。

「とにかく落ち着け、クィリナス。私には一体何を言っているのか、まったく分からない。留学ができるんだろう? 前に一度色々な国を歩いてみたいと話していたし、行ってくれば良いじゃないか。一体それが私に何の関係がある?」

 低く静かな声で、スネイプは宥めるように言った。
 まったく不本意だが、その問いは正当なものであると僕は思った。
 たかが旅行券に、何をそんなに息巻いているのか、やっぱりスリザリンはよく分からない。
 もっとよく見ようとしていて首を伸ばした僕のように、太陽もその様子をよく見ようと雲の中から顔を出した。
 さあっとカーテンが開けられた部屋のように、空き地全体が日光に照らされた。
 おかげで2人の表情がよく見える。

「僕はっ…僕は、落ち着いているよ、セブルス。それに、自分の立場も分かってる。僕を甘く見ないでくれ。この一件がルシウス先輩の指示で僕に届けられたものだってことぐらい、僕のつてだけでも調べられる」
「……そうか」

 先程より幾分落ち着いた声でクィレルが告げたことにも、スネイプの表情は変わらない。
 僕には話の内容に含まれた意味がまったく分からないが、どういうことだろう。
 “ルシウス先輩”とは……、マルフォイ家の跡継ぎの、あのルシウス・マルフォイだろうか。
 確かマルフォイ家は闇側に回ったと聞いているが、もしや何か関係があるのか。
 僕は何か闇側にとって不利なことを聞けるかもしれないと思い、ますます会話に集中した。もしかしたら、ダンブルドアに知らせれば有利な情報を得られるかもしれない。
 しかしマルフォイみたいな奴とまだ関わっているということは、この2人もそちら側の人間なのかもしれない。
 まあ、スリザリンはみな敵だと思って正解だろう。胸糞悪い連中だ。
 闇の帝王のことを考えると、その残虐性への怒りが湧き上がる。だが、それに少なからず畏怖が混じっていることも、否定できない。
 努めて心を落ち着かせながら、できるだけ怒りを殺して相変わらずにらみ合ったままの2人を見つめる。

「…あの人も、お前のことを心配していたからな。お前、夏休みの間も体調を崩していただろう? きっとストレスが貯まっていたんだ。一度、新しい土地で生活してみるのも、悪くないんじゃないのか? 回りくどいやり方だが、お前の体調を心配したあの人なりの親切だろうさ。有り難く受け取っておけ。卒業後の進路だってあいま」
「僕が言っているのは、そういうことじゃない!!」

 叫ぶようにスネイプの言葉を遮ったクィレルは、衝動的にスネイプの胸倉を掴んだ。
 それから続けようとした言葉を堪えるように間を置く。
 振り上げた握り拳が震えていた。
 胸倉を掴まれたスネイプは、片眉を上げただけで無反応だった。
 仮にも友人と呼べる人間に激怒されて、よくもあそこまで冷静でいられるものだ。
 クィレルはふっと力を抜いて、手を離し、腕を下ろした。

「君が、ルシウスと共にあちらに回るのは、これのためなんだね?」
「………」

 問いに、スネイプは答えない。
 やはりスネイプは闇側に回るのかと、思わず顔を歪める。分かっていたことだが、そんな奴と同じ空気を吸っていたなんて不愉快極まりない。
 クィレルは震える声で続けた。

「僕を争いから遠ざけるために、闇側に回るんだろう? 帝王側にも騎士団側にも回らないですむように、二派の戦いから遠く離れた海外に逃がすのと引き換えに、君は死喰い人に……そういう契約をルシウスとしたんだろ……っ!」

 肩も、声も、握り締めた拳も、僕の目にも見えるほど大きく震えていた。
 殴ろうとする衝動をなんとか理性が留めているとき、あんな風に拳が震えることを僕は経験上知っている。
 クィレルもそんな気持ちなのかもしれないが、他人である僕には断言できない。俯いた顔は長い前髪で隠されている。もしかしたら、泣いているのかもしれないと思った。

「そうなんだろう、セブルス。僕の考えは、間違っているかい?」

 クィレルから笑ったような気配がした。
 スネイプは相変わらずの無表情で、そんな友人の肩を見ている。
 虚無のような黒い瞳に、ぞわりの背中が粟立つのを感じた。あれが本当に、あの情けないスニベリーだろうか。まったくの別人のような気がしてならなかった。そうであって欲しいというような、無意味な願望を否定することができない。

「クィリナス、言っただろう。これは、私の意志だ。お前のことは関係ない。ただルシウスと簡単な下準備をしていたときに、できるだけお前を遠ざけることはできないものかと、そういう話になった。そして、それを私の知らぬところでルシウスが実行に移した。それだけのことだ。それともクィリナス、お前も我々に加わって闇に身を染めるのか? 我々は逆らう者ならば、罪のない人間も女も子供も、躊躇いなく殺す。その覚悟がお前にできているのか?」

 冷淡とも言える口調に、クィレルは反論できなかった。
 僕は自分の呼吸が止まってしまっているのに気付いたが、どうしても吐息をつくことができなかった。
 僕の頭は、今までにないほど混乱していた。
 スリザリンの生徒達は、みな己の意思で闇側に身を置くのだと思っていた。
 だが、まさかこれが実態?
 混乱する僕を置いて、スネイプは先程より幾分穏やかな声で続けた。

「もしも私がお前を闇へと誘えばお前は断るだろう。私とルシウスはそう踏んだから、誰かの手が伸びるその前にお前の逃亡させようとした。それだけのことだ。私はお前を守るために行くのではない。私はお前のことがなくても、ルシウスを一人にさせるつもりはなかった。私たちはただ……」

 スネイプは一語一語を噛み締めるように言った。

「お前にエリアスの二の舞を踏ませたくなかっただけだ」

 エリアス? エリアス……ああ、エリアス・ブランディバックのことか。
 確かスリザリンの癖に、他寮にも人当たりの良かった変り種で、マルフォイの親友だった男だ。
 そういえば去年、ブランディバック親子が惨殺されたという記事が、新聞に出ていたのを思い出した。
 ではブランディバックは、死喰い人の誘いを断ったから殺されたというのか。
 なんて…理不尽な。

「分かってる」

 僕は目を逸らした。
 見ていられない。
 足元の小枝を睨みつける僕の耳に、悲痛なクィレルの訴えが届いた。

「僕にだって分かってるんだ。僕が誰かを守るために誰かを傷つけるなんてできない、弱い人間だってことぐらい、誰よりもよく分かってる。だけど、僕だって」

 僕は馬鹿だ。
 傲慢で、知ったかぶりで、世間知らずなお坊ちゃま。
 どうして僕は、自分の都合でしか、世の中を見ることができないんだろう。
 誰かの立場と気持ちを、見極めることができなかったんだろう。

「僕だって、君やルシウス先輩やエリアス、それに他の友だちや家族を大切だって思ってるんだ。それなのに君は僕にだけ逃げろって言うのかい? 君たちみんなを見捨てて、一人だけ安全な場所に隠れてろって? 臆病者になってでも、僕に生き延びろってこと?」

 囁くような呟きを、きれいな太陽の光が照らしている。
 人の悲しみを照らし出して、何になるっていうんだ。こんなときぐらい曇っていれば良いものを、生憎頭上は憎らしいほどに晴れ渡っていた。
 こんなところで盗み聞きしてる僕という汚らしい男だけ、こんな木陰に隠しておいて、闇に浸る男や悲しみに溺れる男を照らすなんて、太陽はなんて不平等なんだろう。

「僕は何の力にもなれないと…?」

 掠れて消えて言った問い。

「そうだ」

 感情のこもらない、いや、感情という感情が全て押し殺された即答。
 今誰かが僕を見つければ、僕の頬が赤いことなど一目で見抜かれたに違いない。
 僕は惨めで仕方なかった。

「生きろ。戦う人々にも死ぬ人々にも、罵詈雑言にも背を向けろ。逃げて逃げて全てが終わるまで生き延びてくれ。それが」

 僕は唇を噛む。
 僕は弱い。あのスニベリーなんかよりずっと幼い、馬鹿野郎だ。

「お前が私たちにできる唯一のことだ」







 クィレルの走り去った音を聞きながら、僕はこれからどうするべきか迷った。
 スネイプが去るのを待って、気付かれないよう逃げ出そうか。
 いや、もしかしたらスネイプはこちらに向かってくるかもしれない。それならば、先に動いたほうがいいかもしれない。
 こんなところで盗み聞きをしていたなんて、気付かれたくない。普段なら厭味の1つでも言ってやろうと、近づくのは自分の方なのに。
 憂鬱な気分で次の行動を迷っていると、

「いつまで隠れているつもりだ。さっさと出て来い、ポッター」

 低く冷たい声が、僕の名を呼んだ。
 気付かれていたのかと愕然としたが、出て来いと言われて隠れているのも変なので、立ち上がった。
 スネイプは真っ直ぐに僕を見ていた。

「いつから気付いてた?」
「貴様が阿呆面でこちらに飛び出そうとして、慌てて隠れた辺りからだ」

 つまり最初からか。
 ……やっぱり嫌な奴だ。僕がどんな気持ちで隠れていたのかも、お見通しだったのかもしれない。

「気付いててあんな話をしたのには、意味があるのか?」
「意味があればどれだけいいか」

 予想に反して、スネイプは目を逸らした。

「じゃあ、何でわざわざ自分が不利になるようなことを喋ったのさ」
「貴様の卑怯な行為を指摘するより、クィリナスの将来の方が優先事項だったから。それ以外に理由があるか?」
「僕が誰かに話すかもしれないとは、考えなかったのかい?」
「人の会話を盗み聞きしていたことを、周囲に言いふらすのか? 貴様が私を目の敵にしていることぐらい、誰だって知ってる。貴様の言葉だけで行動を起こすのは、愚直なブラックぐらいだろう。物的証拠がない限り、魔法省も騎士団も動かんぞ」
「…オーケイ」

 クィレルとの会話で疲れているからか、スネイプは無気力だった。
 憂鬱そうに溜息を吐いてどさりと腰を下ろし、ローブのポケットに手を突っ込んだ。
 杖でも取り出すつもりかと勘ぐったが、スネイプが取り出したのは握り拳ほどの大きさの、白い箱だった。
 煙草だ。
 中からスッと1本取り出して口に咥え、別のポケットから取り出したマッチを擦って火を点けた。
 スネイプが煙草を吸うなんて意外だった。
 僕は立っているのも馬鹿らしくなって、少し距離を置いたところに腰を下ろした。内ポケットから、似たような白い箱を取り出す。

「火、貸せよ」
「御免だな」

 一刀両断。
 僕は僅かに笑って、早く、と手を差し出した。

「ケチな男は女に嫌われる。ちなみに男にも嫌われる」
「貴様に嫌われるなら本望だが」
「…ごちゃごちゃ煩いな、さっさと寄越せよ。僕の健康を案じた優しい恋人にライター取り上げられたばかりなんだ」

 スネイプは渋々マッチを1本投げて寄越した。
 発火剤がこびり付いただけの軽い木の棒は、少しだけ狙いから外れたところに落ちた。
 僕はそれを拾って、靴裏で擦り火を点けた。
 箱ごと寄越さないなんて、やっぱりケチな男だ。きっと一人暮らしをしだしたら家計簿とかつけだすタイプだな。うん。

 銘柄の違うそれぞれの煙草の匂いが、混じり合ってぷんと匂った。
 清々しい森の一角の空気を、下らなく意味もない嗜好品で穢す。中々悪くない善行だ。我に幸あれ。奴に不幸あれ。

「お前さ…」
「忘れろ」
「ああ?」

 特に強い口調だったわけでもなかったが、スネイプの声には僕を黙らせるには十分な何かがあった。
 僕が疑問符を浮かべているのを冷たく一瞥して、スネイプはゆっくりと紫煙をくゆらす。

「私の思考もその過程も目的も対人関係も、全て頭から追い出せ。今聞いたことはすべて忘れろ。何も考えるな」
「…できると思うか?」
「できるかできないかなど聞いていない。忘れろ、と言っているんだ」

 スネイプは軽くつっと煙草を振って、灰を落とした。
 僕は咥えた煙草を指と指の間に戻して、肺の中の見事に汚染された空気を大気中に排出した。

「貴様たちが最も重要視しなければならないのは、私たちの事情ではない。行為そのものであり、その結果だ」

 僕は気さくでも無愛想でもない、いい相槌が思い浮かばず黙った。
 それは敗北を宣言するのと同意の行為のような気がして、僕は煙草をまた咥えなおして返答しない言い訳をつくる。
 奴はそんなこと気にも留めず、静かに正面を向いている。奴の手が動き、煙草が上下した。

「貴様は、何故グリフィンドールとスリザリンがここまでいがみ合うのか、考えたことがあるか?」
「…闇側と騎士団側の、対立があるからだろう」

 計らずともやや挑戦的な口調になった。
 それが我ながら何となく不愉快で、肩の力を抜こうと少し長めに息を吐いた。
 スネイプは自分で尋ねておきながら、興味のなさそうな横顔で小さく息を吐いた。

「まあ、グリフィンドールのボス猿の答えだということを考慮すれば、ギリギリ及第か」
「猿じゃない。鹿だ」
「黙れクズ。今はそんなことどうでもいい」

 自分からふってきたくせに、なんだその言い草は。
 ノリの悪いやつだ。

「2寮の対立は、闇と騎士団の対立の縮小版……今この瞬間にもどこかで行われている殺し合いの縮図そのものだ」

 なんとなく、煙草を吸う手を止める。
 別に相手の言葉がショックだったとか、そんなわけではない。ただ気分的に、吸いながら聞く内容ではない気がした。

「憎しみや恨みは、人から人へ、親から子へ、子から親へと感染する。親と親が殺し合いをするほど憎み合っているもの同士が、たとえ何年も同じ空気を吸い同じものを食べ同じ授業を共に受けたとしても、仲良しこよしでいられるはずがない。そして私たちはいずれ、大人の役目を引き継いで定められた側に加わり、杖を握る。それを昔は何度も廊下ですれ違っていたはずの相手に、憎しみを込めて振り下ろすんだ。何も知らされていない子供だって、知識としては理解していなくても本能的にそれを悟っている。だからこそ、いつか精神的に自分を傷つけることがないよう今から一線を引いていがみ合っている。自分の行いは正しい。そして相手は敵だ。それなら、敵イコール悪となるわけだ。短絡的な思考だが、いざ相手を殺す時躊躇わなくてすむし、ひいては何かを守ることにも繋がる。多くの犠牲を生み出しながら、それに気付かないでいられる。こうして私たちの平穏無事な学校生活は、脆い足場でバランスを保っているわけだ」

 僕やシリウスが騎士団側に回ることは、内々にだが既に決定している。これは僕らの意思だ。特にシリウスは、血筋や家系を考えれば辛い立場にあるだろうに、それでも強い意思を見せている。もしかしたら彼もまた、ただ強がっているだけかもしれないけど。だからだろうか。彼はスリザリンに対して、僕でさえ怯むほどの過度な憎悪を抱いている。
 勇敢なるグリフィンドールと言えど闇の帝王の存在は強大で、どっちつかずな立場のまま怯えている家もある。そんな家の子供は、スリザリンに近寄ろうとはしない。あからさまな嫌悪を示すではなく、ただひたすら関わりを拒絶していた。
 それと同じだ。

「人は何かを守るためなら、どこまでも醜くなれる。誰に罵られようと守らなければならないものが、まとも生きている人間ならば1つや2つはあるものだ。だから私たちは、相手に家族があろうが友人がいようが恋人がいようが、この手で人を殺めることができる」

 ただ何も失いたくないだけ。
 何も奪われたくないだけ。
 奪われるくらいならいっそ、先に相手から奪ってしまえばいい。

「私もそうだ。私はもう何も失いたくない。だから貴様らの事情など考えず、あの方に殺せと言われれば躊躇わず貴様を殺す。お前が何を守るために戦うのかなど、知ったことではない。私には関係ない。そうだろう? 殺すか殺されるかというこの平穏な生活の中で、貴様のような人間が私の胸中など考えて何になる。貴様が私を殺すのを躊躇っているうちに、私は貴様の命も貴様の守りたいものもすべて奪い破壊する。貴様はそれで満足か? 優先順位をよく考えろ。私は最下位にいるはずだろう」

 僕はまた煙草を咥えて、返事を拒否する。
 奴は馬鹿にしたように鼻で笑い、白い小さな筒に健康に良くない成分を求めた。吸うと、筒の先端で赤い火が葉をほんわりと灰にした。

「お前はどうなんだよ」

 僕の口から出たのは、そんな言葉だった。

「お前の優先順位、は最下位じゃないだろ」

 スネイプは一瞬凍ったように動きを止めたが、驚くべき速さで解凍作業にかかった。
 何拍も間を開けずに解凍を終えたスネイプは、曲げた膝の上に肘をのせ、煙草をはさんだままの手の首の部分を額に押し付けた。
 一瞬笑っているように見えた。

「犠牲なしには何も守れない。だから私は優先順位を考えるのを放棄した。私は順位よりも数を優先する。しかし、お前は私のように苦しみたいのか? 私はたとえそれが貴様だろうと、自分の二の舞を踏んで無様に足掻く者の姿など望まない」

 こちらを見た瞳は、暗いベールの向こう側からこの意味が分かるかと問ういていた。
 この想いが想像できるかと。
 僕は濁った息を全てしぼり出してから、空を仰いで言葉を探した。
 このセブルス・スネイプという我が人生最悪の嫌悪の対象は、今この僕に惜しみなく憎悪と嫌悪を振りまきながらも、嘘も誤魔化しもなく正直に話している。だから僕は、それ相応の正直な気持ちを返さなければならない。それはある種の心地よいプレッシャーとなって、僕の頭と口を動かした。

「僕はお前ら闇側の人間やスリザリン野郎なんかより、ずっとずっと大切なものがある。その優先順位をよく分かってるから、僕はお前達の思考も過程も目的も対人関係も、考え理解しようとした上で、躊躇わずに杖を振り下ろしたい。そうでないと僕は、お前らと同じ踏み台に立っていることになるじゃないか。僕は犯罪者になれないし、ならない。守るものがあるからこそ、犯罪者でなく自分の正義を貫くものとして生き残らなきゃならないからな。これからも守りたいものはどんどん増えていくはずだから、僕はこの腕で守れる限りの人を守る。恋人も友人も、いつかできるだろう家族も、命を懸けてでも守り通してみせる。僕は僕自身が、それをやりとおせる人間だと信じてるんだ。だからお前とクィレルの会話やその思考を、忘れるなんて約束はできないし、しない」

 手元で、バランスを保ちきれなかった灰が、煙草の先からぽろりと落ちた。
 いつのまにか翳っていた太陽が、再び顔を出して僕らを鬱陶しいほどに照らした。
 スネイプは僕を見る闇色の瞳を、眩しそうに細めた。

「偽善だ」
「偽善で結構。それで誰かを守れるんなら大歓迎だね」
「貴様は愚かだな。偽善はただの気休めでしかない。結局は誰かを傷つけてしまうんだ」
「お前がお前の意思で行くように、僕の道は僕が決める。スリザリンのスニベリー野郎には関係ないことだろ。何とでも言えばいいさ」
「……馬鹿、阿呆、考えなし、能なし、猪突猛進、腐れ外道、丸眼鏡、ヒモ野郎、アッシー、蛙以下」
「わーもう黙れ煩い何も言うなイヤミーめ! 何とでもっていうのは撤回! お前口悪すぎ! 何が何でも傷ついたぞ俺。…特に最後の3つ」
「それは良かった」
「うわ性格ひねくれてやんの」

 スネイプは、先程の表情が嘘のように、いつもどおり性格の悪そうな顔で小さくせせら笑った。長い指の付け根近くで挟んだ煙草を、また口元に持っていく。口を覆うようにして吸う癖があるらしい。汚濁した白い吐息が、隙間風のように細く鋭く見えた。
 僕は青々とした空を見上げて、この息が雲になればいいのになんて下らないことを夢想しながら、溜息と一緒にゆっくりと息を吐く。

「貴様はそれで後悔しないのか」

 ぼそりとスネイプが問う。
 そちらに目も向けず、僕はできるだけ不敵に笑ってみせる。

「しないね。むしろ僕の性格からすると、ここでお前の意見に賛成して、全部忘れたふりして苦しむ方がいつか後悔するな」
「厄介な性格だ」
「お前にだけは言われたくないね」

 くっくっと笑うと、スネイプは不機嫌そうな顔をして、短くなった煙草を地面でもみ消した。
 その辺りにぽいと投げ捨てて、ごろりと横になる。

「おいおい、お前授業どうすんの」
「フケる」

 へえぇ、スニベリーが授業をサボる時代が来たか。世も末だ。
 僕はまた新しく取り出した煙草を咥え、まだ煙を放っている短くなった方のそれに先端を押し付け、火を移した。
 マッチを擦る音がして、見るとスネイプも新しいのを咥えたところだった。
 寝転んで吸うなんて、灰が顔に落ちてきて危なそうだが、まあそうなったらそれはそれで面白いので何も言わないでやった。
 僕って親切。

「人間、忘れたいことがあると、やたらと煙草吸いたくなるんだってさ。お前知ってた?」

 スネイプは答えない。
 僕は意地の悪い気持ちになって、同じように意地の悪い太陽を仰いだ。

「お前、忘れたいことでもあるんじゃないの?」

 スネイプは、右手に持っていた煙草を左手に持ち替え、空いた手を懐に持っていった。
 出したのは杖でも煙草の箱でもなく、懐中時計だった。
 奴はカチリと音を鳴らして蓋を開き、中の針の位置に目をやる。そして少しの間のあと、

「忘れたくないことばかりだ」

と答えた。
 僕は「ふーん」とだけ答えて、また煙草を吸い、離した。
 咳き込みそうなほど嫌な空気が、どうしてこれほど心地よいのかは知らない。
 僕は少しだけ考えて、もう1つだけ問うことにした。
 どうしてそんなことを問おうとしたのかは分からなかった。ただなんとなく、聞いておこうと思ったのだった。


「死にたいのか?」


 スネイプはしばらく間をあけて、

「愚問だな」

と、笑った。
 太陽が眩しいからか、目を閉じていた。
 あの瞼の裏は、何色が見えているんだろうか。
 僕はそんなことを考えて、同じように空を仰いだまま目を閉じてみた。

 視界は、黒でも青でもなく、赤だった。
 どこかで見たような色だったが、思い出せなかった。




















2004/11/27

 7年生編。
 なんてことだ。が出てきてない。
 しかもどうしてこの2人がこんな仲良さげに語り合ってるんだろう?
 うーん…謎…。